結末へのカウントダウン
旅行から帰ってきて数日が経った日のことだった。旅行から帰ってきてから慶輔は穂蛍との連絡が取れずにいた。心配はしていたものの、もとから頻繁に連絡を取るようなタイプではなかったために、それほど重要視はしていなかった。
慶輔の携帯が着信を知らせる。表示された相手は杏奈だった。杏奈が慶輔に電話を掛けることは珍しいことだった。
「もしもし、どうした?」
「天海くん、落ち着いて聞いて。穂蛍が・・・。」
「えっ・・・!?」
杏奈との通話を終えた慶輔は、一目散に病院へと走った。
杏奈が言うには、穂蛍が病院へと搬送されたとのことだった。詳しいことはこれからの検査でわかるらしいが、慶輔は気が気ではなかった。
息を切らせながら慶輔は、病室の扉の前に立った。ゆっくりとノックをする。コンコンと音を立て、少し経ってから中から穂蛍の声が聞こえてきた。
「あ・・・天海くん・・・。」
「・・・大丈夫か?」
「はい・・・旅行の疲れ・・・みたいです。」
真っ白なベッドに座っていた穂蛍の姿は普段の様子と変化はなかった。ひとまず安心した慶輔は胸を撫で下ろした。
穂蛍は手にした本に栞を挟み、手元のテーブルに置いた。その本は、前に慶輔と一緒に見にいった映画の原作本だった。
「とりあえず、元気そうでよかった。」
「はい・・・楽しすぎて、自分の体のこと・・・忘れていました。」
そう言った穂蛍は微笑んでいた。その微笑みはいつものようなものとは違い、少し言いようのない違和感を感じた。
不意に背後の扉がノックされる。そして間髪開けずに、扉が開いた。そこには花束を持った杏奈の姿があった。彼女のまた、穂蛍の見舞いに来たのだ。杏奈の隣には穂蛍の母、早紀もいる。
「大丈夫?いま、穂蛍のお母さんから聞いたけど、疲れちゃったんだって?」
「はい・・・恥ずかしいけど・・・」
杏奈は手にした花束を近くの花瓶に差し込んだ。その様子を見た慶輔は、二人が大事な親友なのだと改めて認識した。
「良かったわね、穂蛍。あなた、ずっと倒れたあと、天海くん、杏奈ってうわ言のように繰り返してたのよ?」
「お、お母さん!?」
顔を真っ赤にしながら手を振り回す穂蛍。慶輔と杏奈はそのかわいらしい動きについつい吹き出してしまった。恥ずかしいところを見られた穂蛍はまるで小動物のように頬を膨らませて抗議した。
それから三人は楽しく談笑を日が暮れるまで続けた。
「今日はありがとうね。」
「いえ、急に来ちゃって・・・むしろ迷惑じゃないかって・・・」
「あの子があんなに喋るようになったの、天海くんと知り合ってからなのよ。」
改めて聞かされると恥ずかしく感じた。杏奈がわき腹を小突いてくる。早紀の表情はなにか思い詰めているようだった。そして、その理由を聞くのが慶輔は怖かった。
しかし、聞かなければいけないような気がした慶輔は、言葉に詰まりながらも尋ねた。
「神代の病気・・・疲労じゃないですよね?」
「・・・ええ。お医者さんが言うにはもう手の施しようがないって・・・」
一瞬で頭の中が真っ白に染まった。思っていた以上に事態は深刻だった。杏奈も聞いたのは初めてだったようで、驚いた表情のまま固まっていた。
「だから、残りの時間を・・・」
それから慶輔の記憶は途切れていた。
帰り道を歩いていた慶輔と杏奈の足取りは重かった。
「思っていたより大変だったね・・・」
「ああ。初めてだよ、明日なんか来なきゃいいのにって思ったのは。」
「そうだね、私もだよ。でも、少ない時間を充実させてあげなきゃね。」
穂蛍の残り時間を充実させる、言葉にするのは簡単だったが慶輔は乗り気ではなかった。充実させた途端に穂蛍が消えてしまうような気がしてたまらなかった。
その夜、穂蛍はベッドに縮こまっていた。自分の体がどうなっているのか、自分が一番よく分かっていた。これがただの疲労じゃないことも薄々感づいていた。もしかするともう目覚めないかもしれない。
眠ることがこれほどまでに怖いと思ったのは初めてだった。しかし、いつの間にか穂蛍の瞼はゆっくりと閉じられていった。
窓からの光に目が覚める。目覚めたとき、穂蛍は目が覚めたことを幸福に思えた。よかった、今日は大丈夫だった。
「おはよう。」
窓際の椅子には慶輔が座っていた。彼は手にした本をパタンと閉じて机の上に置いた。その本は穂蛍が読んでいた小説と同じものだった。
「その本・・・」
「ああ、神代が読んでいたヤツを俺も買ったんだ。結構、面白いな。」
慶輔が興味を持つような作品ではないことを穂蛍は知っていた。それでも、慶輔が知ろうとしてる姿勢が穂蛍のはには微笑ましく思えた。
「ちょっと散歩にでも行くか。」
慶輔は近くから車イスを運び、穂蛍を抱えあげ車イスに座らせた。穂蛍の体は思っていた以上に深刻で自分で車イスに乗ることが出来なかった。そして、前に背負った時よりも軽かった。
まだ暑さも残り、燦々と光る太陽が熱量を放つ。病院の中庭では他の患者も、外の空気を吸いに出ていた。
「神代、元気になったらさ。どこに行ってみたい?」
「行きたい場所・・・ですか?」
「そうそう。何にもなく毎日を過ごすんじゃなくて、元気になったらここに行ってやるぞとか、こういうことしてやるって気構えの方が生きる気力も湧いてくるだろ?」
穂蛍は顎に手をやり唸りながら考える。一陣の風が二人の間を通り抜けた。
「遊園地・・・遊園地に行ってみたいです。」
「遊園地か、いいね!他にはないのか?」
「あと・・・動物園も、水族館にも・・・!」
「いいじゃん、いいじゃん。絶対に行こうな。」
叶わぬ夢だと知りながらも二人は笑いあった。もしかすると奇跡が起きるかもしれない。ほんの些細なことかもしれないが、穂蛍はなんだか元気が出てきたような気がしてきた。
しばらくすると、穂蛍の口から言葉が止まった。穂蛍の目からは零れるように涙が落ちていた。
穂蛍は涙を拭うと満面の笑顔で慶輔の顔を見た。
「私はどこでも・・・天海くんの隣なら。」
慶輔の胸の奥がズキリと痛んだ。今までに感じたことのないような窮屈な痛み。
慶輔は帰り道もその痛みについて悩んでいた。そんな彼の前に人影が立ちふさがった。
「天海先輩・・・。」
「綾峰、どうしてここに?」
「天海先輩に伝えたいことがあって。」
そう言った翼はいつも以上に大人しかった。目線も合わせずに両手を後ろに回してもじもじとしている。その顔は夕日のせいではなく赤く染まっている。
「天海先輩・・・今、言うのは反則かなって思ったんですけど・・・言っちゃいます。」
深く深呼吸した翼はまっすぐに、それでいて真剣なまなざしで慶輔を見つめた。
「私・・・天海先輩が好きです。・・・だから。」
「綾峰の気持ちはありがたい。でも・・・ゴメン。その思いには応えられない。」
苦虫を噛み潰したかのような表情を浮かべ、慶輔は答えた。出来る限り、翼が傷つかないように言葉を選んだつもりであった。
しかし、予想に反して翼の態度はいつも通りだった。
「やっぱり、ですよね。あーあ、フラれちゃった!」
「綾峰・・・お前。」
「言わないでください、先輩。きっと先輩が後悔するぐらいいい女になりますよ、私。その時に言い寄ってきてももう遅いですからね。」
見るからに空元気だった翼になんと声をかけていいか分からず、慶輔は言葉に詰まる。翼はそのまま慶輔に背を向けた。
「・・・神代先輩と幸せにならないと怒りますからね。」
そのまま翼は駆け出していった。彼女の瞳からはキラリと一滴の涙が頬を伝っていった。
「穂蛍ちゃん、今日は一人なんだね。」
朝の早い時間、人気の少ない中庭を散歩していた穂蛍に老婆が話しかけてくる。老婆とは入院生活中に仲良くなったのだ。老婆もまた余命いくばくもないと宣告を受けていた。そんな老婆は穂蛍を孫のようにかわいがってくれた。老婆が言うには、穂蛍と同い年ぐらいの孫娘がいるらしく、その孫娘と重ねて見えるのだそうだ。
「はい、天海くんも忙しいですから。」
「こんなカワイイ子をほったらかしにするなんて、酷い彼氏さんだねぇ。」
「そ、そういう関係じゃないですっ!」
老婆の突拍子もない発言に慌てて穂蛍は訂正を入れる。あわよくばとも思っていた穂蛍だったが、さすがに本人のいないところでそういったことを勝手に決めるのは極まりが悪かった。
「いっぱい思い出、作っときなよ。人は死んじまったら記憶の中でしか生きられないんだからね。」
「・・・はい。」
トントンと穂蛍の肩が叩かれる。振り返るとそこには翼の姿があった。
「お見舞いに来ちゃいましたっ!」
「綾峰さん・・・」
穂蛍にとっては意外と言う他なかった。翼が見舞いに来ることではなく、彼女が一人で来たことに驚いていた。
翼は手にした小袋を穂蛍に手渡す。中身はどうやらクッキーのようだった。
「実はですね、昨日、天海先輩に告白しました。」
「・・・えっ?」
穂蛍は耳を疑った。あまりにもあっけらかんと発言したということは・・・穂蛍の脳裏に嫌な予感が広がる。
「結果は、ダメでした。すっぱりフラれちゃったんです。」
「フラれた・・・んですか?」
「はい。だから、もう私は先輩を諦めることにしたんです。敵わない恋にしがみついているより新しい道を進もうって決めましたから。」
穂蛍は翼に悪いと思いながらも内心では喜んでいた。それと同時に諦めたと言い切った翼に得も言われぬ違和感を感じた。あれほどまでに慶輔にアタックを繰り返していた翼が、これほど簡単に諦められるとは考え付かなかった。
「本当に・・・諦めるんですか?」
「はいっ!だから神代先輩、必ず天海先輩を幸せにしてください。じゃないと怒りますからね!」
翼の言葉は徐々に小さくなり、最後の方は押し出している感さえした。
穂蛍はそんな翼の手をそっと握りしめた。小さな翼の手は慶輔と違い、柔らかさにあふれていた。
「綾峰さん、ありがとう。」
「お礼なんていいですよ・・・あ、そろそろ行かなきゃ。もうじき天海先輩も来ますから、私がここに来たってことは内緒にしてくださいね。」
そう言い残すと翼は病院の外へと駆け出していった。まるで嵐がやってきて、過ぎ去ったように感じた穂蛍はついぞクスクスと笑ってしまった。
「元気な子だったね。」
「はい、大切な友達です。」
吹き抜ける風が木々の緑を揺らす。遠くから、こちらに向かって歩いてくる慶輔の姿が穂蛍にははっきりと見えた。