序章:初めての先生
【SIDE:日野大河】
面白いと思える事のない退屈な日常。
そこから解放されるのは、きっかけというか、刺激的なものが欲しい。
俺の名前は日野大河(ひの たいが)。
夢の大学生活、憧れと期待に満ちた独り暮らし。
高校時代の受験勉強から解放され、いざ大学生になったものの、大学生活が面白いなんて感じたのは最初の3ヶ月だけだ。
大学とアルバイト、たまの休みに友人たちと合コンしたりするも恋人はできず。
恋人がいない歴=自分の人生。
決して自分の顔が不細工でもなければ、モテないと言うわけではない。
基本的に女性付き合いが下手なので、合コンしても、どうにもうまくいかない。
だから、何でもいいから刺激的な何かを求めていた。
それは新年が明けた冬の1月に入ったばかりの頃。
俺と彼女が初めて出会ったのは肌寒い真冬のことだった……。
正月休みに帰省していた実家から帰って来た1月初旬。
まだ冬休み中で大学も休みなので、朝の目覚めもゆっくりだ。
寒い時ほど布団の中で眠りにつく幸せは何事にも変えられない。
……のだが、その安眠を妨害したのは腹部への圧迫だった。
「――起きなさい、大河っ!」
「――ぐはっ!?」
女性の声と共に俺の腹部を踏みつける足。
俺は慌てて布団から顔を出すと、まるでサディスティックを絵に描いたような性格をした女王様気取りの美人の女性が、俺の腹を思いっきり踏みつけていた。
「あら、目が覚めたのね。今日はすぐに起きてくれて助かるわ」
「な、中身出るっての。いきなり何しやがる、姉ちゃん!?」
「アンタがさっさと起きないから実力行使したまでよ」
寝ている人間の無防備の腹を踏みつける前にすべき対応は他にもあるはずだ。
それが普通に危険な行為だと知ってほしい。
何プレイだ、これは……?
「こっちは眠いんだよ。だから寝る。邪魔をする……な、ぐぼぉ!?」
平然と足に力(体重とは言えない)をかけてくる姉ちゃん。
俺を朝っぱらか踏みつける女性、これが俺の姉ちゃんの日野美鶴(ひの みつる)。
俺のひとつ年上の姉で、美人だが気が強くてかなり扱い要注意な人物だ。
「私が起きろ、と言ったのよ?お姉ちゃんの命令に逆らうつもりかしら?」
「……わかった。起きますから、足をどけてください。優しくて美人なお姉さん」
「そう?それならどいてあげる。“一撃”で起きてくれて嬉しい。危うく、足の位置をさらに下の方へ向けるべきだったわ」
「“一撃”の時点で俺にとっては脅威でしかねぇよ。しかも、俺の大事な場所を狙うな」
さらりと危険発言されて下半身を守るポーズを布団の中ではしておく。
なんておっかない姉なんだろう。
俺は下半身の心配をしつつ、出来る限り急いで起き上がる。
「まずは洗顔してきなさい。朝食の準備をしてあげるから」
「お願いします……うぅ」
眠い目をこすりつつも、俺は逆らう事なくリビングへと出ることにした。
はぁ、毎日のこととはいえ、この姉の対応だけは慣れそうにない。
大学生活に伴い、念願の独り暮らしのはずだった。
しかし、俺が通う大学が姉の通う大学の隣街にあると言う事で、進学してから姉と一緒にアパートを借りて暮らしている。
そりゃ、親からの仕送り代を考えれば同じ部屋で済む方が効率がいい。
親の心配も減るだろうし、その辺の事情も分かる。
だが、しかし、ほとんど実生活において姉の監視下におかれた今の現状は不満だ。
「……ふわぁ、ちくしょー。変な目覚め方のせいで気分が悪い」
起こすのなら、起こすで別の起こし方をしてくれればいいのに。
美鶴姉ちゃんは俺にとって幼い頃から脅威の存在だ。
リビングに出ると甘いイチゴジャムと香ばしいパンの香り。
焼き立てのパンとサラダ、それにスープという、いつもの定番の朝食がある。
俺を足蹴にしていた姉は優雅に食後のコーヒーを飲んでいた。
「……いただきます」
食事の用意、炊事や家事等をしてくれる姉の存在が有難いと思う事も事実だ。
そういうのが面倒なので世話になっている事に感謝はする。
だが、それと自由を天秤にかけると微妙なものだ。
「なぁ、姉ちゃん。親に相談して独り暮らしをしないか?」
「は?何を今さら。アンタがこっちに来るから、私は去年住んでたアパートをわざわざ引っ越して、広めのこの部屋に変えてあげたのよ。一人暮らししたいならもっと前に親を説得しなさいよ。手遅れだわ」
「……そこだよ、姉ちゃん。よく考えても見ろよ。俺達は大学生だぜ?そりゃ、人には言えない関係も含めてプライベートは大事だろ。それが何が悲しくて姉と弟が2人暮らしせねばならないのだ?」
ありとあらゆる意味で家族が家にいるとくつろげない事もあるのさ。
「そう言うセリフはアンタが部屋に女の子を連れ込めるようになってから言いなさい」
「うぐっ!?そ、それは……。大体、そういう意味じゃ、姉ちゃんも……ハッ!?」
殺気を感じて俺は食べかけの食パンを机に落とす。
爽やかな笑顔で俺にキラッと光るフォークを向ける姉がいる、マジでこえぇ。
「何か、言ったかしら?よく聞こえなかったわ」
「いえ、何でもないです。スープでも飲もうっと。あはは……はぁ」
俺は顔をひきつらせて、スープのカップに手を伸ばす。
この乱暴な性格のため、美人なのに姉ちゃんは恋人のひとりもいない。
彼氏でも出来れば、多少、大人しくなるのだろう(という願望)。
「別に今のままでも問題ないでしょう?」
「まぁ、そうなんだけど。気持ちの問題?分かるだろ?」
「私は現状で満足してるもの。そんなことを気にするのは女でも作ってからにして。そうすれば考えてあげない事もない」
姉いわく、「独り暮らしって案外寂しいものよ」、らしい。
一年だけ独り暮らしを経験した姉だが、この人が本当にそんなことを感じるのか。
それはさておくとして、俺は無理やり起こされた本件を聞く事にする。
「それで、俺を足蹴にしてまで起こした理由は?」
「……焼いたパンが冷めるから?」
「ウソっ!?そんな理由で腹を踏まれたのか、俺」
それならば、もっと優しく起こしてもらいたい。
甘い声に囁かれて……すまん、実姉だけに余計な妄想は毒でしかない。
「というのは、嘘。用件がなければあんな起こし方はしないわよ」
「用件なくても、あんな起こし方をする人のセリフじゃない」
「ご不満ならこれからは優しく起こしてあげるわよ。ゴキブリ用の殺虫剤とかどうかしら?」
「――普通に死んじゃうからやめてっ!?」
姉の乱暴な起こし方の是非については真面目な議論をしたい所だが、彼女は「濡れた雑巾を顔にかけるとか?」と危ない方向に持っていこうとするので無理やりやめた。
俺がもしも死ぬとしたら間違いなくこの美鶴姉ちゃん絡みだろう。
「まぁ、そんなどうでもいい事はいいのよ」
「俺の生死はどうでもいいのか。これ以上、話をしていたら俺も怖いからいいや。話を戻して、朝を起こしたって事は何かあるんだろう?そうじゃなきゃ、俺があまりにもかわいそうすぎる」
うちの姉にはよく朝を起こされるが、あれほど乱暴に、さらに言えば休日に起こされる事は滅多にない……ていうか、休日ならこの人も昼まで寝ているし。
俺は食べ終えた朝食を片づけながら本題を聞きだす。
「大河、私が家庭教師のアルバイトをしているのは知ってるでしょ?」
俺が居酒屋でバイトしているように、美鶴姉ちゃんもバイトをしている。
確か家庭教師の派遣をしている所で、家庭教師として高校生を教えているとか。
将来、教師になるための教育大に通う姉にとってはいい勉強になってるそうだ。
こんな人が先生になったら、いかついヤンキーですら更生させられそうだぜ。
「そのアルバイト先が新しく人を探しているの。内容は中学生を教えられる人間ね。さすがにアンタでも中学レベルは教えられるでしょ。一応、名門の●●大学に通ってるわけだし」
「いや、教える事は可能だが、何で俺なんだよ?」
「誰か紹介してくれって、事務の人に言われてさぁ。アンタなら、いいかなって。ほら、バイトない日は暇そうにしてるじゃない」
居酒屋のバイトは小遣い稼ぎのためのバイトで、週に何回もシフトに入らない。
「そりゃ、暇な日が多いのは事実だが、こう見えて忙しいんだぜ」
「彼女の一人でもいれば、その台詞も認めてあげるわ。というか、既に話は通してあるから、今日は面接の予定もあるの。大丈夫よ、形だけで採用は決定済み。給料も中々いいし。居酒屋のバイトと掛け持ちでもOKだから」
「俺がオッケーじゃねぇ!?いつ行くって決めたんだよ」
こちらの意思がまったくないのに話を勝手に進めるな。
姉ちゃんは「嫌なの?」と面倒くさそうに言うと俺の前に何枚かの紙をつきだす。
「……だったら、これ。今すぐ、私に返してくれる?」
そこに書かれているのは俺が姉ちゃんに借りている金の借用書。
急な飲み会代等でお金が必要な時に姉ちゃんに借りた時に紙に書いて残したのだが、たまりにたまって合計8万円ぐらい。
ちなみに俺の貯蓄は残高3万円弱、手持ちを合わせてもすぐには無理だ。
帰省した時に高校時代の友達と遊びまくった年末の後だ、すぐに返せるはずもない。
「ま、待てよ。その返済はゆっくりでいいって言ってくれてたじゃんかよ」
「えぇ、別に私はいいのよ?可愛い弟にお金を貸すぐらいは。でもねぇ、お父さんはどうかしら。このお金を借りているという事実を知らせるのは簡単という事よ」
うちの父親はそう言う事に非常に厳しいお人だ。
大学に進学するときに約束した絶対にしてはいけない事が3つある。
「大学を中退するな」「借金を含めた金の貸し借りをするな」「子供をつくるな」。
最後は大学在籍時に出来ちゃった結婚した両親からの説得力ある言葉だが。
その3つのどれかに違反したら、今後一切の援助はしないと言う約束だった。
「まだ大学生活も3年、残ってるのにどうするつもりかしらねぇ?」
「き、汚い。やり方がリアル過ぎて笑えないってば」
「ここも追い出されたくないわよね?寒い夜空の下を野宿で暮らしていきたい?」
にっこりとほほ笑みを浮かべて紙をちらつかせる美鶴姉ちゃん。
「……家庭教師のアルバイト、話だけでも聞かせてもらいます」
「よろしい。それじゃ、すぐに支度しなさい。これで私の給料が少しだけあがるの。大河が優しくて嬉しいわ」
マジで鬼畜すぎるぜ、この人。
姉には逆らえない、と俺は改めて感じるのだった。