第十四話 手のひらの上
遅れまして申し訳ありません。
すっかり更新を忘れ……げふんげふん……書き溜めが長引いてしまいました。
*手のひらの上
人界の大陸の中央部には、南北に連なる山脈が存在する。
かつて、この山々は活火山として活動していたらしく、その地熱によって熱せられた地下の鉱泉が温泉として湧き出ている。温泉には肉体・魔力の回復促進の効果があり、戦いを生業とする者たちの人気のスポットとなっているようだ。
「——その火山って、また活動再開とかしないんですか?」
「ここ四千年くらい休止してるから、今すぐ噴火し始めるってこともないだろうさ」
ちなみに、その休止した時期から千年ほど後に人界の北方で突然海底火山が噴火し、それが今も活動を続けているという記録がある。
二つの火山にあえて関連性を考えるとしたら、地球で言うところのホットスポットのようなものだろうか。移動先で三千年も居座るとはよほど居心地が良いと見える。
「おいババア、勝手に入っちゃうぞー」
「だァれがババアだってチビスケェ!?」
しかしこの《温泉マーク》。
どう考えても日本文化の影響を受けているとしか思えない。
受付のおばちゃんから手ほどきを受けていると、俺の目の前を素っ裸の男の子が走り抜けていった。おばちゃんが拳を振り上げて怒鳴る。
後から来た親御さんが料金を支払うところを覗いてみる。入浴料は子供が銅貨一枚、大人は銀貨一枚となっているようだ。少々値が張るようだが、それでも相当人気なのか、先ほどからひっきりなしに客が出入りしている。
「ったく、来るたびにふてぶてしくなりやがる」
「にぎやかですね」
「気が休まらなくて困りっぱなしさね。好きでやってるから構わないけどね」
このおばちゃん、器用にも俺と客を同時並行で相手してくれているのだが、お金もないのにいつまでも仕事の邪魔をするのは本意ではない。
少し外も騒がしくなってきたし、そろそろ退散しよう。
「では、ぼくはこの辺で失礼します」
「もう行っちまうのかい?」
「色々と勉強になりました。お仕事のお邪魔してすいません」
ぺこりと頭を下げると、おばちゃんは「おやおや」と感心した顔になった。
「いまどきこんな礼儀正しい子も珍しいねえ。お金ならあたしが持つから、ちょっくら入っていきなよ。温泉に興味があってここに来たんだろう?」
「え、いいんですか!」
温泉が一回無料になった。テテレテー。
礼儀を尽くす日本流の精神はこの世界でも通用するらしい。
今この時ほど敬語を身に着けてよかったと思ったことはない。
というか、イーナさんの肉串といい、杖屋のクロイナさんといい、この街は優しい人が多いようだ。学ぶことも多かったし、できるならもう少し早く来たかったところである。
今度は——もっと時間を作ってから来るとしよう。
「では……また今度来るので、その時入ってもいいですか?」
「ふむ? いいけど、この後用事でもあるのかい」
「ええ、まあ」
残念そうな顔をするおばちゃんに、俺も同じくらい不本意な笑みを浮かべて答える。
「ちょっと、ぼくにも客が来たみたいなので」
異世界初の街観光は、ひとまずここまでだ。
鉄が奏でるガチャガチャという金属音が俺のすぐ後ろで止まり、おばちゃんが驚いたような表情に変わった。
***
ともすれば第一次反抗期の大爆発とも考えられるエルの暴挙を許してしまったのは、完全にシェイラの油断が原因であった。
多彩な《魔術》を使いこなすシェイラは、どのような状況であっても優位を保つことが可能だ。彼女は指揮を執る者として、常に先行きを洞察するための余裕を保っている。
だが想定外が重なって心の間隙が埋め尽くされると、その余裕は決定的な隙を生む。
魔術も万能ではない。
ひとたび術者の余裕が崩れれば、欠点が表面化する。
例えば《加護》は、本来は対象者の魔力と生命力が危険な状態に陥った際にシェイラの魔力を消費して補填・供給を行うものであり、正確な居場所までは分からないし、加護対象の区別はつかない。
また《聖域》の術も、今朝セレナが捨て身で打ち破ったように強行突破が可能だ。術の斥力は大概の魔法を弾くものの、物理的な干渉には弱い。だからこその柵なのだが、ルークを護衛に付けておいたことを加味しても、白狼聖の娘を狙う輩をとどめる防壁としては少々脆過ぎたことは認めざるを得ない。結果的にはエルも脱走してしまった。
余裕を保たんとするあまり、想定するべき事態を見誤り、窮地を招いてしまった——そんな自分の愚かさを、今はいったん受け入れる。
今必要なのは後を悔いることではなく、先を考えることだ。
(やっぱり……エルの行動には、何か理由がある)
治療室で小さな狼少女がローブにくるまっているのを見て、シェイラは何故かすとんと腑に落ちるような感覚を覚えていた。
孤児院に引き取った時から、エルの異質さは際立っていたものだ。
他の追随を許さない圧倒的な速度で文字と言葉を学習し、魔法を覚え、歴史や地理を片っ端から学び取り、たどたどしくも敬語を扱うようにまでなった。その割に寝小便はするわ悪戯癖があるわと、妙に年相応っぽい側面もある。
「シェイラ母さん、早くエルを追いかけないと——」
「ちょっと黙ってなさい」
レイチェルを制止しつつ、シェイラは思考を加速させる。
これまでのエルの行動には、一貫性、一定のルールがある。
例えば、あの《砲撃》を使えば、柵外へ脱走することは十分に可能だったはずだ。だが彼は外の世界への憧れを抱きながら、今まで一度も乱用しなかった。
日々過剰とも言える鍛錬に励む姿には、きちんとした目的意識が感じられる。決して闇雲ではないのだ。
一見すると自由でマイペースだが、意味がないと分かっていることはしない。
ということは、この場面で《砲撃》で使ったことに、何か意味がある。
(……エル。あなたは、何をするつもりなの?)
何かを考えているはずだ——そして、シェイラはそれに、気付かなければならない。
あの少年に試されている。そんな錯覚すら覚えてしまった。
「——シェイラさんっ!」
「分かってるわ」
珍しく堪忍袋の緒が切れたような声を出すエルシリアに、シェイラは鋭い指示で応えた。
いっそ騎士団長が言っていたようなただのやんちゃであるならここまで悩むこともないのだが、エルが自分の置かれた状況が理解できていないとはどうしても思えないのだ。
それどころか、現状を理解した上でその先の展開まで見据えた一手を打っているような予感すら覚え、背筋に軽く鳥肌が立つ。
(まだ確証はないけれど、やっぱりエルは……)
考慮すべき可能性を頭の片隅に残しつつ、シェイラは四人の子供を連れ立ち、騎竜に乗って孤児院を出た。
エルがオーレアの街に向かったことは、道中に残った焦げ跡などから察しがつく。
レヴィス騎士団と余計な事を構えたくはないので、シェイラは正門からオーレアの街に入ることにした。
「いや、ですからエルフィア孤児院の方々は立ち入りを禁じられておりまして……」
「それはオーレア騎士団からの命令? それともレヴィス騎士団からの圧力?」
「……お答えできかねます」
が、なぜか検問に引っ掛かり、二の足を踏む羽目になった。
大方の予想はつくが、騎士団の賄賂を上回る金額を提示できる手持ちはない。
「そう」
かといって引き下がるわけにもいかない。
なので——シェイラは検問台に乗り上げるように腰かけ、検問の男騎士に顔を近づけた。
「正当な理由がないと私たちも納得できないのだけど。あなた、何か分からない?」
「わ、私は何も言われておりませんので……」
「ああ、別に言われたことを話せと言っているわけではないのよ。ただ、ね」
久しぶりに使うこの魔術は、シェイラにとってあまり好ましいものではないのだが、ここで出し惜しみして更なる油断を招くわけにはいかなかった。
濃密な魔力をまといつつ、シェイラは髪をかき上げて顎のラインを露出させる。
「あなたがどう考えているのか、聞かせてほしいだけ」
シェイラの生まれながらの美貌に、《魅了》の魔術が磨きをかける。
絶世の美女の瞳が放つ文字通り魔力的な引力に、騎士は一瞬で正気を失いかけていた。
「あ……わ、私は」
「あなたのことを聞かせてほしいの。あなたは自分のことを語る時、『私は』なんて他人行儀な言い方をするのかしら?」
「お、俺は……」
騎士の兜が上から下へ動き、視線がシェイラの露出した腕や脚を撫でていく。
シェイラは兜の留め金に手をかけ、ぱちりと外した。
「この兜も、要らないわね」
兜の下から現れた若い凡庸な男の頤に指を添わせ、シェイラはじっと男の眼を見つめる。
「兜を脱いだ今のあなたは、もう騎士じゃない。だから、自分が思っていることをありのまま言えるはずよ」
「思ったこと……」
「そう。レヴィス騎士団はこの街で、何をするつもりなのかしら?」
「……各地の騎士団の、視察に回っているのかと」
まだ職務遂行の意思が残っていたか、本当に何も知らないのか、騎士の答えは当たり障りのないものだった。
尤も、オーレア騎士団の末端の情報力を当てにしていたわけではないが。
シェイラはにこりと笑って台から降りた。
「色々話してくれてありがとう、楽しかったわ。通行料はここに置いておくから」
「う、あ?」
「子供たちの分は、まけてくれると嬉しいな?」
「あう……は、はい……」
ダメ押しにウインクすると、騎士は赤面しながら頷いた。
魔術の効果が続いているうちにと、シェイラ一行は足早に検問を通り過ぎる。
「……あの、お母さん」
何とか最低限の出費で切り抜けたと心の中でガッツポーズしていると、レイチェルが何とも言えない顔でこちらを見上げているのに気付く。
いや、レイチェルだけではない。四人の子供全員が一様に同じ表情をしている。
「どうしたの?」
「今の、すっごいキモかったから、二度とやらないで」
レイチェルの言葉に容赦はなかった。
シェイラの頬が小さく引きつる。
対象者を自分の意のままに操る《魅了》——完全に思い通りにするには多少の話術も必要になり、また今回の《魅了》は使い慣れていないこともあって不完全な付与だったが、それでも騎士はほとんど抵抗なく言いなりになった。
絶大な効果を誇る《魅了》だが、欠点はある。
魔力の多い者には掛かりにくいのだ。
シェイラが連れてきた四人は、いずれも魔力の多い優秀な教え子で、至近距離の《魅了》も難なく跳ね除けている。そして《魅了》を抜きにすると、シェイラが蠱惑的に見せようと必死だったそれっぽい仕草はお世辞にもこなれているようには見えず、口説き文句も陳腐で棒読みとこれまたひどい有様なのである。
というかそれ以前に、母親が男を誘惑するシーンなど見ていて気持ちのいいものではない。
母親としても教師としても、この行動は完全に悪手だった。
「私だって、やりたくないわよ……」
お金の代わりに大事なものを失った気がして、シェイラは泣きそうになった。