5. 神様は現れます
「神楽を見なかったか?」
珍しく炊事場にまで姿を現した主君に手を止めると、長年の従者であるウンミリは思わず笑顔を見せた。
「表口で洗濯物を干していらっしゃるかと思います」
「そうか。もっと神楽の着物を新調しなくてはいけないな。しばらく洗濯などしなくてもいいように」
「勝手にご用意されると、またお怒りを買いますよ?」
「うっ、そうだな。好みもあるしな」
見当違いにも肩を落とすシナトベ様に、ウンミリは苦笑しながら再び包丁を動かし始めた。
この地を統べる須佐家の長女でありながら倹約家のお嫁様は、過度な出費をまるで罪のように感じるらしい。ここを訪れた当初は、すぐに追い出されると高を括っていたのだろう。一泊分の日用品しか持ち合わせていなかった彼女のために、せっせと着物や装飾品を買い与えたシナトベ様が、お嫁様からお小言を食らったのは一度や二度だけではない。
それでも数百年ぶりに浮かれる主君の姿は、ウンミリの心も弾ませた。
「控えめなお暮らしぶりには頭が下がりますが、お嫁様はシナトベ様が神様であることを時々お忘れのようですね。神様の伴侶として、着飾ることを覚えていただくのも悪くないと思います」
「素晴らしい考えだ、ウンミリ。よし、やはり午後から町に出かけるぞ」
午後は茶葉摘みの先約があったのだが、流れることになりそうだと苦笑する。
「それよりも、今回のお嫁様がミズハ様の生まれ変わりで間違いないというこでしょうか?」
「そうだろうな。僕の名も知っていたし」
「……え、まさか、シナトベ様の真名のことでしょうか?」
「他に何がある?人間は僕のことを風守としか呼ばないだろう」
一瞬にして血の気が引いたウンミリは慌てて包丁を置くと、そのまま土間に膝を付いた。
「申し訳ございません、シナトベ様。真名をお嫁様に教えたのは私です」
「……は?」
「お迎えの際に、うっかり口を滑らしました。聡明な方なので、それが風守様の真名だと気付かれたのでしょう」
「……そう、だったのか」
「手拭いを持ってまいりましょうか?」
「なぜだ?」
「驚きのあまり、その、涙を流されるのでは……と」
「その方が驚きだ!僕はそこまで泣きむしではない」
まったく説得力のない台詞を口にしながらも、シナトベ様の両手がせわしくなく空を彷徨っている。かなり動揺されているのだろう。まさか真名だけでミヅハ様だと思い込んでおられたとは……。もっと早く確認をしなかったことが悔やまれる。
「私の落ち度です。もし言い辛いようでしたら、私からお嫁様にお伝えさせていただきます」
「何をだ?」
「須佐家にお帰りいただくことです」
「……な、なぜ?」
「ミヅハ様の生まれ変わりではないからです」
「それはまだ分からないだろう!」
「ですが、今までは『見ればすぐに分かる』と仰られていたではないですか」
「そんなことは知らぬ!ミヅハかもしれないんだ、まだ神楽は帰さないからなっ」
どすどすと足音を響かせながら立ち去る主君の背を見つめながら、ウンミリは首を捻らざるをえない。
どのような思惑でお嫁様に執着しているのかは分からないが、歴代の娘たちに対する態度とは雲泥の差だ。これまでミヅハ様以外に示されることがなかった関心が、どんな理由であれ他者に向けられるのは喜ばしい。
だが、もし本当に彼女がミヅハ様ではなかったら、シナトベ様はどうされるのだろう。
一瞬よぎった不吉な疑問をぶるりと振り払うと、在りし日の二人を知る従者は「そんな日は訪れるべきではない」と独り言ち、夕餉の仕込みに取りかかったのだった。
* * * * *
神楽がミヅハではないかもしれない。
ウンミリの告白は、少なからず自分を動揺させていた。
今更ながら思い返せば、神楽は一度もミヅハであることを肯定しなかったし、真名を口にした理由も伝えようとしていた気がする。それに耳を傾けなかったのは、ひとえに聞きたくなかったからである。何百年もミヅハを待ち続けることに疲れた自分が、神楽がミヅハであることを強く願い過ぎてしまったのだ。
事実、神楽の中にミヅハの気配は感じていない。
もちろんミヅハの血縁であることには間違いないが、ミヅハ本人かと問われれば答えは不明だ。ウンミリには偉そうなことを言ったが、たとえミヅハの生まれ変わりが現れたとしても、本当に見分けられるのか今となっては自信がない。
――だったら、もういいのではないだろうか。
ミヅハだと断言できない以上、ミヅハではないとも言えないのだから。たとえ同情だとしても、神楽も自分に好意があるように見えるし、このまま神楽と楽しく暮らしたっていいのではないだろうか。
そんな都合の良い考えに囚われながら、その甘美な囁きに抗うように頭を振る。
――最低だ、と思う。
神楽をミヅハの代わりにしようとした自分に吐き気がする。
思考はぐちゃぐちゃなのに気持ちばかりが急いていたのか、表口で彼女を見つけた時は少し息が上がっていた。そんな自分の姿に神楽が困ったように微笑む。いつもの彼女だ。何度も押し潰されそうになる不安をぬぐって、優しく包み込んでくれる愛しい存在だ。
何の権利もないくせに「離れることは許さない」と告げて、神楽の背中に手を回す。華奢な彼女を腕の中に閉じ込めても、傲慢で独りよがりな言葉を浴びせても、神楽は拒否しない。そんな彼女の頬に自分のそれを重ね、温かさに涙がこぼれ落ちそうになった。
そして、ミヅハは現れた。
神が作った結界を当たり前のように通り抜け、年若く美しい娘が真っすぐに自分を見つめていた。――ミヅハだ。直感的にそう思った。いや、そう確信していた。
「見ればすぐに分かると仰られていたではないですか」
ウンミリの言葉が、鉛のように胸に広がっていた。