笑っているつもりでも
陽が傾き始めた頃、離れの扉が静かに開いた。
足音を聞いたアネットは、ティーカップを持ったまま軽く振り返る。窓辺に座る彼女の前に現れたのは、少し疲れの見える顔をしたセレナだった。
「おかえり。婚約破棄された可哀想な令嬢さん」
口にしたのは、気遣いでも労いでもない軽口。けれどそれこそが、彼女なりの優しさだった。
セレナは肩の力を抜き、わずかに笑った。
「そういう言い方、やめて」
「でも事実でしょう? 座って。紅茶がちょうどいい感じにぬるくなってるわよ」
ふざけた言葉の裏に、張りつめたものをそっとほどく気配を織り込む。真面目な慰めよりも、こういう調子のほうがセレナには効く。
昔からそうだった。
紅茶と菓子が並ぶテーブルにセレナが腰を下ろすと、部屋にやわらかな沈黙が落ちる。外では風が木々を揺らし、秋の紅葉がゆっくりと落ちていた。
「……ありがとう、アネット。あなたの顔を見たら、少しだけ呼吸が楽になった」
そう言ったセレナの声に、わずかな震えが混じっていた。
無理をして笑っているのが見える。けれど、問い詰めたりはしなかった。
「それってつまり、私の顔が癒しってこと? やだ、照れるわね」
いつもの調子で肩をすくめると、セレナは小さく吹き出した。ほんのわずかに、目元が緩む。
ほんの少しだけ、いつもの彼女が戻ってきたような笑顔だった。
「でもね、笑ってるつもりでも、目がぜんぜん笑ってないの。……ごまかせてないわよ、セレナ」
その言葉に、セレナの手がふと止まった。
ティーカップの縁に添えていた指が、かすかに揺れる。
笑みを浮かべたまま、彼女はほんの一瞬だけ目を伏せた。まるで、その一言が核心を突いたことを認めるかのように。
「……ごめんなさい」
ぽつりと落ちたその声は、紅茶の湯気よりも淡くて、頼りなかった。
「……謝る相手、違うでしょ」
紅茶に口をつけながら、そっけなく言う。
「私にじゃなくて、自分に謝りなさい。何も言わずに飲み込んで、耐えて、それで納得してくれる人ばかりじゃないのよ」
セレナは顔を伏せたまま、微かにまつげを揺らした。
アネットは立ち上がると、テーブルを回り込んでセレナの隣に腰を下ろす。
無言のまま、紅茶の入ったカップをセレナの手元から取り上げ、代わりに一枚の焼き菓子を皿に置いた。
「涙の代わりに甘いものでも食べときなさい。泣かない強さも結構だけど、空っぽじゃ何も守れないわよ」
セレナは思わず顔を上げた。
そこにあったのは、いつも通りの、少し意地悪で、でも真っ直ぐな親友の横顔だった。
「……私、何が正しかったのか、もう分からないの」
ぽつりと零れたその声は、まるで自分自身でも気づかない内に口から出ていた。
「リディアが何を言ったのか、どんなふうに私を悪者にしたのか……たぶん、もう噂になってるんでしょうね。でも、今さら何かを弁解したところで、私の口から出た言葉は“姉の言い訳”って受け取られるだけよ」
セレナの声から諦めが滲んで見えた。
それは怒りでも悲しみでもなく、ただ、何も変わらないだろうという結論を受け入れてしまった者の声音だった。
アネットはわずかに目を細めた。
紅茶に口をつけるでもなく、指でカップの縁をなぞりながら、言葉を選ぶ。
「……ねえ、セレナ。あなたって、ほんと損な性格してるわね」
その声には呆れと、怒りと、そして深い哀しみが滲んでいた。
「黙っていれば品位が保たれるとでも思ってる? 言い返さないほうが賢いとでも?」
セレナは小さく首を傾けるようにして視線を逸らしたが、反論はしなかった。
「違うのよ、セレナ。言葉にしなきゃ伝わらないこともあるし、黙ってたら“都合のいい悪役”にされるだけ。誰もあなたの立場なんて考えないのよ」
セレナのまつげがわずかに揺れた。
それでも彼女は、うつむいたまま言った。
「……リディアを直接責めたくないのよ」
その一言に、アネットは目を伏せ、息を吐いた。
「本当に優しいわね、あなたは。でもその優しさで、自分まで殺すつもり?」
その問いかけに、セレナは返す言葉が無かった。
今後の展開に若干の改変が入るかもしれません。