プロローグ:四十五坪の奇跡
きっかけは、ちょっとした冒険だった。
といっても、他の人にとっては、その「ちょっとした」にさえカテゴライズされないような、わずかに日常からズレただけのこと。
ふだんとは、別の道を選んで帰った。母親には部活で遅れると告げて、でも実際には部活は顧問不在につきお休みで、近寄りもしないゲームセンターでクレーンゲームをして散在し、日が完全に落ちれば、町外れのコンビニに足を向けた。
直接的な理由があるわけではない。
環境や人間関係に不満があるわけでもない。
強いていうなら伸び悩む現国の小テストが、前回とくらべて五点少なかったぐらいか。
そんなどうでもいい理由。些細な現状への反抗。四文字で言うなれば、気分転換。
……今にして思えば、そして『彼女』はこういう言葉をきっと嫌うだろうけど、運命だったのだろう。
それでも、善良で平凡な私にとっては、自分の振る舞いを意識するだけで十分にスリリングだった。
この時間帯、そのコンビニには、ガラが悪い人たちがたむろするという。
入り口や駐車場、ゴミ箱のあたりに人影はなかった。
安堵しながら、店内に入った瞬間、わずかに身構えた。
やはりというか、そこにはガラの悪そうな客が、一人いた。
厚手のフードパーカーを頭からかぶっている。まさか覗き込むわけにもいかないから、顔まではわからない。ただ、その下でヘッドホンで音楽を聴いている。
音漏れはしていないけれど、スニーカーが刻むビートから、はげしい音調だと予測はつく。
手にとったマンガ雑誌をめくる音が、ことさら大きく聞こえる、ような気がした。
ただ立ち読みをしているだけで、威圧感を発している。
そしてそれは、立ち振る舞いやファッションとは、別のところから来ているように思えた。
私が寄りたかった場所もそこで、読みたかった本もそれだったので、つい及び腰になって、入り口のあたりで立ち往生してしまう。
ふと、その人と目が合った。
強く、冴え冴えと冷えたような、でも透き通って綺麗な瞳は、その人のためにあるようだった。
その目をすっと眇めて、彼もしくは彼女は、棚に雑誌を戻して、別のコーナーへと身を移した。
ーーもしかして、譲ってくれたのかな。
ふと、そんなことを考えたが問いただすわけにもいかない。
お礼がわりに軽く頭を下げて、その雑誌を手にレジへと向かおうとした。
事件は、その時に起こった。
その男の人は、瘦せぎすな肉体を引きずるようにして入店した。
アジア圏の青年ではあったけど、日本人ではない。不自然にへこんだ頰。同じく目元も不健康にくぼんでいて、その奥で目だけが不気味なほどに光っていた。
ジャケットのポケットに手を突っ込んだままレジへと一直線。
「いあっしゃいあ……」
店員さんは、不審がりながらもマニュアルに従ってあいさつをしようとした。その顔が、こわばった。
客は果物ナイフを、彼へと突きつけていた。
「カネ、カネ」
平坦な片言で要求を連呼しながら、神経質に刃先を揺らす。
その彼の背で、私は立ち尽くしていた。
数メートルもない先の現実を、まるでテレビ越しに外国でも見るようにして。
突如として現れた異常を、反応も、受け入れることもできずに異物として飲み込むしかなかった。
「おまえうごくな」
男が刃物をこちらへ向けて来た。
舌ったらずな恫喝が、自分もキャストのひとりだと告げている。
自分の生命が危機にさらされてはじめて、背筋からどっと汗が噴き出した。
私は反射的に両手を掲げながら、その強盗から視線を外した。
彼を刺激しないようにしたかったというのもあるけれど、パーカーの人のほうが気になったからだ。
陳列棚が死角を生んで、強盗からは見えなくなっていた。
せめて彼もしくは彼女のみの存在が、男からは認知されていない。
彼は店員と、金を出す出さないの問答をしている。
店員がレジを開けることをしぶっているのは、勇気からではないだろう。
そのしどろもどろな返答から察するに、ただマニュアルに対応がなかった、あっても目を通していなかったからどうすれば良いかわからず思考が硬直している。もし間違った対応をして警察や店長に責任を問われるのが嫌だから、という理由のようだった。
みずからの後ろ、タバコやクジの景品棚ちかくのカラーボールの存在には、気付いていない様子だった。よしんばそれを知っていても、ナイフを向けられたままそれを手に取ってけん制できるほどの人間はいない。
パーカーの人が知られていない現状から、どうにか解決の糸口を見つけられないか。たとえば、こっそりスタッフルームから外に出て助けを呼ぶとか、その場で電話で警察につなげるとか。
私が彼もしくは彼女をわずかな期待を込めて見つめたのは、そういう理由だった。
また、目と目が合った。
彼女の手は、冷蔵庫のコーラを手に取ろうとしていた。まさか閉めて物音を立てるわけにもいかないから、その扉は開けっ放しにせざるをえないようだ。
わずらわしげに眉根を寄せる。私たちの命運はこの人にかかっているのだけど、その身体が緊張している様子はない。
むしろ、不自然なまでに悠然としていた。
一度おおきく首を左右に揺らす。その場で屈伸で四五回くり返す。
そのまま後ろ手を組んで、反り返り気味に腰をねじる。その時、分厚い服の上から、くびれた腰や胸の不自然な盛り上がりが強調された。この人は……女性だ。それも、たいへん結構なプロポーションをお持ちの。
それからフードを脱いで黒のショートカットを振り乱し、ヘッドホンを床に置く。
その一挙一動で気取られないか。逆にこっちがハラハラと見守るなか……彼女は、思い切り、冷蔵庫のドアを閉めた。
「……ッ、オイおまえ!」
男は、びくっとしながら振り返った。
けど次の瞬間、店内の電灯が一瞬にしてすべて、落ちた。
空調も、完全に止まっていた。
停電か。闇の中で私は、まず一番はじめにそう思った。
非常灯がついたらしく、青みがかった淡光が、ほんのりと私たちを浮かび上がらせた。
――違う。
停電でも非常灯でも、なかった。
その異変は、彼女の手と、冷蔵庫の間からはじまっていた。
その接点から文様のようなものが広がって、それが店内のレイアウトも、品々もドアも壁も、あざやかな濃紺色の光をはなちながら、上から覆っていたのだった。そしてそれが店の電気系統を麻痺させているのだと、ふと脳裏に湧き出るように理解できた。
からみつく鎖のように複雑に、蜘蛛の巣のように独特のパターンを作りつつ、燃え盛って揺れる火炎のようなタッチの刻印は、あまさず店内を侵掠していった。
けれど、他のひとにはそれが見えていないようだ。
店員はたたみかえるような展開に頭をかかえてうずくまっていたし、まるで焦点がさだまっていない目線をさまよわせ、強盗はナイフを振りかざしている。
そして当の彼女はといえば……その姿が、消えていた。私が目をはなした、一瞬の隙に。
何かが床のタイルを叩く。
棚の上に乗る。
薄闇の中を、私たちの頭上を、何かがすり抜けていく。
その音と気配は察知したのだろう。
恐怖に駆られながら、東洋人はナイフを振りかざす。その閃きをかいくぐるようにして、身をかがめた彼女は、彼の前に立った。
獲物を捉える猛禽のように、伸びた右手が、強盗の顔面をつかんだ。彼の肌と服とを、手から生じた格子模様が絡め取る。
ナイフが男の手からこぼれ落ちた。
抵抗する間もなく、その勢いのままに床に後頭部を押し付けられ、昏倒した。
いや、それよりも前に、彼は失神していたように思える。死んでは、いない。
彼女が事が終えると、電気がついた。空調も回復し、ややうるさいぐらいに風を吹き始めた。
残されたのは右顧左眄するかわいそうな店員と、痙攣しながら泡を吹いて、白く剥いた目に涙をためた強盗犯。床に落ちたナイフ。立ち尽くす私。そして彼女。
彼女は、いつの間にか手にしていたヘッドホンを首に戻しながら、発露したコーラのボトルをレジに置き、さきほど強盗をつかんだその手で、店員の手元を指さした。
「ハッシュドポテトください。あ、それと警察呼びます?」
そして、おべんとあたたますか、と言った感じのニュアンスで言った。
その彼女の素顔を見た時、あっと私は声をもらした。自分を一瞬、忘れるような心地だった。
彼女が、まだ自分と同じぐらいの歳格好だったというのもある。
目だけでなく、顔と身体のパーツも釣り合った、少年的な強さと少女としての細さと柔らかさをもった、中性的かつ類い稀な美人だった。それもある。
けど何よりも、忘れようもないその娘の顔は、日常的に顔を合わせる級友のものだった。
それは、ちょっとした気分転換からの偶然の出会い。
でも、今思えばそれは、運命に引き寄せられたのかもしれない。神様が私たちを引き寄せるために、そう仕組んだのかも、と何度となく思った。
もっとも彼女は、そういう理論や言い回しをすごく嫌うけれど。
とにもかくにも。
私、彩鳥橋子と彼女、楢柴改は、この四十五坪程度のスペースで本当の意味で出会ったのだった。