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70 第2章:冷血の対価(一真毒殺と過去回想の裏側)

第5節:運命の午前0時へ


神条、陣内、陸斗――。

黒木宗一郎が完全犯罪を隠蔽するために用意し、愛華の周囲に配置した三人の「見栄えの良い小道具」たちは、互いに対する猜疑心と、一真の仕掛けた巧妙な情報工作によって、音を立ててその社会的な基盤から崩壊していった。


法曹界の裏で暗躍し、あらゆる法的防壁を固めていたはずの弁護士・神条は、自身の不正蓄財データと愛華との密会記録が匿名で関係各所や警察の窓口へバラ撒かれたことでパニックに陥り、共犯関係から逃げ出すように姿を消した。

会社の内部で一真を過重労働の地獄へと追い詰め、機密データを不正に流出させていた役員の陣内もまた、社内の裏金工作と背任行為の証拠が一斉に告発されたことで取締役会から追放され、警察の捜査線上に名前が急浮上していた。

そして、愛華に暴力を振るい、世間の目を愛憎劇へとミスリードしていたパーソナルトレーナーの陸斗に至っては、暴行、恐喝未遂、迷惑防止条例違反等で警察官に現行犯逮捕という悲惨な末路をたどっていた。


三人の男たちは、それぞれが自分の欲望と保身に駆られ、互いを疑い、泥沼の醜態を晒しながら、見事に自滅していった。

彼らは自分たちがこのゲームの勝者であると錯覚していたが、最初から黒木という巨大な蜘蛛が張り巡らせた巣の上で躍らされていた「捨て駒」に過ぎなかったのだ。そして、その捨て駒たちが次々と消え去ったことで、黒木と愛華が築き上げたはずの完全犯罪の防壁は、今や見る影もなく剥ぎ取られていた。


しかし、その崩壊の現実を前にしてもなお、ペントハウスの最上階に君臨する愛華の心は、狂気的なまでの浮かれ様と勝利の陶酔に支配されていた。


「ふふっ……あははっ……!」


誰もいない広大なリビングルームで、愛華はワイングラスを傾けながら低く笑声を漏らしていた。

彼女の脳裏には、神条や陣内、陸斗といった「邪魔なハエども」が勝手に潰れ合って消えてくれたことに対する安堵と、いよいよ明後日の深夜、政財界の絶対的フィクサーである黒木宗一郎がこのペントハウスへ自ら足を運び、自分を正式なパートナーとして迎えに来てくれるという妄想が、甘い蜜のように泡立っていた。


「神条も陣内も陸斗も、自分が一番賢いと思い込んでいた愚か者たち……。彼らが勝手に自滅してくれたおかげで、私の『被害者』としてのシナリオと、スイスのプライベートバンクに眠る数百億円の報酬は、すべて私のものになるわ……!」


愛華はスマートフォンを強く握り締め、黒木から送られてきた暗号化されたメッセージの数々を何度も読み返していた。

画面に並ぶ文字には、すべてのスキームが完了し、我が手元に百億の富と特許権が完遂されたその瞬間、我が血を引く「後継者(=ベビーベッドの中の赤ん坊)」と共にスイスへの出国準備を最終確認するという、黒木の絶対的な自信に満ちた言葉が刻まれていた。


愛華にとって、前世の夫である佐藤一真の死など、数ある踏み台の一つに過ぎなかった。

彼女はペントハウスの床に散乱した書類やガラス片を気に留めることもなく、贅沢なドレスの裾を翻しながら、ゆっくりとベビーベッドのほうへと歩み寄っていった。


「ねえ、宗真……。あなたのお父様が、いよいよこの部屋にいらっしゃるわよ。世界を支配する黒木宗一郎様が、この私と、あなたを正式な後継者として迎えに来てくださるの……。本当に、私たちは選ばれた人間なのよ……!」


愛華の瞳には、母親としての温もりなど一片たりとも宿っていなかった。

そこにあるのは、権力と金、そして巨大な悪の組織の頂点に立つ男の寵愛を受ける自分自身に酔いしれる、毒婦の醜い狂気だけだった。


だが、その愛華の足元――ベビーベッドの冷たいマットレスの上で、静かに横たわっているように見えた赤ん坊――佐藤一真の魂を宿した「俺」の瞳は、氷のように冷徹な光を放っていた。


(……酔いしれるのも、今のうちだ、愛華。そして、黒木宗一郎)


赤ん坊の小さな体の中で、俺は全神経を集中させ、最後のシステムの最終確認を行っていた。

前世の俺が命を削って開発し、未来のすべてを懸けていた基幹特許――「次世代AIインフラおよび分散型暗号処理特許」。

黒木が自社サーバー内に構築した決済システム「Project-ZERO」を用いて、明後日の深夜に行おうとしていた数百億円の不正送金と権利移転のスキーム。


俺は、その決済システムのコアアルゴリズムの中に、前世の設計者しか知り得ない極秘のバックドアを完全に埋め込み終えていた。

黒木が自らの手で決済の「最終承認(ENTER)」を押したその瞬間、資金はスイスのプライベートバンクの口座ではなく、国際金融警察(FATF)および国税庁の不正資金凍結用特別口座へと、一瞬にして強制リダイレクトされる。


それだけではない。

黒木が過去数年間にわたって行ってきた政財界への裏金工作、インサイダー取引、海外ファンドとの不法密約、そして何より、前世の俺(一真)に対する殺人教唆と毒殺工作の全記録――そのすべてが、日本中の主要報道機関と検察庁、そして金融庁のメインサーバーへ一斉に自動送信される「デッドマンズ・スイッチ(死人のスイッチ)」が、稼働状態でスタンバイを完了していた。


スマートホームの完全密室化、超高画質防犯カメラ群の裏口からのハッキング、DNA自動照合システムの偽装、そして特許決済のキル・スイッチ。

現代テクノロジーの全兵器をセットアップし終えた俺は、小さな肉体をシーツの上に横たえながら、浮かれ騒ぐ妻・愛華の挙動を冷徹な眼光で監視し続けていた。


時計の針が、刻一刻と深夜の零時――「運命の午前0時」へと近づいていく。

第2巻のラストシーンへと回帰する、あの緊迫した静寂が、ペントハウスの空気を再び支配し始めた。


外の夜空には、すべてを飲み込むような暗い雲が垂れ込め、街のネオンだけが冷たく窓ガラスを濡らしている。

神条、陣内、陸斗という三人の使い捨ての駒たちが完全に消え去り、世間の目が静まり返ったその漆黒の闇のなかで――いよいよ、すべての元凶である黒木宗一郎自身が、この高級タワーマンションの最上階、ペントハウスの扉の前に姿を現そうとしていた。


プライベート・エレベーターホールの上質な照明の中に、仕立ての良い暗紺色のオーダーメイド・スーツを纏った黒木宗一郎の巨体が佇む。

その足音が、冷徹に、そして重厚に、大理石の床を踏みしめながら近づいてくる。


ザッ……ザッ……ザッ……。


その足音は、前世の俺を暗闇へ追い詰め、命を奪った絶望の足音であり、同時に、この男が己の完全犯罪と「我が子との対面」を確信して踏みしめる、狂おしい高揚の足音だった。


ガチャリ――。


重厚な防音構造を持つ玄関ドアの電子ロックが外れ、巨大な扉がゆっくりと滑らかに開き始める。

扉の向こうに現れた黒木宗一郎の冷酷で鋭い瞳と、ベビーベッドの中からそれを見据える赤ん坊・一真の瞳が、時空を超えて静かに交錯しようとしていた。


悪魔たちが描き上げた「完全犯罪の神話」が、いま音を立てて崩壊し、数百億の富と権力がすべて地獄の底へと呑み込まれていく「泥沼の最終決戦」の幕が、ついに切って落とされようとしていた。

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