第七話 狼少女
この世界には時計がないので、太陽の傾きでおおよその時間を測る。
見た感じ、だいたい八時か九時くらいだろうか。
昼というにはまだ早い。前世の俺ならぽかぽかとした陽気にほだされて更なる惰眠を貪ろうとするだろう、そんな時間である。
朝稽古が終了してまもなく、日はすっかり顔を出しているが、さすがに風を遮るものがない裏庭で水浴びするとひどい寒気を感じる。
(うぅ、お湯あったかい……)
俺はぷるぷると小鹿のように震えながら、湯を張った小桶に足先から入り込む。
体を小さく丸めるとぎりぎり桶の中に体が収まった。
「うああーーー」
熱い湯に全身が浸かり、思わず至福のため息が漏れる。
二人の姉が残してくれたお湯に、文字通り骨身に染み渡るようなありがたみを感じる。
エルシリアは、エメラルドの髪を肩で切り揃えたボーイッシュな雰囲気の女の子。
レイチェルは明るい橙色の髪、笑うとえくぼのできる可愛らしい顔の女の子だ。
彼女たちが俺に目をかけてくれているのは、俺を拾った当事者だからだろう。実は転生した当初、辺りは豪雨と暴風の嵐で、俺はバスケットの中で水没しかけていたのだ——微かな泣き声を聞きつけてずぶ濡れになりながら助けに来てくれたのが、エルシリアとレイチェルの二人だった。
名前を付けてくれたのもこの二人。命の恩人にして名付け親というわけだ。
俺は目を閉じ、ぬくぬくと体を温める。
(いつか、ちゃんと恩返ししないと……いや、その前に、見限られないようもっと努力しないとだな……)
心の中に思い浮かべていた二人の少女に——ふと、前世の姉と妹の姿が重なった。
お風呂で妹と一緒に遊びまくったら足湯みたいな水嵩になってしまい、しっかり者の姉からゲンコツをもらった思い出が水面に揺らめく。
懐かしい記憶だ。
異世界で過ごした色濃い四年間の下でも、前世の記憶は未だ鮮明に思い出せる。家族みんなの仲が良かったからか。
いや、これが普通だろう。
今の自分を形作ったものを、どうして簡単に忘れられるだろうか。
たとえ二度と戻れない世界でも、歩んだ人生、記憶、歴史は変わらない。
「ふう」
体の芯まで温まったところでさっさと体を拭き、異世界の服に着替えて一息つく。
衣服は、孤児院の先輩方から受け継がれたボロボロのお古だ。裾は擦り切れているし、襟も緩み切っていてだぼだぼなので、ローブっぽく形を整えた布切れを上から被る。
これならズボンを引きずっている以外は割とまともに見えるのだ。風も遮られて暖かい。
物干し竿に木桶を引っ掛け、孤児院に戻ろうと踵を返したその時——ふと、何かの音が耳を掠めた。
気のせいだろうか、孤児院から聞こえたものではない。
裏庭から連なる細い道、魔物除けの柵を越えたその先から、風に乗ってきたような。
(……鳴き声?)
エルフィア孤児院は、オーレアという街から少し離れた緑野を切り拓いた場所にある。
騎士団が警備する街と違って、魔物がよく出没するため、孤児院の子供たちが交代で自警に出たりしている。孤児院の外周を囲っているこの柵も侵入者対策のものだ。内部には魔力回路が仕込まれており、大きく破損すると爆発する。魔力回路そのものに意味はなく、断線による魔力暴発を利用した仕組みである。
警報と迎撃を兼ねた柵のおかげで、地上の魔物はほとんど孤児院に寄り付かない。
この辺りは空が広いので、鳥系の魔物にもすぐに対応できる。
(魔物……か)
このように、いくつもの工夫を重ねて安全を確保しているわけだが、おかげで俺は生まれてこの方《魔物》というものを見たことがない。
シェイラが七歳未満の子供を外出禁止にしているからだ。
俺はまだ、この孤児院より外に出たことがなかった。
「……」
自慢ではないが、俺はけっこう好奇心が強い。
幼稚園の頃は冒険に明け暮れ、小学校に入学して最初にやったのは線路に置き石(犯罪なので警察署で死ぬほど絞られた、絶対に真似しちゃダメです)だった。不思議に思ったことは何でも実行に移さねば気が済まない性格なのだ。
魔法の研究に没頭してしまうのは、焦りがあるのも確かだが、こうした性格がもとにあると言える。
そして、四年も引きこもり生活を送っていると、外に出てみたいという気持ちはどうしても膨らんでしまうものである。
俺にとっての《異世界》は、まだこの孤児院と、本の中にしかないのだ。
ぶっちゃけ外に出たい。
声に呼ばれるように、俺はふらふらと魔物除けの柵に近付いていた。
(魔物ってどんな感じなんだろう。やっぱり凶暴だったりするのかな……テイムとかできないもんかな?)
柵に寄りかかるようにして、俺は外を見つめる。
格子は小柄な体でも抜け出せないように幅が調整されており、そう都合よく抜け出せたりはしない。裏口から続く道の先には門が設けてあるが、もちろん施錠されている。
土魔法でちょちょいと開錠……いやいやいやと首を振る。
大体魔物を見つけたところでどうする。捕まって食い殺されるのがオチだろう。
魔法を使うにしても、油断も容赦もない魔物を相手にするにはまだ練度が足りない。
だから今はまだ、我慢がまんガマン……
「……おっ、おっ、なんだ?」
柵にべったり張り付いたまま目を凝らしていると、細道の脇、生い茂った木々が何やら騒がしく揺れ始め——何かが弾丸のように飛び出してきた。
それは白い、狼のような魔物だった。
ごろごろと地面を転がったそれは、こちらに赤い眼を向けるや否や物凄い勢いで駆け寄ってきた。俺は反射的に飛び退き、魔物はそのまま柵に突っ込んで——
「ふ、お——っ!?」
鼓膜を貫く炸裂音。
視界が一瞬で真っ白に染まり、身体が木っ端のように吹き飛ばされた。
何が起こったのか理解が追いつかないまま、水面を跳ねる小石のように地面を転がる。
(いっ、つつ……)
左腕が折れたように感じたが、普通に動かせる。
星が飛ぶ視界を瞬かせて体を起こすと、食い破られたように大きくひしゃげた魔物除けの柵が目に入った。獣が突進した衝撃で起爆してしまったらしい。
耳に水の膜が張ったように、音が遠くに聞こえる。俺は頭を抑えながら、砂煙をかき分けて爆心地に向かった。
半ば無意識の行動だ。それこそ好奇心に突き動かされるように、脚は勝手に進んでいた。
目当てはすぐに見つかった。
黒焦げの塊が、ぶすぶすと煙を上げていた。
ただし、その塊は、
「……」
毛並みに覆われた手足、ぼろぼろの服、微かに上下する胸、苦しげに歪む表情。
臀部からは、長く大きな尻尾が伸びている。
髪の上で伏せているのは、獣耳だろうか。
気を失って動かなくなったそれを、俺はまじまじと見下ろす。
「……なんだこれ」
獣でもなければ、魔物でもない。
俺が孤児院の外の世界で最初に出会ったのは、白い獣人の幼子だった。
ケモミミktkr(・∀・)