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真夏のオルタナティブ

作者: エイジー・オズボーン

セミの鳴き声がひどく煩い。

俺はバス停脇のベンチに座ったまま、照りつける太陽の暑さに耐えていた。

熱せられたアスファルトに陽炎が立ち、視線の先にある団地をゆがませている。


「ねえ、あなたもしかして……A中学の時の……」


前を通りかかった中年女性が、怪訝そうな表情で俺を見た。それが中学の同級生の母親だということはすぐにわかった。春先に、成人式で帰郷した時に顔を合わせたからだ。


俺は放っておいて欲しくて、適当な言い訳を並べて追い払う。


考えたいことがあったからだ。


十年前の夏の日のことだ。

今みたいに、セミの声が煩い夏だった。


俺はサフラン色をした扉をくぐり抜けて、驚くべき体験をした。







「真夏のオルタナティブ」





十歳になったばかりの夏。

僕はA市に引っ越してきた。


お父さんとお母さんが離婚したから。

一人っ子だった僕は、お父さんに引き取られた。その頃、お父さんは仕事が凄く忙しくて僕の面倒を見られる状態ではなかったけど、お母さんに預けるよりはマシだと言った。

だから職場の近くにある団地に引っ越してきたんだ。

確かにお母さんは昼間からパチンコに入り浸ってて、僕の面倒を見るつもりはあまりなかったみたい。


新しい学校に転校になったのは七月の中旬で、夏休みが目前に迫っている時期だった。お父さんはなぜか、そのタイミングで僕を学校に行かせた。夏休みの間、一緒に遊ぶ友達がいないと可哀想だと思ったみたい。


だけどそれも迷惑な話だった。


だって、転校生がすぐに周りと仲良くなんかなれないだろ? むしろ誰とも友達になれないまま夏休みに突入し、休み明けに登校したら「あの子誰だっけ?」って言われるに違いない。


大人って不思議だ。ちょっと前まで自分も子供だったくせに、子供の気持ちがまるで分らない。


僕はそんな不安を抱えたまま登校し、担任のマエカワ先生から紹介を受けた。


最初に話しかけてくれたのは、隣の席のミキちゃんだった。日に焼けてて、目がクリッとしてて、リスみたいな顔をした明るい女の子。話をすると、僕と同じ団地に住んでることが分かった。同じクラスにもう一人、団地に住んでる男子がいるらしい。

ミキちゃんは僕に“団地団”を結成しようと言ってくれた。

僕はそのネーミングに噴き出して、その場でOKと伝えた。


団地団。

団員は三人だった。


ミキちゃん。

僕。

そしてもう一人は、シンドウという男子だ。


シンドウは背が高くて、大人びた雰囲気の二枚目だった。僕のお父さんと同じ研究施設に勤める父親と二人暮らしで、無口だけど、クラスのみんなから一目置かれている雰囲気があった。

物怖じせずに話しかけているのは幼馴染のミキちゃんぐらいのものだ。


そんなシンドウと同じ団員になれたことを、僕は心のどこかで誇らしく思っていた。


あっという間に夏休みになった。


僕にとって、ミキちゃんは師匠のような存在になった。


ラジオ体操の集合場所、子供たちが入り浸る玩具店、虫取りができる公園など、みんな彼女から教わった。みんなで花火をやる時は誘ってくれて、プールに行く時は呼びに来てくれた。


大抵はシンドウも一緒だったけど、無口なシンドウとはあまり話さなかった。

唯一教わったのは星のことだ。シンドウは小型の天体望遠鏡を持っていて、星のことに詳しかったから。


そして八月も半ばになった頃のことだ。


僕たちはマノと出会った。


マノを見てまず目に付いたのは、ホクロだった。右の頬骨の辺りに、二つならんで小さなホクロがあった。普通なら気付かないような小さな小さなホクロだ。


だが、マノは尋常じゃなく白い肌をしていたせいで、そんな小さなホクロが凄く目立った。


「マノは雪みたいだね」


ミキちゃんはそう言った。

女子は友達の女子のことを、思ってる以上に褒めることを僕は気付いていた。


カピバラみたいな顔した女子に「かわいい」とか、大根足の友達に「細いよー」とか。


でもマノを褒めるミキちゃんの言葉に嘘がないことを、僕らは知っていた。

マノは本当に、非の打ち所がないくらいに美少女だったから。


まっすぐで艶のある黒髪。

雪のように白い肌。

瞳は茶色っぽくて、どこか外国人のような雰囲気があった。


あえてひとつだけ欠点を探すなら、ほんの少しだけ。そう、注意して見ない限りはまったく気にならない程度にだけど、鼻が大きいというか、高すぎる気がした。

それが何だか、西洋人形みたいな印象を与えていたんだと思う。


マノはたぶん、僕たちよりも少しだけ年上だった。

ちょっと大人びた表情で、微笑みながら言った。


「今日は両親がいないから」


その日の午後、俺とミキちゃんとシンドウ、すなわち団地団の三人はマノの家に招かれた。

子供たちだけで人の家に上がり込んで遊ぶというのは、すごく刺激的なことだった。


しかも、マノの家は豪邸だった。


僕たち団地団の家は二間しかない狭い住宅だったけど、マノの家は二階建ての一軒家だ。

テレビドラマでしか見たことがない、客間というやつに僕たちは通された。


やっぱりというか、想像した通り、マノが入れてくれたカルピスは濃い味がした。


こういうお金持ちの家じゃ、客に出す飲み物は、作り置きの麦茶じゃないんだ。


僕はびっくりしたけど、本当に驚く瞬間はその後に待ち受けていたんだ。





※※





俺の目の前を、大荷物を積んだ軽トラが通り過ぎていった。運転席には、汗だくになった中年男性。虚ろな目でハンドルを握っている。


まるでナイル川で石を切り出していた奴隷のようだ。


俺は冷めた目でそれを見送りながら、ふと考えていた。

十年前に経験した、不思議な体験のことを。


「過去への干渉が問題になるから、それは不可能だと言われていたのよ」


マノはそう言った。

濃いカルピスを飲みながら、俺たちはその説明に聞き入ったのだ。


彼女はタイム・トラベルの話をしていた。

団地団の三人は、その話に食い入るように聞き入っていたのだ。


十年経った今でもその瞬間のことははっきりと覚えている。


唯一思い出せないのは、マノとどうやって知り合ったのかということだ。

何年か前、俺はマノについて調べようとした。


だが結局、全ては無駄になってしまった。


全てはあの時に始まったのだ。廊下の奥にある、サフラン色をした木の扉。


そこをくぐり抜けると……。





※※





僕にはマノが口にした“過去へのカンショウ”の意味が分からなかった。


でも素直に分からないと言うと、馬鹿にされると思って黙っていた。


他の二人はわかってるんだろうか?


チラリと顔色を窺うと、シンドウは涼しい顔で頷いていた。

でもミキちゃんは眉根にしわを寄せていた。だから僕は、それに便乗した。


「ねえミキちゃん、過去へのカンショウについてどう思う?」


「……あたし、過去へのカンショウの意味が分からない」


ミキちゃんの一言を受けて、マノがそれを詳しく説明してくれた。


「その時代にいなかったはずの人が関わることで、歴史が変わっちゃうってことよ。江戸時代にミキちゃんがいきなり現れたら、変な人が現れたって大騒ぎになるでしょ?そしたら歴史に残っちゃうかも知れない。もしかしたら、歴史が変わるかも」


僕は無言で頷いた。アニメや映画で、そうやって過去が変わってしまう話を見たことがあったからだ。


「でも、その時代の人に見つからないように隠れてればいいんじゃないの?」

ミキちゃんの言葉に、マノはかぶりを振った。


「問題が起きる可能性はそれだけじゃないわ。どちらにせよ、その時代に存在しなかったはずの人が関わった時点で、何らか歴史に影響を与えてしまう。だからタイム・トラベルは不可能だと言われていたの」


僕たちは無言で頷いた。この話がどこに向かっているか、ちょっと見失いかけていた。


「ねえ……それで、マノ。さっき言ってた話と、どうつながるの?」


ミキちゃんが言うと、マノは静かに笑った。

妙に大人びた、大人っぽい微笑だった。


マノはさっきこう言ったんだ。

ウチには不思議な扉があると。


「物理的に時間を超えることは危険だけど、裏を返せば、そうじゃなければタイム・トラベルは可能だってことよ。ちょっと、ついて来て……」


そう言ってマノは立ち上がった。


その時点で僕は普通じゃない雰囲気を感じ取っていた。


マノの家の廊下は凄く長く感じられた。飴色をした木目の床に目を落としながら、僕たちはマノについて歩いた。


そしてつき当たりを右に折れ曲がった先に、それはあった。


サフラン色に塗られた、木製のドア。


「絶対に、誰にも言わないって約束してくれたら、ここを開けてあげる」


マノはそう言った。僕たち三人は、無言で顔を見合わせる。


だけど、結論は出ていた。


そう、僕たちは頷き、マノは扉を押し開けた。


時間旅行のツアーの始まりだった。




※※




最初の時間旅行の感想を、俺ははっきりと覚えている。


マノの家で、サフラン色のドアを潜り抜けた俺たちは光に包まれた。

そして気がつくと、泡立つ巨大な河のほとりに立っていたんだ。

傍らには、白い貫頭衣を着て、宝石で着飾った王族の娘と、その許婚の青年の姿があった。俺は白い麻の衣に身を包み、籠を手にして王族の娘に従っていた。


自分の他にも、無数の従者がいた。その人たちは長い長い列をなし、最後尾がどこだか見えないほどだった。


後になってそれが、古代エジプトへの時間旅行だったことを理解する。


空には下弦の月がかかっていた。

その淡い光が、王族の娘の顔を照らす。


つんと尖った鼻、ほっそりとした顎。

小麦色の肌をした美貌の少女を、うっとりとした思いで眺めていた俺は、もう一つの視線に気づいた。


娘の許婚の青年だ。


背の高い、痩身の若者。黒く艶やかな髪を伸ばし、胸元に大きな金の胸飾りを下げている。

切れ長の目は、自分の許婚の整った横顔を捕らえて離さない。


その表情を見た瞬間、俺はなぜだが胸の奥に焔を感じた。

それはつまり、嫉妬だ。


だが当時の俺の精神はあまりに幼く、その感情を理解することはできなかった。




※※




最初の時間旅行のツアーは二時間くらいだったと思う。

戻ってきた僕たちは、マノの家の居間で興奮しながら自分が見たことをまくしたてた。


みんな、泡立つ大きな河の近くに立って、月を見ていたと言った。


社会の成績が良いミキちゃんが、あれはナイル川だったと主張した。


常識で考えると、そんなことがあるわけないけど、信じないわけにはいかなかった。


河を渡った向こう側に、遠く遠く離れた場所だったけど、三角に積み上げられた石の山が見えたんだ。


あれは古代エジプトの光景だった。


でも、ひとつだけ不思議なことがあった。


「……何だか、僕は誰か他の人に乗り移っていたみたいだ」


そう呟くと、マノが静かに笑った。その笑顔を見た僕はなぜか、ナイル川のほとりで見た王族の娘を思い出した。


「そう、これが時間旅行の秘密なの。自分が存在しない時間軸に行くことは許されない。過去に干渉し、歴史を修正する恐れがあるから。でも、魂だけを移送すば、その恐れはない……」


「魂のイソウ?」


ミキちゃんが眉をひそめてそう尋ねた。


「私たちはみんな、古代エジプト時代を旅した。でもそれは肉体を転移したわけではなく、過去に存在する人々の魂に間借りさせてもらっただけなの。あたしたちは他人の肉体を通じて過去を見て、触れ、体験した」


言われてみればその通りだった。

あちらにいる間は、僕は僕自身である自覚を失っていた。

自分のことを王族に使える従者だと思っていたし、周りにいる従者たちの名前も知っていた。


静かな微笑みを浮かべたまま、マノが言った。


「あたしたちは他人を通じて過去を体験することができる。でも、過去にいる間は自分の意思で活動することはできない。だから歴史に干渉することもできないし、旅行先から記憶以外の何かを持ち帰ることもできない」


マノの説明に、みんな感心したように頷いた。


僕は他のみんながどこにいたのか知りたくて、僕は自分が間近で見た、美しい王族の娘について話をした。

だけど不思議なことに、誰もそんな娘は見ていないと言った。


まぁ、ナイル川のほとりには無数の人たちがいたし、互いが見えない場所にいたとしてもおかしくはない。


だけど僕は一つだけ気になっていたことがあった。シンドウが、何だか不自然な表情で目を伏せたのだ。


その時、僕はうっすらと予感していた。

ナイル川のほとりで、王族の娘を見つめていた青年。あの青年に乗り移っていたのがシンドウだという予感があった。


だからシンドウはあの王族の娘を見ていたはずだ。

だけど、どうしてか分からないけど、シンドウはそのことを誤魔化したんだ。




※※




しばらく後になって、俺はシンドウが誤魔化した理由をこう考えた。


原因は、マノだ。

雪のように白い肌を持ったあの美少女が、俺たちを狂わせたのだと。


十歳の頭でも、それほど深く考える必要は無かった。

つまり、あの王族の娘に乗り移っていたのがマノで、許婚がシンドウだったということだ。


時空を超えたあの下弦の月下に立った、結ばれる運命の男女。

例え他人の人生を借りたものだったとしても、それはある種の疑似恋愛だったに違いない。


あの瞬間、二人は結ばれる運命の男女になったのだ。


遠くから、間延びした女性の声が聞こえた。市役所が市内の人々に向かって呼びかけているのだ。

俺はかぶりを振ると、視線の先にある団地に向かって歩き始めた。


頭上で喚きたてるセミが何とも煩い。

まるで十年前の夏の日と同じ。


あの夏には、実にたくさんの出来事が起きた。


サフラン色の扉と、時間旅行のツアー。


そして、何度目かのツアーの時に、重大なる喪失があった。




※※




耳の中にリーン、リーンという強い音が響き渡る。


僕はそれが、時間旅行の終わりの合図だってことを知っていた。

もう何度か、時間旅行のツアーを体験していたからだ。


響き渡る音は凄くうるさくて、嫌な気持ちにさせられる。愉快でワクワクする時間旅行のツアーの中で、その部分だけが気に入らなかった。


だけど、その時だけは深いな耳の中の音に、心底ホッとした。


ハッと目を覚めした僕の周りを、マノ、シンドウ、そしてミキちゃんが取り囲んでいた。


ミキちゃんだけが怯えたような顔をしていて、マノとシンドウは無表情にこちらを見つめている。


僕はサフラン色の扉の前で倒れていた。

時間旅行のツアーの途中で、意識を失ったのだ。


「……ねえ、大丈夫?」


ミキちゃんの声に、僕は静かに頷く。そしてそっと口を開いた。

「……撃たれたんだ」


マノが小さな声でつぶやいた。

「あのギャングが、あなただったのね」

言いながらマノは、その白い手で僕の胸に触れた。


ドキリ、とした。

マノの手は石みたいに冷たくて、絹みたいに滑らかだった。


僕は頷いて、マノの目を見た。

「じゃあ、あの乗り込んできた刑事がマノだったの?」


だけどマノは小さく首を横に振る。

「違うわ。あたしは刑事じゃなかった」


「……僕だった」

振るえる声が聞こえた。目を向けると、真っ青な顔をしたシンドウが、無表情のまま続けた。


「僕はニューヨークの刑事で、犯人を追っていた。キンシュホウを違反した組織があの酒場をアジトにしてるって情報があったんだ」


「シンドウが……撃ったの?」

ミキちゃんが問うと、シンドウは言葉を詰まらせた。

いつもは冷静沈着で、大人びたシンドウが動揺していたんだ。


だって、他人に乗り移っているとはいえ、人を撃って殺してしまったんだから。


しかも、相手はこの僕だ。


マノが大きくため息をついた。僕の胸に手を乗せたままで、すごく近い距離だった。

「これは、想定外だったわ」


「どういう意味?」

ミキちゃんがたずねると、マノはそちらに振り返った。

「私のミスで旅行者を危険な目に合わせた。禁酒法時代のニューヨークは、旅行するには適切な時代じゃなかったってこと」


僕たち団地団の三人は曖昧に頷いた。


「しかも、旅行者の一人が死を体験するなんて……」


マノの言葉に僕はハッとした。




※※




そう、あの時、俺は時間旅行の途中で死んだのだ。


俺は静まり返った団地の階段を昇りながら、そう考えていた。


正確には、ニューヨークのごみ溜めの中をたむろする、社会の害虫の一人とともに死を体験した。


俺を殺したのはシンドウだった。

正確には、ニューヨーク市警の私服警官。


場所はブルックリンの外れにある、倉庫を改造した闇酒場。

俺は後々、その場所であった銃撃戦について調べた。とはいえ、ネットで古い記事を調べただけだが、それでも実際にその場所で起きたことと、殺された男の名前は調べがついた。


ギャングの名はリーン・カーターJr。アイルランド系のゴロツキで、何度も傷害や婦女暴行で有罪になった他に、何件かの殺人にも関与していると噂されていた。

まぁ、射殺されても文句が言えないような凶悪犯だ。


俺は、かつて団地団の一員だったミキちゃんの家の前で足を止めた。


今はこの家には誰もいない。

表札のかかっていないドアに指を伸ばし、そっと触れる。


ミキちゃんとの思い出を掘り起こそうとしたが、うまくいかなかった。ただ幼少期の一部を共有した少女のことを思い出し、懐かしいという感傷が湧き上がってきただけだ。


あのギャング、リーン・カーターJrも同じだったのだろうか。彼は、幼馴染のガールフレンドに会うため、例の酒場に現れたのだ。


薄暗い闇酒場の片隅で、幼馴染はバーテンの恰好をしてウィスキーソーダを作っていた。


短い白金色の髪と、鮮やかなブルーの瞳。

透き通るように白い肌。


俺がカウンターまで歩み寄り、その娘に話しかけようとした瞬間、入口を蹴破る音がした。


トレンチ・コートを着た四人の男たちが、酒場に飛び込んできた。手には鈍色に光る自動拳銃。


警告、そして発砲。


自分が撃たれた瞬間のことははっきりと覚えている。胸に強い衝撃と、焼けた鉄棒を押し付けたような熱を感じた。不思議ことに苦痛は長続きせず、意識が宙空に開いた穴に吸い取られるように薄れていった。


そして、無。


何だ、死とはこんなものか。


最期の瞬間、はっきりそう考えたのを覚えている。


そしてもう一つ記憶しているのが、俺を撃った刑事の目だ。警告とともにいきなり発砲した、ニューヨーク市警の若手刑事。


その瞳には憎悪の色が浮かんでいて、はっきり俺を殺そうという意思が現れていた。


俺はその時にも思ったのだ。


刑事の中にいたのがシンドウなら、マノはバーテンの娘だったのではないかと。


俺とシンドウの間にはいつも、いびつな形でマノがいる。初めて時間旅行に行った時から、俺はそう考え始めていた。

そしてシンドウの奴はついに、俺のことを殺しやがったのだと。





※※





初めはそれがどういう気持ちなのか、僕には理解できなかった。


けど、シンドウに対する気持ちが長く続く中で、次第に理解していった。


僕は嫉妬していたんだ。


シンドウは大人びていて、人とは違う雰囲気を持っていた。だから、マノとよくお似合いだと思う。だけど僕もマノに魅かれていて、二人が仲良くするのが許せなかった。


夏が終わり、夏ではない季節になった頃、シンドウは一人でマノの家に通うようになった。


最初は僕もそのことに気付いていなかった。

夏が終わって学校が始まり、マノの家に行くことが無くなったからだ。


だけどシンドウが学校をよく休むようになった。周りの人間はシンドウに対し、腫れ物にさわるような扱いをしたけど、僕は怪しんだ。


シンドウが学校を休んだある日、僕はおなかが痛いとウソをついて早退をした。

そしてマノの家の前まで行って、そこから出てくるシンドウの姿を目撃したんだ。


許せない。


シンプルにそう思った。

理屈はよくわからない。


ただ、シンドウのことが許せなかった。




※※




ミキちゃんの家の一階上が、俺の家だった。


ドアに表札は無かった。ここも今は、誰も住んでいないからだ。


あの事件があった一か月後、俺たち親子は逃げるようにこの団地を離れ、小さな木造アパートに住むようになった。


あの夏のことを思い出すと、胸が締め付けられる。


意外なことに、表札のかかっていないドアは押すと開いた。

中に踏み込んだ俺は、あっけに取られる。


玄関を入ってすぐの狭い台所に父が立っていたのだ。小さな冷蔵庫を開けて、麦茶を取り出している。振り返った父は少しだけ驚いた表情で「何だ、帰ったのか」と言った。


茫然と見守る俺の前で、父は麦茶を注いだコップを手に居間へと歩いていく。畳敷きの六畳間。壁際にブラウン管のテレビが置かれ、昼のワイドショーが夏休み企画として視聴者からの怪談話を放送していた。


まるで、時間旅行のツアーのようだ。

俺の目の前に広がったのは、十歳の頃の我が家の光景だった。


「父さん、ここで何を……」


声を放った瞬間、風景が一変した。


目の前に広がるのは、古ぼけた団地の一室。電化製品や調度品は姿を消して、カーテンの無い窓から差し込む陽光だけか室内を照らす。


父の姿は無い。

そう、父は五年前に死んだのだ。


俺は埃だらけの床に目をやった。俺たち親子が引き払ってから、この部屋には誰も住んでいないかのようだった。


だが、それを言えばこの団地そのものに、今は誰も住んでいない。

人っ子ひとり、住んでいないのだ。


全ての始まりは、あの夏にあったような気がする。


団地裏手の土手近くにある用水路。幅が広く、流れが急なくせに、一か所だけ柵も多いもなくむき出しになっている個所がある。ぽっかりと空いた穴は太陽の光が差さないほど深く、団地に住む子どたちに“人食い穴”と呼ばれていた。


そう、そこは俺がシンドウを突き落とした用水路だった。




※※




大人たちが騒ぎ立てるので僕は目を覚ました。


壁掛け時計を見ると、夜中の十二時だった。玄関のほうから、お父さんが誰かと話している声が聞こえて来た。


その日は花火大会があって、団地に住む人たちが裏の土手に集まって夜遅くまで騒いでいた。

僕も花火を見に行こうとしてたけど、運悪く風邪をひいてしまって、午後から家で寝ていたのだ。


「……見つからない? 裏の用水路に落ちたかも?」


それを聞いた瞬間、僕は“人食い穴”のことを思い出した。暗くぽっかりと開いた不気味な穴。


「あんな……流れの速い用水路に間違って落ちたら……」

「でも、もうあそこ以外に思い当たらないですよね……」


大人たちが怯えた声で囁き合っているのが怖かった。


熱でぼうっとした頭で、色々なことを想像した。


人食い穴の底、光の差さない暗闇の中で、水はこもった音を立てて流れる。


小川みたいにサラサラと綺麗な音を立てたりはしない。

凄く気味の悪い音だ。


時々、ゴプリ、という音を立ててあぶくが弾ける。


誰も見たことがないけど、あの用水路の中には巨大な肺魚が住んでる。みんなそんな噂をしていた。だからあの人食い穴に落ちたら、肺魚に引き込まれて二度と戻ってこれないのだと。




※※




実際は、肺魚などいないことは明白だった。


俺はかつて自宅だった部屋の窓際に立ち、下を見下ろした。

団地を囲む柵の周りに雑草が繁り始めている。暑い夏の盛り、これから草は伸び続けるだろうが、手入れをする人はどこにもいない。


柵の少し先に、人食い穴のあった場所が見えた。


十年前に、俺がシンドウを突き落とした場所だ。


あの事故があってから、用水路は鉄製の蓋で覆われていた。俺はしばらく窓からそこを眺めていたが、やがてあの場所へ行ってみようと思い立った。


水底から聞こえる、あの気味悪い音を聞いてみたくなかったからだ。


自分の心の奥底にある、闇が鎌首をもたげていた。


闇が生まれたのは、時間旅行のツアーを経験してからだ。俺とシンドウと、マノ。その三人の奇妙な関係が始まりであり、シンドウの態度がそれを加速させた。


大きな転換点となったのは、俺の死だった。


ニューヨークで俺はシンドウに殺された。あの体験が俺の中で、死に対する感覚を変質させたのは間違いない。

死はどこか遠くにある御伽噺ではなくなった。


それは驚くほど身近で、想像しているよりもあっけなく訪れるものだ。

だからそれをシンドウに与えてやろうと考えた時も、深く悩むことは無かった。


ある夜、土手の上にシンドウを呼び出した俺は、一人でマノの家に行っていることを問い詰めた。

シンドウは暗い顔で否定したが、その態度はこちらの怒りを加速させただけだった。


俺はシンドウが一人でマノの家に通っているのを目撃したのだから。


そのことを告げると、シンドウは蒼白になった。そして珍しく狼狽したようになって、俺をなじり始めた。シンドウが何と言ったのか、全ては覚えていない。だが一つだけはっきりと記憶している言葉がある。


「僕たち二人の問題だ。お前なんかには分からない」


その時、俺は気づいたんだ。

シンドウの目の奥にも、こちらに対する嫉妬の炎が燃えていた。


背を向けて用水路にしゃがみこんだシンドウの背中を、俺は強く突いた。


シンドウが持っていた花が散り、そして。


ドポン、と。


無慈悲な音がした。




※※




僕は、人食い穴に鉄製の覆いがかけられるのを見ていた。

夏の名残りだろうか、一匹だけのセミの鳴き声が聞こえる。

夏が終わろうとしていた。


僕は、一人ぼっちになった。




※※




団地の階段を下りた俺は、柵に向かって歩く。


太陽が、ジリジリと照りつけていた。

十年前と同じように。


あの短い夏の直後、マノはいなくなった。

俺は何度か彼女の家の近くまで行ったが、どうしても正確な場所を思い出すことができなくなったのだ。


団地団の誰かに聞けば、あるいは思い出せたかも知れない。

だがそれは叶わなかった。

俺は一人ぼっちになったのだから。


土手を越えたところで、俺は足を止めた。


人の姿があったからだ。


年配の女性が、用水路を塞いだ鉄の覆いに花を手向けている。髪はほぼ白髪になっていたが、立ち居振る舞いから、実際にはそれほどの年齢でないことが分かった。


俺は言葉を失い、その場に立ち尽くした。十年も経った今も、ここに花を手向ける人がいるとすれば、それは被害者の親に違いない。


だが、シンドウには母親がいなかった。

だとすれば……。


「もしかして、ミキちゃんのお母さんですか?」


女性は振り返らず、花に目を落としたままだった。

俺は言葉を重ねた。


「ここは、避難指定区域ですよ。急いで離れるよう、何度もアナウンスされています」


「そう言うあなたも、わざわざここに来た」

女は花に目を落としたまま、そう言った。俺はその言葉を受け止め、静かに頷いた。


「そうです。友達に、会いに来たんです」


その言葉に、年配の女性は反応しなかった。俺はその場に立ち尽くしたまま、十年前の夏の日を思い出しながら言った。


「この用水路に、友達の女の子が流されたんです。花火大会のあった夜でした」


思えばあの水難事故の後、様々な歯車が狂い出したような気がする。


団地団は解散となり、シンドウがマノの家に入り浸り、俺は事故に見せかけてシンドウを殺す方法を思いついた。


「用水路に流されたのは、ミキちゃんね」

言うと、女性が振り向いた。大きなサングラスのせいで、顔は見えなかったが、気づいたことがあった。

「それで……シンドウ君のことは思い出さないの?」


女性のほほには二つの小さなホクロがあった。

俺は息を呑む。


「……これはいったい」


「あなたがシンドウ君を殺したのね」


言葉が出てこなかった。

目の前の女性は、五十代か六十代に見える。

だが、その鼻に見覚えがあった。形のいい、でもほんの少しだけ高すぎる鼻。


マノだ。


十年前、俺たちと同じ年頃だった少女が今や、倍以上も年老いて姿を現した。


その現象を説明することは困難だった。

だがしかし、かつて彼女が見せてくれた不思議な力が関係しているのだと、察しがついた。


「マノ……君はなぜ、その……僕よりも年を取っているんだ?」


「あなたのせいよ」


言うとマノはサングラスを外した。


美しい茶色だった瞳が、白濁している。

俺はあんぐりと口を開いた。


同時に、サイレンが鳴る。また役所がアナウンスしているのだ。避難地区から急いで離れるようにと。

この付近一帯に、放射線の影響が高まっていることが分かっていた。


「何度繰り返しても、こうなってしまう」

マノが低く呟いた。

「市の外れにある研究施設の原子炉がメルトダウンを起こし、日本を中心とした世界の三分の二が死の土地と化す」


俺は言葉を失っていた。マノの目は明らかに光を失っていたが、その代わりに悲しみを詰め込んだような色をしていた。


「今からさらに十五年後の世界の話よ。生き残った地球市民たちは、穢れた惑星を捨てて別の星へ移住することを決意するわ。私はその方舟から来たの」


「……方舟?」


「私たちは地球を捨て、新たな母星を求める旅に出る。居住可能な惑星に辿り着ける可能性は、一億二千万分の一の確率と言われている……」


「……何を言ってるんだ」


戯言だ、と表層意識では考えながらも、魂が震えていた。

メルトダウンを起こしたのは市の外れにある高速増殖炉だ。あれが吹っ飛べば、地球の半分が終わると聞いた記憶があった。


今、施設の中で何が起きているのか正確に把握している人間は一人もいない。目の前の女性が言うように、地球が穢れ、住めない惑星になる可能性は十分にあった。


だが、それが事実だとして分からないことはたくさんあった。


「ここで、何をしてるんだ」


「母なる地球を取り戻すのよ」

マノはゆっくりと俺に近づいてきた。

「一つだけ分かっていることがあった。メルトダウンの遠因は、あなたが殺したシンドウ君の父親にあるの」


俺はゆっくりと頷いた。

シンドウの父親は、例の研究施設で働いていた。

五年前、施設で起きた事故に巻き込まれて亡くなったのだ。

俺の父親とともに。


今回のメルトダウンは、その事故によって取り出せなくなってしまった燃料棒の暴走によるものだった。

そして最初の事故については、技術者の人為的ミスが原因だと噂されていた。


「あの特殊な設備をメンテナンスできるエンジニアは限られている。だけど息子を失ったシンドウ君の父親は精神的に追い詰められており、まともに勤務できる状況じゃなかった。だからあの事故が起きた。あたしは事故を止めるため、時間を遡ることにした」


「……だけど」


かつて聞いたルールに関する記憶が蘇ってきた。


「過去に干渉する危険性があるから、時間旅行のツアーは魂の移送に限られたんじゃなかったのか?」


「それは、あなた達に限ってのルール」

マノは白濁した目で俺を見つめた。

「あたしは過去に干渉するために肉体を過去へ転移させた。何度も、何度も、数え切れないほど繰り返したわ。その結果がこれよ」


そう言うと、白濁した目にそっと触れた。俺たちと初めて会った十年前から、一人だけ時間旅行を繰り返しているということだろうか。

だとすれば、あの老いた姿も理解できる。俺と比べ、三十年以上も年を重ねるほど同じ時間を繰り返してきたということだ。


遠くで再びアナウンスが聞こえた。

地球の終わりを告げる声だ。


「……だとしたら、今回もまた失敗だったというわけか?マノ」


「いいえ、違うわ」

マノはうっすらと微笑んだ。

「何度も何度も、気の遠くなるほど様々なパターンを繰り返して、ようやく正解と思える結論に行き当たったのよ」


「それは、何だい?」


「あなたよ」


その言葉に俺は眉をひそめた。

意味がわからないと言う表情を浮かべる俺に、マノは言葉を続けた。


「あらゆるやり直しのパターンの中で、どうしても障害になるのがあなた。何度やり直しても、シンドウ君と仲違いしたり、足を引っ張ったり、地球の滅亡に繋がる行動に関わってしまう。宇宙の因果律の中で、あなたが運命の遺伝子とでも言うべき存在であることが分かった」


俺は唖然とした。まさか自分がそんな重要な影響を与える存在だとは思いもしなかったからだ。


「だけど、シンドウと仲違いしたのも……」


君のせいだ。

そう言い掛けて俺は口をつぐんだ。マノが何かを言いたげにかぶりを振ったからだ。


「あれは、誤解よ」


「誤解?」


「あなたは、私とシンドウ君の関係を疑った」


俺は静かに頷いた。

古代エジプトや、ニューヨークでの一件。

俺とシンドウの間には、いつもマノがいた。


だが俺の心の中を読んだかのように、マノが言い放った。


「あたしはあそこには、居なかったのよ」


「……どういう意味?」


「別の世界線であなたから聞いたから、何があったのかは理解している。古代エジプトで見かけた王族の娘も、ニューヨークの幼馴染の娘も、あたしじゃない」


そう言われた瞬間、俺は全てを理解した。

確かにそうだ、マノは肉体を転送して僕たちの時代に現れたのだ。


だとしたら。


「そうか……ミキちゃんだったのか」


彼女は古代エジプトを旅した時、王族の娘を見なかったと言った。

それはそのはずだ。自分がその娘だったのだから、見ることができなくて当然だ。


そして、シンドウの複雑な表情……。


「ミキちゃんが亡くなった後、シンドウ君は一人で訪ねて来た。ミキちゃんが生きている過去への移送を求めてね」


シンドウが一人でこっそりとマノの家を訪れていた理由が、それだ。


俺は自分の膝が震えるのが分かった。


歪んだ勘違いによって、シンドウの命を奪い、そして地球の未来を閉ざしてしまった。

にわかには信じがたい。

信じられたところで、自分にこの罪を背負える気がしない。


「……何なんだ」

ボソリと呟いた。

「マノ、いったいこれは何なんだ。俺を責めに来たのか。自分が気づかないまま、取り返しのつかない失敗をしでかした俺を、今になって鞭打ちにきたのか。いったい、何が目的だ」


「……さっき、言ったじゃない。答えを見つけたと」


俺は押し黙った。

不気味な沈黙が二人の間に流れる。


そう、マノは俺に告げた。

俺自身が、原因なのだと。


宇宙の因果律に刻まれた、破滅の遺伝子。


「……俺を、どうするつもりだ。殺すのか」


マノは微笑み、言った。

「免疫を作るのよ」


「……何だと?」


「滅亡の原因となるあなた自身が、滅亡を止めるの。そのために、その自覚を植えつけるために、あなたに全てを話したのだから」


「何だって?」


言っている意味が分からなかった。

俺はすでにシンドウを殺してしまった。原子炉はメルトダウンし、地球は滅亡へと真っ逆さまに落ち込んでいる。


今、俺に真実を伝えたからといって、時間を巻き戻すことはできない。


その時。


再び、アナウンスの声が聞こえた。避難を促す女性の声。


だがやがてその声が歪み始めて、違う音へと変化していった。


リーン、リーンという強い響き。


俺はハッとした。

その音が何なのかを思い出したからだ。


時間旅行のツアーが終わる合図だ。


「もしかして……マノ、これも……」


「そうよ。そろそろサフラン色のドアの向こうへ戻る時間なの。あなたは今の記憶を携えて、元の時間に戻る。時間旅行のツアーが、過去にしか行けないとは言わなかったはずよ」


つまり俺は、未来の俺自身に魂を移送していたのだ。

そして未来に起きる失敗を体験した。


二度と同じ過ちを犯さないように。


マノは微笑んだ。

「頼んだわ。あたしたちを失望させないで。もうひとつの選択肢(オルタナティブ)を獲得してちょうだい」


耳の中にリーン、リーンという強い音が響き渡る。

時間旅行のツアーが終わりを告げようとしていた。




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