優しさは、呪いである
「ヴァルシュタイン家の姉妹、また何かあったらしいわよ」
そんな言葉が耳に入ったのは、舞踏会の帰り道だった。
社交界で知らぬ者はいない名家――ヴァルシュタイン家。その令嬢セレナは、才色兼備で知られ、アネットにとっては唯一無二の親友だった。
けれど、今聞こえてきた声は、まるで、“何かをやらかした”かのようにセレナを批判していた。
「姉のセレナ様が、あの婚約を破棄されたんですって。可哀想なリディアちゃん、泣いていたそうよ」
「ひどいわよね、妹の気持ちも知らずに。伯爵様だって、きっと耐えきれなかったのよ」
――はあ。
馬車の中、アネット・シュトレインは静かにため息をついた。
それは疲れのせいでも、眠気のせいでもなかった。
吐き捨てたくなるほどの苛立ちを、深呼吸に変えて、かろうじて飲み込んだだけだった。
(泣いた方が正しい、って? ……馬鹿らしい)
カップをひっくり返してわざと泣いた子供のほうが“可哀想”って言われるのは、幼稚園までで卒業すべきだ。大人なら、もう少し“見抜く目”ってものを持ってもらいたい。
アネットはカーテン越しに外の灯を見つめながら、無言のまま指先を組んだ。
セレナからは、何の連絡もない。
けれど――それが彼女らしい、とも思っていた。
(黙ってる時ほど、あの子は危うい)
彼女の悪いところは、何でも溜め込んでしまうことだった。
怒りも、悲しみも、悔しさも、どれだけ踏みにじられても、外には出さない。
まるで、それらを見せること自体が“負け”だとでも思っているみたいに。
そのくせ、誰よりも繊細で、誰よりも優しくて――
アネットは、そんなセレナの横顔を何度も見てきた。
(……ねえセレナ。今回もまた、それで済ませるつもり?)
そしてきっと、彼女は言うのだ。
「いいのよ、気にしてないから」とか、
「私が至らなかったのかもしれない」とか、
「リディアのこと、責めないであげて」とか。
そんな言葉を、あの子は表情ひとつ変えずに口にする。まるでそれが、当然のことのように。
その優しさは“品格”といえる。けれど――
(そんなの、ただの呪いじゃない)
泣くことも、怒ることも、自分を庇うことさえ許されない。
誰かのために耐えることだけが正しいと信じて、黙る事を美徳とするような、その生き方は――まるで罰ゲームだ。
それを「立派だ」と言う人々のうち、どれだけが本当に彼女を見ているのだろう。
泣かないから強いと勘違いして、怒らないから平気だと決めつけて、都合よく“気高い令嬢”という箱に押し込んで安心しているだけじゃないか。
(うんざりよ、まったく)
何も知らないくせに、あの子の内側を勝手に測って、勝手に解釈して、勝手に哀れんでみせる。
そんな上っ面の善意と、安っぽい感傷に囲まれて、セレナは“冷たい姉”として仕立て上げられる。
だからこそ、アネットの胸の奥で何かがふつふつと熱を持っていた。
それは怒りとも違う。憐れみでも、正義感でもない。
もっとずっと、個人的で、どうしようもなく感情的なもの。
――セレナを、あんな風に扱わせたくない。
アネットは、己の指先に力が入るのを感じた。
誰かがやらなきゃいけないなら、自分がやる。それだけの話だ。
セレナが自分を守れないなら、その盾くらいにはなってやる。
アネットは馬車が屋敷に近づくのを感じながら、静かに瞼を開けた。
何もかも呑み込んで、彼女がどれほど傷ついてきたのかを知っている。
だからこそ、今回は引き下がらない。
お涙ちょうだいの妹がどうした。捨てられた男がどうした。
セレナを踏み台にしようとした者たちの“後始末”は、そろそろ必要だ。
誰かの涙に酔って、真実から目を背けたままのお飾り共に、ひとつずつ思い知らせてやる。
あの子を「冷たい姉」と呼んだことを、安易に「悪者」に仕立てたことを、決して無かったことにはさせない。
――それが、親友としてのやり方だ。
アネットはそっと背もたれに身を預けた。
夜の静けさが、ようやく思考を沈めてくれる。
やるべきことは、もう決まっている。あとは、その時を待つだけだ。
窓の外に目を向けると、雲の切れ間から月がのぞいていた。
短期連載になりそうです