プロローグ
「待ちなさい、ティア。どこへ行くの?」
満ち潮が緩慢で潮の流れが比較的穏やかなフロル海。
ここの海水は月の光を海底まで通す程透明だが、今宵は新月。
明かりのない暗闇の中、寝ている筈の末妹がこっそり寝台を抜け出すのを見て、私は声をかけた。
末妹のティアことティアローゼは、六人姉妹の中でも一番愛らしい子だった。
豊かに波打つ金の髪に、大きな瞳は極上のサファイア。
透き通るような白い肌に、愛らしく色づく形よい唇。
一番下なこともあり、ティアは皆から可愛がられた。
溺愛と言っても良いくらいに。
もちろん、私もティアが大事だし可愛い。
それこそ、目にいれても痛くないくらいには可愛がっているつもりだ。
そんなティアは、私より四つ下の15才。
つい一月ほど前に成人式を迎え、初めて海面に上がった日から、あの子はおかしくなった。
ボーッとしたり、ため息を吐いたり、急にドレスやアクセサリー、化粧に興味を持ち出したり、父様の許可なくコソコソ何処かへ出掛けたり…。
皆が戸惑いながらも、可愛い妹だからと色々目を瞑っていたが、もう限界だ。
新月の…、しかもこんな真夜中に出かけるなんて、放って置けない。
「答えなさい、ティア。新月の真夜中に、いったい何処へ行くの?」
咎める様に少し声を強めれば、ティアが華奢な肩を震わせたが、直ぐに自身を奮い立たせて声を上げた。
「お願い、リリー姉様!見逃して!」
その切羽つまった様子に、思わず頷いてしまいそうになるのをぐっと堪えて私は言った。
「見逃すも見逃さないも、理由を聞かなければ出来ないわ。ねぇ、教えて。一体どうしたの?最近、変よ。皆も心配しているわ」
「…………ごめんなさい」
「それは、どれに対して?心配かけている事?それとも理由を言えない事?」
「…………」
ティアは再び俯いて、黙りを決め込んでしまった。
こんな時、自分の口下手が本当に嫌になる。
長女のマリーン姉様なら、きっと容易く聞き出せただろうに。
(今からでも呼んできた方が良いかしら。でも、こんな真夜中に起こすのは………)
そう真剣に考え込んでいたから、ティアの動きに全く気が付かなかった。
「ごめんなさい、リリー姉様!」
叫びと共に振りかけられた謎の粉に、驚いてつい息を飲んでしまい……。
「……っ!ティア…な、に…を………」
粉に噎せて咳き込んでいると、急に体の力が抜けてその場に崩れ落ちてしまった。
「ごく軽い痺れ薬です。即効性で特に後遺症はないと、海の魔女が言っていました」
「……っ!」
海の魔女ですって!
気まぐれで小狡くて打算的で問題しか起こさない海の魔女とティアが交流を持っていたなんて!
知っていれば全力で止めたものを!こうなってしまっては、どうしようもない。
内心歯噛みしている私を余所に、ティアが扉へ手をかける。
あぁ、行ってしまう!
(お願い、ティア!行かないで!何故か、胸騒ぎが止まらないの!!)
すると私の願いが届いたのか、ティアが振り向いて言った。
「ごめんなさい。この声と尻尾を失ったとしても………私は、あの人の側に居たいの……………」
(どういうこと…?この子の鈴の音の様な声と、美しい翡翠の尻尾が………?)
呆然としている間に、扉が開かれる。
そして今度こそ、あの子は振り返らずに出ていってしまった。