優しい者は、罪を忘れられない
ゼロを連れていってから、昨日から落ち込んでいた奈美が元気になった。
和人もゼロがいることで気持ちに余裕ができたのか、機嫌よく民家から食料を探し出してきた。無用の侵略者だった虫たちは、ゼロを育てるための食料に変わり、彼が民家に入っている間、彼女は色々な種類の虫を集めて、ゼロに食べさせていた。その成果があって夜になるころには、ゼロの身体は八センチほどになり手足が生え、言葉も喋るようになっていた。
「カゼ、ビュゥビュゥ。コワイコワイ」
「急いでいるからねー頑張れ」
「ゼロは臆病だなー」
バイクを運転している彼のフードに入ってゼロは震えていた。
もとから気が弱いのだろう、仲間を食べる時も嫌がって近づかないので、彼女が殺してゼロに与えていた。
しばらくして、二人は目的地の隣街に到着した。海に近すぎると人間が多く、危険を生じる可能性があるので、遠くもなく近くもない隣街に宿泊すること決めた。
「チベタイ、チメタイ」
「こら、ゼロ暴れない! お湯が出ないんだから、水で我慢してね」
「ガマン、ミズ、チメタイ」
ビジネスホテルに入って彼女が最初にしたことは、産まれてから一度も風呂に入っていないゼロを洗うことだった。十センチに成長したゼロは、洗面台に張られた水に浸かりながらも、どうにか逃げ出そうと手足をバタバタとさせている。彼は懐中電灯をうしろからあてて、様子をみながら笑っていた。
「もう! 和人も手伝ってよー。もう私なんて濡れちゃってグシャグシャなんだから」
「手伝ったじゃん……懐中電灯。でもさ、スゲー笑ったよ」
制服のリボンを持ち上げて文句を言う彼女に彼が笑って答えると、呆れたように奈美も笑った。
「チメタイ、イヤ、ナミ、キライ」
上で交わされる会話に耳を貸さないのか、バスタオルの中にいる小さな身体は、逃げるように動きまわる。
「もう冷たくないでしょう」
暴れる身体を宥めるように一言いうと、バスタオルの動きはピタリとおさまった。
その様子に二人は堪えきれずに笑う。
「ゼロ、かなり汚れてたよ。ほら、色白」
「うわ、本当だ。奈美より白い」
「なにそれ。ま、いいや預かっててね、私ついでだからお風呂入っちゃう」
ゼロをバスタオルごと和人に押しつけて、服を脱ぐと、細い身体が風呂場にむかった。風呂といっても湯が出ないので、タオルで身体を拭くだけだ。口にする以外で虫が体内に入りこむことはない。もちろん虫の卵は目に見えないので、出たあとにウェットティッシュで手は拭くことは欠かせないが、水道水で身体を清潔にできることは、ありがたいことだった。
「お前、今日一日で成長したなぁ」
「セイチョウ?」
胸の中にいる生物に話しかけると、不思議そうにゼロはこちらを見上げた
「大きくなったってこと。最初みつけた時は、怯えてて話せなくて……あの子みたいだと思ったから助けちゃったけど……」
「アノコ……ダレ」
「前に……五年前かな、会った女の子だよ。まぁ思い出しても口に出せないことだけど……」
「クチニダセナイ? ナニ?」
困ったように疑問符を並べるゼロに、和人は寂しく笑うと溜息をつき「聞いてくれるか?」と小さく呟いた。
ゼロは何も答えない。 和人はバスタオルを抱き上げたまま椅子に座って、懐中電灯をテーブルの上に置いた。
「ゼロ、俺ってさ、計画たてて失敗したことってないんだよ。六年前に親父が借金を残して死んだ時も、ちゃんとすぐに借金を返すことができた……でも代わりに大きな秘密を持ったんだ」
懺悔のように始まった会話の中、ゼロはただ彼をみつめていた。
「あの時……六年前、お袋が過労で倒れてさ、あるバイトをしたんだよ。遊んでた仲間から紹介されて秘密厳守ってことでさ……だから、この秘密は墓まで持っていこうと思ってたんだ……もっとも、話そうとして話せる話じゃないんだけど……」
嫌な記憶を思い出しているのか、表情が苦い。彼が最初に思いだしたのは、ラジオを耳にあてて眠る少女の姿。沈黙の中、決意して目を開けると、彼は話を進めた。
「バイト内容は、ある女の子をヤってくれって依頼だった。レイプとか犯罪とかじゃないから絶対起訴されないから、騒がなくなるくらいまで身体を慣らしてくれって……言われた。毎週一回で期間は二ヶ月……普通なら人間として絶対引きうけるべきじゃないんだけど……報酬が二百万でさ、俺……これからのことを考えて引きうけたんだ」
一方からの光に照らされる狭い視界。彼は額に手を当てて、泣きそうな顔をしていた。
「カズト、イタイ?」
「大丈夫だよ……思い出して痛いなら、俺じゃなくてあの子だ……目が無い子で……可哀相な子だったんだ。なにもない狭いアパートで食料と水だけ与えられて生きてた……見た時、正直ゾッとしたよ。実の母親がそんな育て方してるなんてさ……しかも、その子を……」
話ながら彼は堪えきれず涙をこぼした。彼女はまだ十歳くらいで環境を考えればきっと恋も楽しい生活もしたことがなかっただろう……酷い話だ。
「依頼主はその子の母親だったんだ……目的がなにかは知らないけど……行為の一部始終をみながら、平気な顔をしてた……女の子は母親に暴れるなって命令されてて、必死に耐えてて。……あの時、自分でもどうしてヤレたのか分からない……罪悪感も今ほどじゃなかった。どうしてだろう。最初より契約期間が終わる頃の方が罪悪感が多かったんだ。だから、最後に絵本をあげたんだ。星の遊園地が出てくる……俺の大好きな絵本を……」
「ホシ、ユウエンチ?」
「……神様に招待される楽しい遊園地だよ。本当はそんなものないと思うけど、彼女にその絵本を読んでくれる人が現れて、一緒に楽しむことができたなら、同じように幸せだろうと思って……」
今思えば、それは罪滅ぼしだったのかもしれない。何度か身体を合わせたあと、死んだように動かない彼女に「辛くないのか? 」と聞いたことがあった。彼女の返事は「お風呂にもう一回入れるからいい」という言葉で、初めて自分は、最低限の生活さえ彼女には与えられていないことを知った。だから彼女が不憫で、仕事とはいえ自分が許せなくなった。……だから贈り物を渡して気を楽にしたかったのだ。
「ゴメンな……意味なんて分からないだろ? どうしてかな、この街に彼女のアパートがあるからかもしれない……怖くて会えないけど、大きな金木犀がある所なんだ。今の季節、オレンジ色をした甘い香りの花を咲かせてるんじゃないかな……あの花はゼロにもみせたいよ」
自分を見つめる無垢な生物に話しかけて、目を閉じる。
今も昔も、自分は変わっていない……ゼロに秘密を話すのは、自分の罪悪感を軽くしたいからだ。話が分からないのなら責められることはない…それを知っていて話した。
バスタオルを抱きしめて、ため息をつく。
彼は知らない。話せば記憶が鮮明になるということを。相手に非がない罪は、大人になって思いだした時に、それ以上の罪悪感を植えつけ、自分を蝕んでいくのだ。
彼は、思い出すべきではなかった。