本当の想い
「外国に行かないって……なんで!?」
勢いよく立ち上がった慶輔の大声に教室中が静まり返る。我に返り、静かに腰を下ろした。
「なんでだよ、お前の夢が叶うかもしれないんだぞ?」
「夢は叶えたいよ。でもね、天海くんがさっき言ったみたいに、私も一人で行くのは寂しいんだ。英語も分からないしね」
華菜の言葉に慶輔は僅かな安堵を得ていた。しかし、それ以上に胸の奥に何かが燻っていた。その答えは見付からず、その日は終わりを迎えた。
ベッドの上で横たわる慶輔は瞼に焼き付いた華菜の顔を思い出していた。気のせいかもしれないが、どこか彼女の顔は苦々しげだったような気がしたのだ。
「どうしたらいい…?」
飾り気の無い部屋に呟いた言葉は掻き消えた。
枕元の携帯電話に目を向ける。慶輔は携帯電話を手に町の見下ろせる丘へと走った。
冬の走りを感じさせる冷たさが彼の身を啄む。それが慶輔にとっては逆にありがたかった。
丘の上は静寂がただ静寂が広がり続ける。誰もいないそこはまるで時が止まったかのような錯覚さえ覚える。
囁くように、それでいてはっきりと聴こえる音があった。慶輔はその音を手掛かりに歩を進める。
「華菜…」
音、歌声が止まりそこにいた少女が髪を指で押さえながら振り向いた。
「来てくれたんだ」
「あたりまえだ」
慶輔の握った携帯電話に表示されている華菜の文字。それは彼女からのメッセージだった。
あの場所で待ってる、これだけが書かれた本文も無いメール
「実はちょっと試してたんだ、キミのこと」
「試してた?」
「うん、キミの言葉に嘘があるかどうか」
華菜の言う言葉とはおそらく彼女がいなくなると寂しいということだろう。だが、それとこのメールには共通項が見付からなかった。
「キミが本当に私の事を想っていてくれるなら、この場所が分かると思って。もし来なかったらその程度だったってことで、勝手に外国へ行っちゃおうかなって。」
「なんだよ…それ、からかってるのか
?」
「ううん。私ね、キミのことが気になってたんだ」
「気になってた…?」
まるで前から自分のことを知っているかのような口振り。慶輔の記憶には彼女と会った記憶は無い。
「穂蛍ちゃんがね、教えてくれたんだ。キミのこと」
「穂蛍が…?」
まだ穂蛍が生きていた時、華菜は何度か穂蛍と会ったことがあった。彼女の祖母を通じて知り合っていたのだ。
穂蛍と華菜が友人になるまでに時間は掛からなかった。対照的な二人だったが、その真ん中に杏奈がいることでほどよく接着剤となっていた。
慶輔の声に遮られる。彼女が何を言おうとしているのか、言われなくても分かってしまう。
「私ね、ちょっと穂蛍ちゃんが羨ましかった。キミのことを話す穂蛍ちゃんの目、スッゴくキラキラしてたんだもん」
穂蛍が何を話していたのか容易に想像出来る。ついぞ微笑みが溢れた。
「それで、一度キミに会ってみたかった。実際、会ってみたら穂蛍ちゃんの言うとおりの…ううん、それ以上の人だったよ、キミは」
「そんな大それた人間じゃないさ」
「最初に会ったのはホントに偶然。でもその後の出来事は運命だったんじゃないかなって思ったんだ。それでね、私…キミのことが…」
「待ってくれ」
華菜の言葉を遮るように声を出す。彼女がこの後に言うであろう言葉の想像はついている。しかし、その言葉を言わせる前に慶輔は伝えようと思っていた。
「初めてお前に会ったとき、どこか穂蛍に似てるって感じたんだ。最初は髪飾りのせいだって思った。でも違った。華菜、お前の目だったんだ。」
「目?」
「お前が俺を見るときの目、それがアイツと似てた。今、それを確信したよ」
「そ、そうかな?」
照れたように華菜は顔を背ける。その頬はどこか赤くなっている気がした。
意を決した慶輔は逸る鼓動を抑えつつ出来る限り平静を保って声を出した。
「俺はお前が好きだ、だから…華菜には外国へ行ってほしい」
明るかった華菜の表情が少しずつ曇っていく。まったく理解出来ないといった表情だった。
「えっ、えっ…なんで?」
「お前のことが好きだから、お前には夢を叶えてほしいんだ。いつかじゃダメなんだ。そのいつかは消えてしまうから」
慶輔の脳裏には穂蛍と交わした約束が浮かんでいた。
病気が治ったら、いつか一緒に遊びに行こう。
果たされることのなかった約束が今も彼の中に根付いていた。慶輔が華菜の背中を押すことを決意した理由でもあった。
「今を大事にしてほしい。俺は、もう誰かの"いつか"で後悔したくないから。それに…お前は一人じゃない」
「一人じゃない?」
慶輔は華菜の髪飾りに触れた。壊れ物を扱うかのような優しい手つきで。
「お前には穂蛍が付いていてくれる」
いつになく真剣な眼差しで聞いていた華菜は最後まで聞き終わると、静かに目を閉じた。
「そっか…うん、そうだよね。ありがとう、キミのおかげで決心がついたよ」
華菜の両腕で引き寄せられる慶輔の顔。彼は自分の唇に触れる柔らかな感触を感じた。それが華菜の唇と気付くのにさしたる時間は必要なかった。
永遠とも刹那的ともとれる時間が過ぎ行く。
ゆっくりと華菜は自らの唇を離した。余韻に浸るかのように二人はみつめあう。
「この位の思い出はいいでしょ?」
「…お前には敵わないな」
静寂の中で再び重なりあう二人の影は満点の星空だけが見下ろしていた。