第4話 「奉行様の秘密と、夜に現れたもの」
町の噂というものは、
どうしてこうも早く広がるのだろう。
「奉行様の許嫁なんですって?」
「昨日は一緒に町を歩いてたって!」
「手を取ってたとか!」
(……三割くらい事実で、七割盛られてる……)
私は俯きながら、
奉行所の裏口を通っていた。
「……鈴」
背後から聞こえた、落ち着いた声。
**九条 朔夜**様だ。
「町の様子が、騒がしいな」
「……すみません」
「謝る必要はない」
そう言って、
いつも通りの無表情。
(……本当に、気にしてないのかな)
その時だった。
――ひゅう、と。
生ぬるい風が、背中を撫でた。
「……?」
空気が、歪む。
「下がれ」
低く鋭い声。
「奉行様……?」
「……あやかしだ」
町の路地の奥。
闇の中から、黒い影が滲み出る。
「――ひっ!」
「動くな」
朔夜様が、私の前に立つ。
影は、獣の形をしていた。
赤い目。歪んだ口。
町人たちの噂や恐れに引き寄せられた、
噂喰い――
人の口から生まれる下級あやかし。
「奉行様の……許嫁……
……喰えば……」
「……黙れ」
次の瞬間。
朔夜様の足元に、淡い光が走った。
(……え?)
風が、渦を巻く。
着物の裾が揺れ、
彼の影が――
人の形から、別のものへと変わる。
「……っ」
月明かりに照らされて見えたのは、
人ではない――
**狐**の影。
銀色の尾が、揺れていた。
「奉行様……?」
声が、震える。
「……見るな」
そう言われても、
目を逸らせなかった。
朔夜様は、片手を上げる。
「――散れ」
光が弾け、
噂喰いは悲鳴を上げて霧散した。
静寂。
ただ、風の音だけが残る。
⸻
「……鈴」
振り返った彼は、
もう人の姿に戻っていた。
「……今の、見たな」
「……はい」
逃げることも、
叫ぶこともできなかった。
「……俺は、人ではない」
低く、静かな声。
「半妖だ。
人と、あやかしの間に生まれた」
「……だから……」
「奉行になった。
両方の世界を、裁くために」
少しだけ、間が空く。
「……怖いか」
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
(……怖い?)
私は、首を振った。
「……びっくりは、しましたけど……」
顔を上げる。
「……奉行様が、町を守ってるのは……
変わりません」
朔夜様の目が、わずかに見開かれた。
「……それだけか」
「はい」
「……噂も……
この正体も……」
一歩、近づく。
「……全部ひっくるめて、奉行様です」
沈黙。
やがて。
「……鈴」
「はい」
「……俺は、不器用だ」
(知ってます)
「……だが」
低く、真剣な声。
「お前を、守りたい」
胸が、熱くなる。
町の噂は、
あやかし事件でさらに広がるだろう。
でも――
(……それでも)
この人の隣にいることを、
私はもう、怖いとは思わなかった。
夜の町に残る月明かりが、
二人の影を、そっと重ねていた。
夜は、静かだ。
奉行所の庭に、月明かりが落ちる。
虫の声だけが、規則正しく響いていた。
(……知られてしまった)
**鈴**に、
俺の正体――
半妖であることを。
恐れていた瞬間だったはずなのに、
胸の奥にあるのは、奇妙な空白だ。
(……拒まれなかった)
逃げるでも、怯えるでもなく。
鈴は、ただ俺を見ていた。
(……あの目は)
怖れではなかった。
⸻
俺は、生まれた時から
どちらにも属さない存在だった。
人の里では、異端。
あやかしの側では、裏切り者。
だから奉行になった。
裁く立場にいれば、
どちらからも距離を保てると思った。
(……思っていた、だけだ)
鈴は、違った。
俺を、役職でも。
種でも。
力でも。
(……俺として、見た)
⸻
「……鈴」
名を呼ぶと、
胸が少し、締め付けられる。
(……あの時)
「怖いか」と聞いたのは、
本音だった。
拒絶される覚悟は、
何度もしてきた。
(……だが)
「変わらない」と、
あの女は言った。
(……変わらない、だと)
そんな言葉を、
俺は知らなかった。
⸻
奉行所の廊下。
鈴の部屋の前で、足が止まる。
(……覗く気はない)
ただ、無事かを確かめたかった。
障子越しに、
小さな寝息が聞こえる。
(……生きている)
それだけで、
胸が、ひどく安らいだ。
(……これは)
守る義務ではない。
奉行としての責務でもない。
(……個人的な、感情だ)
⸻
俺は、あやかしを斬れる。
人を裁ける。
だが。
(……この感情だけは)
どう扱えばいいのか、分からない。
鈴が俺を恐れないのなら、
俺は、どこまで近づいていい。
(……触れても、いいのか)
答えは出ない。
だが。
(……離れる気は、ない)
正体を知られた夜。
俺は初めて――
誰かに、選ばれた。
月明かりの下で、
拳を、そっと握り締める。
(……鈴)
明日も、
その隣にいられるように。
俺は、あやかし奉行であり――
そして、
一人の男でいたいと思った。




