罪悪感の行く末
次の朝、奈美が目を覚ました時、時計は一時ちかくを指していた。隣に彼の姿はない。
「かずと?」
返事は返ってこない。
起きあがってカーテンを開けると、不安になって周囲を見まわした。玄関近くのドアの前に、ゼロが丸くなっていることに気付く。
「どうしたの? ゼロ」
「……カズ、ト、イタイ」
ゼロは、短い手を顔にあてるようにして泣いていた。目の前にユニットバスに続くドアがある。
……嫌な予感がした。
「和人……?」
返事のないドアを開けて、おそるおそる浴室を見まわす。閉じかけたシャワーカーテンのむこうに、ひとつの影をみつけて彼女の視線が止まった。
(……かず、と? )
バスタブの外側にカーテンが出ていて、間から見なれた細い筋肉質の腕が、垂れ下がっている。床に、黒い液体の残った小さなペットボトルが転がっていて。内側に木屑が少し張りついていた。
「……ッ!」
叫びそうになって手で口を押さえる。
(……煙草が溶けてるって……)
どんな動物でも死ぬ、と彼は言っていた。それが、どうして中身が消えてここにあるのだろう。そして、どうして彼は動かないのだろう…結果は、考えなくても直感で分かっていた。
逃げるようにドアを閉めてから、その場にうずくまって深呼吸をする。
「イタイ? ナミ、イタイ?」
「痛くないよ……大丈夫」
「デモ、キノウ、カズト、イタクナイテ、デモナイテ、イタイカラ?」
心配して語りかけてくれた言葉に、少女の目から涙があふれた。深呼吸の音が嗚咽に変わっていく。口を押さえていた手のひらが、顔全体を覆い隠して、体育座りした膝の上に押し付けた。
(どうして、こんな……)
「ナミ、イタイ? ナミ、イタイ?」
母が泣くと、つられて泣いてしまう子供のように、ゼロの瞳が涙で潤んでいた。
「……ゼロ……」
心配そうに自分をみつめる身体を抱き上げて、強く抱きしめる。胸にいる生物は、かすかに自分の名前を呼んだ。
(どうして置いていっちゃったの…死にたいのなら一緒に死んだのに。)
泣きながら彼が死んだ理由を探す。そして彼が寝る前につぶやいた言葉を思い出し愕然とした。
「罪深い人間より、ゼロたちのような生物のほうが生きのこるべきなのかもしれないな」
理由があるとすれば、この言葉からきているような気がした。
(あの時なんて答えたっけ)
ドアにもたれながら、記憶をさぐる。眠くて答えた言葉は簡単にでてはこなかったが、たしか自分は「そうかもしれない」と答えた覚えがある。
(なんて無責任なことを)
自分の浅はかさに涙が止まらなかった。
ゼロが先ほど話した、痛くないといっていたけど泣いていたという言葉……理由は分からないが、それが本当なら今の自分と同じように、心が痛くて泣いていたのだ。そして、自分が出した結論を否定してほしくて彼女に話したのに、否定とは逆に同意を得てしまった。
「和人…ごめん」
いまさら謝っても、自分の言葉は最悪の結果として出てしまった。バスタブの死体を確かめなくても分かる。他の生きた人間なんてこの辺りにはいない。あそこに動かなくなっている体は、間違いなく死んだ和人だ。
奈美は自分を責めながら、初めて声を出して泣いた。
***********
「……海に行こうか、ゼロ」
昼の一時をすぎた頃、泣きはらした目を押さえて奈美はつぶやいた。
胸の中で眠っていたゼロは、その声に起きて、少女を見上げる。
涙は枯れてしまったのか、一滴も出ない。
しばらく放心状態だった彼女の心には、生きようという気力はなかった。ただひとつ、ここまで来たのに目的地にたどり着いていないことが心残りで、海までは行ってみようという感情を彼女に植えつけていた。
「ここまで来たんだもん……バイクには乗れないから歩きだけど……いいよね」
「ナミ……カズトハ、イカナイノ?」
「和人は死んじゃったから……」
あっさりとした言葉に、ゼロは呆然として奈美を見上げる。『死』という言葉を知らないほど死は遠くなかった。少女は彼の脱いだ上着をはおり、ゼロを抱きかかえて外に出る。ホテルのロビーは暗かったのに、道路に出た彼女を迎えたのは青空だった。
「……きれい」
自然に言葉が出るほど美しい。
すべての景色が、昨日とは違ってみえた。
自分を囲むビルは無機質で、死んでいる人は映画のワンシーンのように目に映る。瓦礫を踏んで、初めて自分がそこに存在することを実感するような、不思議な感覚だった。
奈美とゼロは、歩きながら色々な話をした。自然すぎて気付かなかったが、出会った時は話すこともできなかったゼロが、今では幼稚園児ていどの知識があるらしく奈美の言葉を理解して、うまく話せるようになっていた。
「私ね、ここでこんなことになったのって、なにかのバチだと思うんだ」
「バチ? ナンデ」
「私のお母さんね、私のすること文句いわないの。なんにも。でもね、ある日ひとつだけお願いされたんだ…困っている人は助けてあげなさいって……でも私にはそれさえ守れなかった」
視線の先に鉄橋がみえて、下に緩やかな川が流れている。歩く自分達の横には古びた学校があった。
「まだ二週間もたってないかな……私の友達に加奈子って友達がいたの。ここの高校に通っててね、病弱だけど可愛い子で私たち友達だった……ずっと休んでても学校に来たら一緒に行動したし、ノートを届けに行ったりもしてたのね……だけどあの日」
橋の上を渡りながら、下を流れる川を見下ろす。水面は光を受けて輝いていた。
寂しそうに風景を見つめていた奈美の足が止まり、耐えるように一度目を閉じてから、道路に視線を移して歩き出す。ゼロから見た彼女の表情は寂しげだった。
「あの日、久しぶりに学校に来た加奈子と一緒に帰ってた時に、加奈子の帽子が風に飛ばされて……この川に落ちたの。加奈子はお母さんが怖いからって慌てて川原に下りてっちゃって……私、止められたのに。身体だってあの子より丈夫だし、泳ごうと思えば泳げた……でも服が濡れるのがイヤで……口で止めるだけで……加奈子は川に入って溺れちゃった……」
胸に抱かれた小さな身体に、ポタポタと水滴が落ちる。うつむいた少女は泣いていた。
「幸い、近くにいた人に助けてもらったけど……加奈子はあれから学校に来なくなった。水も飲んでたし……多分もう死んでる……だからね、バチだと思ったんだ……分かってたのに助けなかったから……お母さんは、人を助けてあげれば、自分も助けてもらえるっていってた……だから、しなければ反対だと思うんだ」
表情を崩して泣く奈美の目からは、もう涙は出ていない。涙をなくした彼女は、すべてをいい終えたあとに口をかたく閉じて、つらい記憶に耐えると、ゼロを強く抱きしめた。
海に続く道に人影はなく、車が走ることもない。学校に通っていた時と比べると考えられない静けさだった。
赤くなった目で上空を見上げれば、鳥が青空を飛んでいる。
「きれいだねぇ……ゼロ」
人間がいなくなった世界を美しいと思えるなんて皮肉なものだ…ため息をついて、続けて飛ぶ鳥たちを見つめる。
突然、静寂を断ち切って銃声が鳴り響いたのは、そんな時だった。
「……な、なに」
戸惑う間にも、次々に発砲音がして、鳥が撃ち落されていく。遠くで人間の声がした。
(……海が近いんだ。だから人が……でも、ゼロがいるから直接会ったらマズイなぁ)
胸元にいるゼロは状況が把握できないのか、音の出所をさがして周囲を見まわしている。
自分にはかわいい生物だが、他人がそう思ってくれるとは考えられない。もう船に乗るつもりもないし、みつからないような場所で状況をみるだけにした方が賢明だろう。
そこまで考えて、少女は行動を起こした。
「私、つらい思い出があるけど、この町が好きなんだ。和人と出会ったのもこの町だし」
「カズトと?」
「そう、バス停で待ってたら、和人がアーっていって、寝ている私の前で止まったの。あんまり大きな声を出すから、びっくりしちゃって膝の上にのせてたラジオを落としちゃって……先輩に怒られたっけなぁ……」
上着のフードにゼロを入れて奈美は楽しそうに歩いていた。不自然すぎる明るさが、彼女が無理をしていることが分かる。早足の歩調が自然にスキップになったので、小さな生物は落ちないように必死で襟の部分をつかんでいた。
「だからね、私、この町が好きで色々な場所を知ってるの。このあたりは和人がなんか嫌がるから、二人で来たことはないんだけどね、すっごく大きな金木犀があってさ、もう香りに酔っちゃいそうなんだけど、すごい綺麗なんだ。通り道だから、一緒にみようね」
「……キンモクセイ」
反芻するようにゼロが呟く。
明るい日差しの中、奈美は泣きそうな顔を隠すように歩き続けた。