8. 終章
神楽が逃げるように出て行った瞬間、思わず追いかけた右腕が、「シナトベ」と呼ぶ声で静止した。当たり前のように自分の真名を口にする娘、香月と呼ばれたその娘の視線に、渋々ながら腰を下ろす。
「うんうん、少しずつ記憶の整理ができてきたよ。なるほど、あれから数百年の時が過ぎたのだな」
10代の娘とは思えない威厳のある声音に、彼女が水神のミヅハであることは疑いようがなかった。何より、自分が彼女を間違えるはずもない。
「須佐も七代まで続いたか。嬉しい限りだ。これもすべてお前のおかげかな、シナトベ」
「……わかってるくせに。ミヅハの血を継いでいるんだ。僕がいなくても君の加護で須佐家は守られている」
実際、自分は須佐に大した加護は与えていない。あえて言えば、高天村全域を厄災などからは守ってきたが、ミヅハがいない世界はつまらないので寝てばかりいたのだ。今回も神楽の叔母、楓が帰ってから久方ぶりに目覚めたところだ。
「ふむ。その割には我が家に面白い言い伝えが残っていてね。須佐の娘は守り神であるシナトベの許嫁として生まれるらしいじゃないか。なんでも、恋人神の生まれ変わりを探しているとか。――ねえ、シナトベ。説明してくれないか?いつから私がお前の恋人だったんだい?」
「ぼ、僕のせいじゃない!僕はそんなこと一言も言っていない。ただ君に会いたくて、16になった娘に挨拶に来るように伝えただけだ。人間どもが勝手に解釈をして事実を捻じ曲げたんだ」
「まあいいよ、お前がつまらない嘘をつくとは思ってないし。ただ、いいのかなーっと思ってさ。神楽お姉ちゃんは、その言い伝えを信じている」
「……だから何だよ。僕が君を探すために須佐の娘を呼んでいたのは事実だ。目的は同じなんだから、別に構わないだろう」
責められているわけじゃないのに、非常に居心地が悪い。数百年前の親友は、こんな話し方をしていただろうか?あまりに遠い記憶のため断言しにくいが、ミヅハはよく笑っていた気がする。
「本気で言っているのかい?では、神楽お姉ちゃんが須佐の屋敷に戻ってもいいんだね」
「なんでそうなるんだ?――だいたいなんだよ。久しぶりの再会だというのに、君は小言ばかりで、会いたかったのは僕だけなのか!」
言葉として吐き出すと、それが現実味を帯びてみるみる涙が溢れてくる。
ミヅハが現れた時のことはいつも想像していた。まずは驚いて、お互いに顔を見合わせて、きっと笑い合うだろうと、手に手を取って山々を駆け巡り、海で水しぶきをあげて、月を愛でながら夜な夜な語り合うだろう日々を想像していた。こんな狭い部屋の一室で、困った顔をされながら説教をされる未来ではなかった。
不意に、こぼれた涙が丸い粒となって自分の目の前で踊り出した。ふよふよ、ふよふよ。思い出した。ミヅハが自分の機嫌を取る時によくやる水滴の舞いだ。
「悪かったよ。泣きむしなところは変わってないんだな。私だってまた会えて嬉しいよ、シナトベ。目覚めてすぐに旧友に出迎えられるのは悪くない」
苦笑しながら立ち上がったミヅハは、子どものような手を伸ばして自分の手に重ねた。昔はひんやりとしたミヅハの手が温かい。これは香月と呼ばれる人間の体温なのだろうと、妙に納得した。
「私はね、怒っているんじゃないんだ。お前と神楽お姉ちゃんのことを心配しているのだよ。先程の様子を見るに、彼女は私とシナトベが恋仲だと思っている。するとどうなると思う?」
「誤解を解けばいいじゃないか。ミヅハは大事な親友だけど、恋人じゃない。だから、神楽は気にせず今まで通りにいればいい」
「なぜ?」
「え?」
親であり、先輩であり、親友でもあるミヅハの問いに、自分が大きな過ちを犯したような不安に襲われる。一体何が問題なんだろう?神楽はいつも自分の言葉を正面から受け止めてくれていた。ミヅハのことも、説明をすればすぐに納得してくれるはずだ。
「須佐の娘がこの屋敷に滞在するのは、私、ミヅハを探すためだろう?ミヅハが現れた今、神楽お姉ちゃんがここにいる理由がないじゃないか」
「そ、それは……それは、そう、だけど」
「お前はなぜ、神楽お姉ちゃんがこれからも隣にいると思っているんだい?彼女は自分がミヅハの生まれ変わりかもしれないから、ここにいただけじゃないか」
「神楽は……、神楽は帰らないと言っていた!」
「そうだね。だからまず、二人できちんと話をした方がいいよ。誤解を解いて、これらかどうするのか二人で決めておいで。再会を祝うのはそれからだ」
いきなり頭を殴られたような衝撃を受け、おぼつかない足取りで部屋を出る。ミヅハの言葉に素直に従うのは癪だったが、自信の裏側に潜む小さな不安は拭えない。思わず部屋の前で深呼吸をして、神楽へ声をかける。――そして、自分は知るのだ。
ミヅハが正しかったことを。
自分が自惚れていたことを。
* * * * *
休み休み登ったつもりだったが、気づけば太陽は大きく西へ傾いている。いったいどれほどの時間が過ぎたのだろうか。がくがくと揺れる膝をぴしゃりと叩き、神楽は意を決して最後の階段を登りきった。
「須佐家七代目が長女、神楽が嫁ぎ奉りまいりました」
半年前に述べた口上を再び口にする。
しばしの沈黙の後、正門がゆっくりと開いた。内側には誰もいない。
一歩踏み出そうとしたが、酷使した足に力が入らなかったらしい。ずるりと転びそうになったところを、上等な絹を纏った腕に支えられた。
「こんにちは、風守様らしきお方」
「……め、面倒くさいなあ」
いつぞやの意趣返しだろうか。
照れくさそうに呟いた風守様が、そのまま私を抱きしめた。
「会いたかったです」
「……僕もだ」
言いたいことはたくさんあった。
何ならちょっと怒っていた。
香月、もといミヅハ様から簡単な経緯を聞いたものの、きちんと誤解を解こうとしなかった風守様に腹が立ったし、それ以上に、きちんと話もせずに逃げ出した自分に怒りを感じていた。
だから今度は、籠に乗らず自分の足でここまで来たのだ。自分の意志で、愛する神様に嫁ぐために。
「お慕いしております、シナトベ様」
「……もう、僕から離れるとは言わない?」
「はい」
「本当……に?」
「はい。だから泣かないでください」
「な、泣いて……泣いてるけど、神楽のせいだ。神楽がいなくなったら、すべてがどうでもよくなったんだ。ようやくミヅハと会えたのに、全然嬉しくなくなったし。神楽がいなくなるぐらいなら、ミヅハはもっと寝ていれば良かったんだ」
「お怒りを買いますよ?」
「もうたくさん怒られたよ!……神楽、すまない。ミヅハのこと、神楽が誤解していると知っていたのに、大したことだと理解していなかった。僕が神楽を好きで、神楽が僕を好きなら、何も問題ないとさえ思っていた。長い間一人で過ごしすぎて、相手の気持ちも分からないほど――僕は愚かだった」
「ええ?シナトベ様は私のことが好きなのですか?」
「……そうか、そんな大切なことさえ伝えていなかったのか僕は。そしてお前は意地悪だ」
悔しそうな表情を浮かべると、風守様がいきなり私の唇を自分の口でふさいだ。まるで存在を確かめるように、何度も、何度も、私が息苦しさにくぐもった声をあげるまで、深い口づけを繰り返す。
「お慕いしております、神楽殿。どうか僕と夫婦になってください」
ようやく離れた唇が、予想を超える言葉を紡ぎ、思わず我が耳を疑った。しかし、彼の眼差しは真剣そのもので、徐々に高鳴る鼓動が現実であることを知らしめる。
声も出せずにただ頷く私に、風守様は花がほころぶような笑みを浮かべると、私を抱えたまま歩き出した。
「さあ、我が家へ帰ろう」
ウンミリが夕餉を作っているから、残さず食べよう。その後は裏庭で月夜を眺めながら、眠るまで語り明かそう――そう囁きながら。
私の愛しい神様は泣きむしだ。
これからもきっと、彼は何かにつけては泣いてしまうのだろう。それは仕方がないとして、どんな涙であっても、拭うのは自分であればいいと願うばかりだ。
――完――
最後までお読みいただきありがとうございました。
短編にまとめると内容がぺらっぺらに薄くなったので変更し、一番書きたかったシーンを出オチに使ったので、まとめるのに苦労しました。物語を作るのは難しいですね。
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