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6. 神様にお願いします

止まった時を動かしたのは、部外者である私だった。


「久しぶりね、香月。びっくりしたわ」


私の問いにギクリと身体を強張らせた妹が、それでも視線を風守様から外すことなく口を開く。


「あの、神楽お姉ちゃんが帰ってこないから……。お父様たちはお姉ちゃんが……水神様の生まれ変わりだって、ついに約束を果たせたって喜んでいたけど、私は心配で……」

「それで様子を見に来てくれたのね?ありがとう。……まずは休ませてあげたいのだけど。風守様、妹を社に招いてもよろしいでしょうか?」


半年を過ぎても帰らぬ姉を心配して、あの長い参道をやって来たのだ。


優しい子だ、そう思う。


「あ、ああ、構わない。もちろん。ウンミリを呼んでこよう」


明らかに動揺したそぶりで、風守様が私から離れる。

私が「シナトベ様」と呼ばなかったことにも気付いていないのだろう。ミヅハと呼ばれた妹の前で、あえて彼の真名を口にすることを避けてしまったのは、私なりのささやかな抵抗――いや、意地だったのかもしれない。


血相を変えたウンミリ様が駆けつけると、香月は一番広い座敷へと通された。普段、私たちが食事をとる部屋だ。ウンミリ様が三人分のお茶を置いて、気まずそうに部屋から出ていくまで、誰も言葉を発しない。滑稽だと思いながらも、再び私が口を開いた。


「香月、まずはお茶を飲んで。疲れたでしょう?足は?怪我はしていない?」

「う、うん。大丈夫。神楽お姉ちゃんを探しに行くと言ったら、大和たちが籠を出してくれたの」


大和とは私たちの幼馴染だ。成長してからは接点は少ないものの、同い年である香月とは比較的仲がいい。


「そう。大和はもう帰ったの?」

「分からない。正門が開いたので一緒に入ったはずだったんだけど、私しか通れなかったみたい」


では、今なら大和の籠に乗って下山できるかしら。


現実から目を背けたい思考が、そんなつまらないことを思い付かせる。だって、どう考えてもここでの邪魔者は自分なのだ。風守様も香月も、私に遠慮して核心的な言葉を口にできずにいるのだから。


張り詰めた空気を崩すように、出されたお茶を一口含む。口の中に広がる花の香りに、午後からウンミリ様とこの茶葉を摘みに行く約束をしていたことを思い出したが――どうやらそれも叶わなさそうだ。


「それでは私は席を外させていただきます」

「――っ!」


立ち上がろうとした私の袖を、風守様が掴んでいた。泣きそうな、それでいて怒っているような顔で私を見上げている。


「風守様、何百年ですか?」

「え?」


「貴方が何百年も待ち続けた方です。きちんとお話をなさいませ」

「だが……」


「私は、大丈夫ですから」


何が大丈夫なのか自分でもよく分からなかったが、慕う男と妹の前でぐらい虚勢を張りたかった。心はすでに粉々に砕けていることは自覚していたが、須佐家の長女である矜持が今の私をかろうじて支えていた。優しく微笑むふりをしながら風守様の手を振り払い、最後に香月を一瞥して扉を閉めた。


香月がどんな顔をしていたのかも分からないまま、気が付けば自室で座り込んでいた。


ほんの一瞬、――風守様が追いかけてくれるのでは、と思った自分が惨めで恥ずかしかった。夢のような日々が呆気なくも幕を閉じたことが、じわじわと現実味を帯びて胸を締め付ける。泣きたくないのに零れる嗚咽を押し殺しながら、半年前に持ち込んだ私物を風呂敷にまとめていく。震える手で包み終えた荷物を抱えたまま、力尽きたように倒れ込むと、私はゆっくりと意識を手放していた。



* * * * *



「――ら、神楽」


肩を優しく揺すられる感覚に、私はゆっくりと目を開いた。


「シナ……トベ様?」

「ああ、もう日が沈んだとこだよ神楽」


障子越しの夕陽が僅かに差し込み、逆光に浮かび上がる人影が視界を遮る。目を凝らすと、ぼんやりとした輪郭の中から、シナトベ様の顔がこちらを覗き込んでいるのが見えた。その表情は判然としないが、ぼんやりとしていた意識がゆっくりと現実に引き戻されていく。


「シナトベ様!」


急速に視界がはっきりとした私は、慌てて緩んだ顔と着物を整えて正座した。


「失礼いたしました」

「いや、無断で入ってすまない。夕餉の用意ができているんだ。一緒に食べよう」


「……いえ、あの、私はお腹が空いていませんので、今夜はこのまま床に就かせていただきます」

「食欲がないだって?お前が?」


焦ったように、風守様の大きな手が私の額にあてがわれる。私は無意識にそれを振り払うと、改めて姿勢を正した。


「それよりも、私に何か仰ることがあるのではないでしょうか?」

「あるな。その荷物は何だ?」


私の傍らに置かれた小さな風呂敷包みを一瞥し、風守様が眉間にしわを寄せる。半年前、たった一日の花嫁として村から持参した私の手荷物だ。これが何であるかは、もちろんご存じだろう。


だから彼の質問には答えず、自分が一番恐れている問いを投げかけた。


「香月がミヅハ様でしたか?」

「……ああ」


長い沈黙の末、絞り出すように風守様が頷いた。


どくん、と鈍い痛みが心臓を打つ。

分かりきっていたはずだ――それでも万が一の望みを捨てきれなかった自分が、愚かしくてたまらない。


二人で笑い合って、頬を寄せたことが遠い昔のようだ。それどころか、もはやそんな事実はなかったようにさえ思えてくる。「自分は水神様の生まれ変わりかもしれない」――そんな蜘蛛の糸ほどの儚い希望にすがりついた現実など、今すぐ消し去ってしまいたかった。


私はまるで操り人形のように姿勢を正すと、三つ指をついて頭を下げた。


「須佐家を代表してお慶び申し上げます。これで我が一族のお役目も終えました。明朝にはここを立ちますので、古の習わし通り私の記憶を消してくださいませ」

「……なん、で。お前は、お前はそれでいいのか?この半年の、僕との日々をすべて失っても良いというのか?」


風守様との思い出。


昔話を聞いて、散歩をした。

風に乗って海も教えてもったし、一緒に食事も作った。何より毎日交わした風守様とのたわいもない会話――それらをすべてなかったことにはできない。すべてが尊いものだった。


「はい。私には過ぎたものです。すべて消してくださいませ」


だからこそ、抱えて暮らすには重すぎた。


このままでは、私は一刻たりとも息をすることさえできない――そう思った。だから、まっすに風守様の目を見つめて告げたのだ。


風守様はどんなお顔をされていただろうか。

その答えを知ることも、もうないのだろう。


これからは水神様と心穏やかに過ごせますように。

そんな願いを胸に抱きながら、私は静かに目を閉じた。


それが、私が覚えている最後の記憶だった。

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