第1話 「奉行様から縁談を言い渡されました」
「……鈴。今日から、お前は俺の許嫁だ」
そう言われた瞬間、私は手に持っていた箒を落とした。
「……え?」
聞き返した私に、目の前の男――
九条 朔夜様は、いつも通り感情の読めない顔で頷いた。
ここは帝都・花乃町。
私はこの町で生まれ育った、ごく普通の町娘。
朝は長屋の掃除、昼は団子屋の手伝い、夜はくたくた。
そんな平凡な毎日を送っていた……はずだった。
それなのに。
「ちょ、ちょっと待ってください奉行様!?
許嫁って、あの、結婚前提の……!?」
「その通りだ」
即答だった。
迷いも照れも一切ない。
「いやいやいや!
私、奉行様と今日が三回目に会っただけですよ!?」
「回数は問題ではない」
「問題しかありません!」
思わず声を張り上げると、周囲の役人たちが一斉に視線を逸らした。
……あ、これ、触れちゃいけない空気のやつだ。
「理由は後で話す。
とりあえず、今日から奉行所で暮らせ」
「同居!?」
「婚約者なのだから当然だろう」
当然じゃない。
心臓が、どくんと嫌な音を立てた。
――九条 朔夜。
若くして奉行に任命され、あやかし絡みの事件を専門に扱う異例の存在。
冷たい、怖い、近寄りがたい。
町ではそんな噂ばかり聞いていた。
……なのに。
「荷物は最低限でいい。
着替えはこちらで用意する」
「え、着替えまで!?」
「好みは?」
「え?」
「色だ」
「……あ、淡い色、が……」
答えた瞬間、
朔夜様はほんの一瞬だけ、視線を逸らした。
――今の、照れ?
いや、まさか。
あの無表情奉行が?
「……参考にする」
それだけ言って、彼は背を向けた。
その背中を見つめながら、私は思う。
(どうして私なの?
どうして、奉行様は――)
そして何より。
(……この人、意外と不器用で、優しい?)
胸の奥が、少しだけくすぐったくなった。
こうして私は、
あやかし奉行の許嫁という、とんでもない立場になったのだった。
奉行所の門をくぐった瞬間、私は悟った。
(あ、ここ、私がいていい場所じゃない)
白砂が敷き詰められた中庭。
無駄のない造りの建物。
行き交う役人たちの動きは揃い、空気は張りつめている。
そんな中。
「……鈴、こちらだ」
奉行様――**九条 朔夜**が、当たり前のように私を呼んだ。
「は、はい!」
返事をしただけで、周囲の視線が一斉に集まる。
(え、なに、なに!?
今の呼び方、距離近くなかった!?)
さっきまで「町娘」だった私が、
今や奉行様に名前で呼ばれている。
……状況が飲み込めない。
「ここがお前の部屋だ」
案内されたのは、奉行様の執務室の奥。
思っていたよりもずっと綺麗で、畳の香りが心地いい。
「え、ここ……奉行所の中ですよね?」
「そうだ」
「女中部屋とかじゃなくて……?」
「その必要はない」
淡々とした声。
でも、なぜか否定の余地を与えない。
「……あの」
勇気を出して聞く。
「本当に、私でいいんですか?
その……許嫁」
一瞬、朔夜様の動きが止まった。
「……理由は、追って話す」
視線を逸らし、そう言う。
(あ、これは深く突っ込んじゃダメなやつ)
「ただ――」
低く、静かな声。
「お前でなければ、困る」
「……っ!?」
心臓が、どくんと跳ねた。
(こ、困るって……!?
それって、どういう意味!?)
顔が熱くなるのを感じながら俯くと、
朔夜様は咳払いを一つした。
「……夕餉は一緒に取る。
時刻になったら迎えに来る」
「は、はい……」
そう言って、彼は部屋を出て行った。
一人残された私は、畳にぺたりと座り込む。
「……無理……」
奉行様との同居。
しかも婚約者。
(これ、心臓がいくつあっても足りない……)
その夜。
迎えに来た朔夜様と並んで食事を取ることになった私は、
さらに現実を突きつけられる。
「……食べないのか」
「た、食べます!」
奉行様の正面。
距離、近い。近すぎる。
「……口元」
「え?」
「米粒がついている」
すっと伸びた指が、私の唇に触れた。
「――っ!?」
「……取れた」
無自覚にそう言って、指を引っ込める朔夜様。
(い、いまの……恋人がやるやつじゃない!?)
一方の本人は、何事もなかったように箸を進めている。
(この人……
距離感が、完全におかしい……!)
こうして私は確信した。
**九条 朔夜**様は、
――恋愛に関して、致命的に不器用だ。
そして同時に。
(……でも)
胸の奥が、ほんのり温かくなる。
(この人となら……
ちょっと大変だけど、悪くないかも)
奉行所での同居生活は、
こうして波乱の幕開けを迎えたのだった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は「和風×あやかし×ラブコメ」をテーマに、
少し不器用で、距離感がどこかおかしい奉行様と、
平凡だけれど芯のある町娘の恋を描いています。
九条 朔夜は、見た目も立場も完璧なのに、
肝心なところがまったく分かっていないタイプです。
本人は真面目に接しているつもりなのに、
無自覚に距離を詰めてしまう――
そんな「拗らせ不器用男子」を書くのがとても楽しかったです。
一方の鈴は、振り回されながらも、
少しずつ奉行所の生活に慣れ、
自分の気持ちと向き合っていく予定です。
この先は、
あやかし事件をきっかけに二人の距離が縮んだり、
朔夜の正体が明らかになったり、
周囲からの「婚約者扱い」に鈴が赤面したりと、
じれったくて甘い展開をたくさん用意しています。
更新はゆっくりになるかもしれませんが、
最後までお付き合いいただけましたら嬉しいです。
もし少しでも「続きが気になる」と思っていただけたら、
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それでは、
あやかし奉行と町娘の恋物語を、
どうぞ最後まで見守ってください。
――作者より




