1―1.諍い
昼休み、エマは一人で校内の廊下を歩いていた。
エマの通うレガリス学園は生徒の主体性を尊重しているため、放課後までは執事や侍女を連れて歩くことを校則で禁止している。
本当の目的は主体性の尊重などではなく、近年増えている平民の入学者と、貴族の生徒への平等な対応を迫られているからとも噂されているが。
(まあ、それは別にいいのだけど、話し相手がいなくなるのよね……)
友人がいないわけではない。
エマは誰もが憧れる侯爵家の令嬢だ。口を閉ざしていても人が集まってくるのがエマの日常だ。しかし、それでは物足りない。何か、自分を惹きつけてやまない魅力がなければ駄目だ。例えば、オリヴァーのような……
(あら?)
生徒たちが集まっているのが見えて、エマは不思議に思った。断片的に聞こえるのは、罵るような声と、それに反抗するような声。
(またやってるのね)
レガリス学園は、貴族の子女が集まる以上些細な諍いが絶えない。学園側は貴族としての矜持を見せる場だとして寧ろ見過ごすことが多い。ほとんどの生徒もまた、気にもとめないことが多いと言っていいだろう。
何がいいたいのかといえば、些細な諍いに、一々足を止める生徒は少ない、ということだ。
(いつもは少ないはずだけれど……)
今日は何故だが違っていた。
輪の中心にいる人物が珍しいのか、或いは口論の内容が面白いのか。
エマは見過ごすつもりだったのだが、輪の中心に見慣れた顔がいるのを通りがけに見つけ、思わず足を止めた。
「アリアン。あなた、目がおかしいんじゃないの?」
「ひどいですわっ。わたくしは本当に見ましたのに!」
「あら、失礼。おかしいのは頭の方だったみたいね」
「エリザベト様!ひどいですわ」
「ひどい、ひどいとそればかり。あなた、まともに話す事もできないの?お可哀想だこと」
「エリザベト様こそ、執拗に人の欠点を咎めて!何が楽しいのですか?」
「あら、そんなつもりはなかったのよ?ただ、私気になることは指摘せずにはいられませんの」
周囲に人がこんなにも集まっているというのに、二人は気にした様子もない。
それはそれで野次馬にとっては面白いようだが。
(……アリアンは追い詰められているみたいね)
助け舟を出してやりたいが、そうするには些か情報が少なすぎる。
「ねえ、何があったの?」
エマはすぐ近くに居たクラスメイトの男子生徒に話しかけた。
「おや、エマじゃないか。珍しいね。君も興味があるのかい?」
学園内では、平等を重んじるため総じて名を呼び捨てるように決められている。根っからの貴族たちは抵抗を感じているようだが、学園の言いつけは絶対。ここでは敬称を付けて呼ばれる者はほとんど見ない。
エマは性格ゆえ呼び捨てられたことなど気にもしないが。
「興味も何も、私は今来たばかりだわ。それで、何があったの?」
野次馬に混じっていることがよほど珍しいのか、意外そうな視線を向けられている。エマは意図せず野次馬となっている状況が少し気に障り、無意識のうちに眉根を寄せながら言った。
そんなエマに対して、クラスメイトはあっけらかんと言った。
「何でも、アリアンが幽霊を見たとか」
「……え?」
激しい口論をしていると思えば、その争点は幽霊?
(アリアン、あなた何言ってるのよ)
「アリアンが幽霊を見たと言ったの?」
「いや、エリザベトがアリアンに対して幽霊でも見たのではと言っているようで……すまないが、僕も来たばかりで詳しいことはわからないんだ」
「そう、わかったわ。ありがとう」
推測するに、アリアンは何かを見て、エリザベトに訴えるも幽霊でも見たのではとあしらわれている、といったところだろう。
(それにしても幽霊、ねえ……)
詳しい話も聞かずに断言はできないが、恐らく幽霊ではないだろう。
とはいえ、流石に人が集まりすぎている。
まずは何とかしたほうが良いとエマは判断した。
(昼休みといっても暇なだけだし、諍いを鎮めることにでも使いましょう)
エマは上機嫌に口を開いた。
「ねえ、ちょっと良いかしら」
エマの声はそう大きくはない。しかし、不思議と、その場を支配するような力があった。
二人は言いかけていた言葉を止め、エマの方に視線を向けた。
「エマ様!」
「お姉様!」
先ほどまで言い争っていた二人の、弾んだ声が重なった。
「あなたたち、何をしているの?」
エマは気にしていないが、エリザベトはさり気なくお姉様と呼んでいるものの実の姉妹ではない。いつものことなので、エマは気づいていながら指摘しない。
「アリアンが幽霊でも見たようですから、目がおかしいのでは、と言っていたの。お姉様もそう思うでしょう?幽霊を見た、だなんて」
「ちょっと、エリザベト様!わたくしは、ゆ、幽霊だなんて言ってないですわ!」
学園内で敬称を付けることは珍しいと言ったが、アリアンに関しては例外と言える。アリアンは伯爵家の生まれだが、生まれながらに気が弱い。ゆえに、平民相手でも様を付けることを欠かさない。
対してエリザベトは同じ伯爵令嬢と言えど気が強く、エマを除いてほとんどの者に好戦的なところがある。
普段ならばアリアンは簡単に押し負けるだろうが、今回はどうしても引き下がりたくないのだろう。
このままでは埒が明かない。
エマはため息をついた。
「エリザベト。あなたはこの場を収めてちょうだい。少し、生徒が集まりすぎているわ」
「!はい、お任せください。お姉様はどうなさるの?」
「私は少し、アリアンと話すわ。それじゃあ、よろしくね」
「はい……!」
エリザベトの表情は、エマから頼まれたとありどこか誇らしげだ。論争など些細なことだったのだろう。
「アリアン」
「はい!」
エリザベトと話している間不安そうだったアリアンの瞳に喜びが宿る。散々放っておいたあとに名前を呼ぶと尻尾を振って駆け寄ってきた、昔飼っていた子犬に似ていて、エマは優しく笑った。
「あなたは、私に話を聞かせてちょうだい」
◇◆◇
授業が始まるにはまだ時間があったので、場所を移した。休み時間でも生徒があまり来ない、図書館の奥だ。様々な本が置かれているが、あまり閲覧されないものは奥に追いやられているのだ。そのため生徒はあまり立ち入らず、密談には丁度いい。
「それで、何があったの?」
エマが優しく問いかけると、アリアンは泣き出しそうになりながら口を開いた。
「その……信じてもらえないかもしれないのですが……」
こくりと小さく頷き、続きを促すエマに、アリアンは躊躇いがちに言った。
「時計塔の長針に、人が立っていたんです――」