6.
歩をひとつ進めるたびに、サポート班の照らす灯りからは遠ざかり、闇の帳が一枚、また一枚と重なって濃くなっていく。
とは言ってもアラタの目には、照明は必要ない。彼女の見る世界には常に、彼女を中心として炎の鎖が広がって、青く明滅を繰り返しながら世界と自身とを繋ぎ止めている。
だが、それでもこれらの刻印は、安心や温もりとは無縁のものだ。
その輝きに、わずかな乱れが生じた。
よくよく注視すれば、わずかに床に水が張っていた。
ぴちゃり、ぴちゃりと水音を立てて進めば、運動靴を浸すその水量は増していく。
吐息をこぼしながら、それでも彼女は歩みを止めない。
水嵩がくるぶしの辺りにまで達した時点で、開けた場所に出た。
工事用の資材置き場として拡張されたであろうその場所は、本来であればテナント店や通行人で賑わう中央ホールになり得ただろう。
だが、今は未開発であり、ある種の廃墟や遺跡だ。
だが、水道など通じているわけがない。漏水するほど、基本構造がガタついているようにも見えない。なのにこの水はどこから……?
中ほどまで進むと、アラタの背で派手な水音が立った。
顧みるまでもなく、頭上から落ちた誰かが出入り口に立ちふさがった気配があった。
……否、気配は、複数、四方を囲っていた。
「楢柴アラタ、『吉良会』北陸管区所属の『象徴化現象』の保持者。ランクはAプラス。その優れた能力と判断力を評価され、一、二年後に中央総本の幹部候補が内定されている」
前方から、声が聞こえた。よく通る、清潔感のある澄んだ声。青年らしいハリはあるが、大人と呼ぶには多少ためらわれる、甲高さがある。もう一回り歳を重ねれば、教師や政治家に向きの声音になるかもしれない。
「曰く、ある災害に巻き込まれた彼女は、それをきっかけに世界の接続を観ることができるようになったという。電子回路、ネットワーク回線、一説によれば人と人との絆や縁というものまで。そして彼女にはそれを操作するすべがあるそうだ。もしそれが事実ならば、あらゆるものがネットワーク化した現代社会においてこれほど脅威となる存在もいない」
そしてその声には覚えがあった。
先のミーティングで見た、あの動画に入っていたうちのひとつ。
そして、オブジェの上に立っているその影は、暗所ゆえにフルフェイスのメットは外し、端正な好青年の姿をさらしていた。波打つ黒髪。リムレスのメガネ。紳士的なたたずまい。ありとあらゆるアクセントが洗練されている。
「だが、そういう能力には微細なコントロールが要求される。ちょっとした環境の変化から、正確な認識や操作ができなくなる。だからこそのこの場所だ。ありとあらゆる線から隔絶され、水鏡で覆われたここは、君にとっては死地だ。……悪いがその能力、封じさせてもらったよ」
なるほど、とアラタは小さく呟いた。
そこには様々な意趣が込められていたが、その大部分を占めていたのは、
ーーやっぱり罠で、しかも自分を釣り出すのが目的ときたか。
という念だった。
身構える彼女の前で、画面上では『魔法陣』のメットをかぶっていた青年は、左手を掲げた。
「現状、君に危害を加えるつもりはない。いつでも奇襲を仕掛けられたし、こうして素顔を晒したのも、肝胆を照らして語り合うためだ」
「……は?」
一瞬、言葉の意図が飲み込めずにアラタは思わず聞き返した。というのも、彼以外の気配からは、明確な敵意を感じさせたからだ。
だが、そんな彼女や、身内の様子など気にもかけず、指先をコンクリートの壁に這わせながら青年は言った。
「この場所を見たまえ。大人たちが利権を求め、醜く争い、そうやってできたのがこの虚の穴だ。何かの役に立つわけでもない。本来なら工事に必要さえない。ただ地盤を緩めて本来の街や自然の在り方を破壊するだけの空間。そんな連中やこんな場所が、いささかこの世界には多すぎる。僕らが彼らの意識を変革させる。それこそが、特異な感性を得た僕ら新人類の為すべき業ではないのか」
なお続こうとすつ彼の言葉をアラタは空気を含んだ拍手で妨げた。
「ご高説どうもありがとさん。で、そんなごりっぱな志で目指したのが殺人ユーチューバーか?」
アラタの揶揄に、彼を含めた四方の怒りが膨れ上がった。
顔こそしかめたものの、青年は紳士のマスクを崩さない。かぶりを振りながら、答えた。
「確かに残虐な方法ではある。だが、過激なデモンストレーションの方が、衆目を引く。次なる悪事や汚職に対する抑止となりうる」
「そもそも、我々は綿密な調査のうえ、有罪と断言できる者たちのみをターゲットとしている」
青年の言葉を、リムレスのメガネをかけた細面の男が継いだ。この声にも憶えがある。たしか、『マーチェント』と呼ばれていた。
「それにもう見たんでしょお? 『スーパーヒーローチャンネル』の私たちの活躍。再生数、評価数ともに急・上・昇! それこそが、私たちの正義が肯定されてる証じゃない!」
「たしかにザンコクだやりすぎだーとか言われることもあるけどなァ、結局そういう連中も、腹の中じゃオレらみたいなのが必要だって考えてるに決まってんだろっ!」
右側面と背後、両方の声も同調を示す。
彼らの意に背を押されるように、リーダー格のその青年はアラタへと歩み寄り、手を差し伸べた。
「楢柴。君だって、多くの戦いを経て理解しただろう? 下衆て身勝手な大人たちを救ってやっても、奴らは感謝などしない。たとえその場しのぎ的に言ったとしてもやがて忘れ、体よく我々を利用してくる。現に、君以外の『吉良会』はどうして突入してこない? 何故危険を承知で君を送り込みながら、援護どころか連絡ひとつよこしもしない? ……あるいは、君もろとも、我々を爆破するつもりかもしれない。そんなヤツらのために、君が命を張る理由がどこにある」
声を低めて誘う青年に、アラタはふぅと一息を吐いた。
「一理ある」
と笑む彼女に、青年はホッと安堵したように表情をほころばせた。
「『パティスリー古都』の蜂蜜ロール・上、一本」
そんな彼に、アラタは短く答えた。
「…………あ?」
背中から、低い声が聞き返した。
両手をかかげてヒラヒラと舞わせながら、アラタは肩をすぼめて言った。
「いや、今訊いただろ? 戦う理由だよ。美術館の隣の菓子屋の看板メニュー。『上』はなかなか一高校生には手が出しづらい値段でな。それを他人におごってもらうってのも、中々に乙なもんだ」
背後で、金属音がした。
音の質からして、刀剣の類ではなさそうだ。円筒状のもの。おそらくは鉄パイプか。
左右に展開した敵の男女も、苦虫を二匹も三匹も噛み潰したような顔をしている。
正面へと視線を戻せば、頭が痛そうに眉間にシワを寄せていた。
「……つまり、君は何か? そのバウムクーヘンのために、大人たちに媚を売るために命を安売りすると?」
「バウムクーヘンじゃなくてロールケーキ。あと、それだけじゃない。バックに組織があると、色々と保証も特典もあってな」
「楢柴、僕らは君を誤解していたようだ。そんな俗な理由で飼い犬に成り下がるか! 選ばれし超越者でありながら!」
「とんでもない。アタシは一般人だよ」
アラタは不敵に笑ってみせた。
「せめてそうありたいと、願ってる」
膨れ上がった殺気が空間を揺らしたか。
どこかで剥がれ落ちたコンクリート片が落下し、重い水音を鳴らした。
「それにおたくらが言うところの下衆で身勝手な大人たちが、自分なりに世の中や組織を上手いこと回してこうと頑張ってる姿を何度も見ちまってるしな。その事が、アタシにゃ尊く見える。……てな塩梅で、答えはノーだ。期待に応えられなくて悪いが」
直後、アラタは言葉を切って口を閉じた。横に跳ねた。彼女のいた空間を、鉄の一振りが切り裂いた。
「交渉決裂……ってことで良いんだよなァ『ワンズ』」
背後から襲ったのは、金髪をとがらせた、若さというよりかは幼さを残しただった。
肩にかついだ鉄パイプには、宿主の凶猛さを象徴するかのごとく、剣の刻印がびっしりと巻き付いている。
そしてわずかにかすめたジャージの袖口は、それこそ鋭利な刃物で斬り付けられたかのように、繊維が断裂していた。
呆れたように、『ワンズ』と呼ばれた正面の青年は吐息をつく。
その真意はどうあれ、金髪男はそれをGOサインとして受け取ったようだった。
「ほら見たことか。だからいつも言ってんだろ? オレらの正義を言って聞かせるには、こっちの方が手っ取り早いってなぁッ」
口が裂けんばかりに歯を見せた剣の男……通称『スラッシュ』は、しぶきを巻き上げてアラタへと食って掛かった。




