第1話:駅舎
夢か現か、幻か。僕の前に、それらが現れたのは……
僕は今、電車の中。
窓の外の景色が自分の後ろへと一足飛びに去っていく。電車の下からは、ゴトンゴトンという小気味良いリズムが力強く伝わってくる。
窓の下にあるのは、家屋や看板、時々周りの建物の高さから一つ抜け出た高層ビル。さらに、その下を縫うように這いつくばるコンクリート道路。その細い筋に溜まるゴミのような自動車。
ここが、僕のこれまで暮らしてきた世界。
電車は、半時ほど前にはまだ町中にあった。だが、気が付けばもう郊外の一風景の中に溶け込んでいる。送電線がちらほらと目立ち始めた。そして、険しい山中へと吸い込まれていき、トンネルを抜けると……
世間の喧騒など何処吹く風、と言わんばかりの麦畑が眼下に広がっていた。
それらを僕はまっすぐに直視する事ができなかった。
そこは、僕にとって眩しすぎる世界だった。
◇ ◇ ◇
小さい頃、子供の頃は良かった。何かを真剣にやっていれば、楽しかったから。それを深めていけば、真実の喜びを得られると確信していた時期があったから。
最近、自分の底から感じられる喜び、生き甲斐というものを久しく味わっていない気がする。
何をやっても軌道に乗らなく、中途半端。途中で投げ出してしまう事ばかりだ。
何かをやろうとすると、必ず邪魔が入るんだ。水を差す輩が何処かにいるんだ。
僕が自分の思った通りに進めようとすると、それがちょっとでも定石を外れていたならば、誰かがすぐにそれを目ざとく見つけて食ってかかってくる。それが嫌で、周りに合わせてばかりいたら、こんどは個性が無いだとか、オリジナリティが感じられない、とか冷たい目しか返って来なくなった。
じゃあどうすれば良いんだ。ちょうど真ん中を行く、なんて器用な事は僕にはできない。
僕は弱い。
困った時、僕は無意識にまず自分の周りを見渡している。自分で全てを受け止め、処理する事なんてできっこない。
それに、自分だけに問題があって、周りには何一つ落ち度は無いなんて事は無いはずだから。
周りに助けてもらおうとする。
そう言えば少しは聞こえは良い。
けれど、平たく言えば、僕は周りから自分の代わりに責める事のできる人間を無意識に探しているだけではないだろうか?
そして、都合の良い理屈合わせに見あう証拠を見つけ出そうと、躍起になっているのではないか?
結局、自分を少しでも庇ってくれそうなものを、血眼になって掘り出そうとしているのではないか……
その反面、僕は良く分かっているつもりでいる。それがどれだけ無駄で不毛な事かぐらいは。
はじめはでっかい事を言う癖に、いつも最後は自分の被害を最小限に抑える事だけしか頭に残っていない。自分の行動が周りにどう評価されるのか、というのが第一になってしまう。
そんな上っ面だけの自分が嫌になる。
そして、最後はいつだって自分の声で呟く。
『僕が、もうちょっと強かったらなぁ』と。この台詞を、自嘲気味に一字一句違わず唱えてみる。
挙句の果て、そう呟いた自分の声が本心からのものであるかどうかを自問自答してみて、ちょっぴり悲しくなる。
そうしていつも思うんだ。
『これから変わろう』って。そう思わないと、やり切れなくなるだろうから。
そんな事を思っていると、自分の心の中の醒めた気持ちと、無理にそれ鼓舞しつつ起こそうとする気持ちがぶつかり合って、どちらが元にあったのか分からなくなる。
……これ以上、何も思わなくって良い。自分が一番、それは良く分かっているはずだ。
そうあやふやにして思考を閉じた。
▽ ▽ ▽
僕は、気が付いたらとある古ぼけた木造駅舎の前に立っていた。
自分の周りは、深い霧に閉ざされていた。五里霧中を絵に描いたような場所だった。
つい先程までは、普通に街の中を歩いていたのに。いつの間にか、こんな不可思議な場所に来てしまった。
周りには人の気配が全くしない。
ここまでの道のりはほとんど覚えていない。それどころか、此処が何処にあるどんな駅なのか、駅名すら霧で見えない。
くだらない考え事を道々で考え込んでいたせいなのか、どうにも頭の中にももやがかかっている。
此処は何処なのか?
これは、僕が頭の中で望んで作り出した状況なのか、本当に記憶の中に無いのか。
そう自分に問い掛けてみても、答えは出ない。
だけど…… この駅は、僕の知らない何処かへの入り口になっているようなような気がした。
ここからなら、僕の知らない世界へと行けるのではないだろうか?
危なそうだ、と思うけれど。だけど、何故かあの駅舎の中に踏み込んでいってみたいと思った。
きっかけは、ただのそれだけ。
中に入ってみると、駅舎の中にも薄い霧が漂っていた。
その駅舎内はがらんとしたものだった。時刻表等の置いてある、簡単な机すら無い。だだっ広い、煤けたフローリングの床が整然と広がっていて、その端に申し訳なさそうに自動券売機が立っている。あとは、小窓がポツリと一つ、隅に申し訳なさそうにあるだけ。
小窓の外を眺めてみても、真っ白な霧の世界しか見えなかった。
とりあえず、夏目様の肖像画を一枚取り出し自動券売機へと向かう。そしてそれを、お釣りが出ないように千円分のプリペイドカードに替えた。その後、誰もいない寂しげな無人自動改札を抜け、その奥へと続く通路に歩を進める。そしてプラットホームへ繋がっているらしい、崩れそうな階段を一歩一歩と昇っていく。
怖い、とは感じなかった。
この先に何があるのか? それが、僕の考えている事の全てだった。
もう、これまで僕が住んでいた世界には飽きてしまった。
全くの別世界へ。これまでに背負ってきたモノが全て関係無くなるような世界へ繋がっていれば良い。
そんな非現実的な事だけをぼんやりと祈りながら、階段を慎重に踏みしめて行く。すると、誰もいない、霧に閉ざされたプラットホームに出た。
そして、ちょうど良い具合にホームに停車していたローカル列車に何の目的も無く、乗り込んだ。
行き先など、何処でも良い。
この先が何処へ繋がっていても、もう構わないんだ。
僕が得たいモノ、それはおそらくこれまでに僕がいた世界では手に入らないモノだろうから。