3. 神様と約束します
「おはようございます、お嫁様。今朝はいい天気ですよ」
障子の向こうから馴染みのない声が聞こえる。ぼんやりと見慣れない天井を眺めながら、自分が風守様の社にいることを思い出していた。
幸いにも、私は宿泊することを許された。
夜更けに放り出されなかったこともさることながら、ウンミリ様の夕餉を頂けたことは素晴らしく幸運だったと思う。決して豪華絢爛な料理でも珍しい食材でもないのに、すべての素材が引き立つ風味豊かな味付けは、本当に素晴らしかった。あまりの美味しさに、思わずウンミリ様の元で花嫁修業を続けたいと願ってしまったほどだ。
ちなみに神様も食事はとるらしく、風守様も一緒に食卓を囲んだのだが、会話をするのは私とウンミリ様だけ。終始無言の花婿をちらりと一瞥し、これは歴代でも最悪の顔合わせだったのではないかと溜息をついた。
その後、いつ追い出されるのかと身構えていた私は湯浴みを勧められ、そのまま布団の整えられた客室へと案内され――穏やかな朝を迎えたのだ。
「朝餉まで少しお時間をいただきます。風守様は裏庭にいらっしゃいますので、ご一緒に散歩でもお楽しみください」
「……昨夜、一言も会話をしていないのをご覧になりましたよね?」
そう廊下に投げかけたが、すでにウンミリ様の影はない。
深いため息をつきながら身支度を整え、ついでに帰り支度も済ませると、その手荷物を担いだまま裏庭へと向かった。再び二人きりになるのは気まずさしかないが、須佐家の未来を考えれば名誉は少しでも挽回しておくべきだ。
念のため、「失礼いたします」と声をかける。今度はいきなり格子戸が全開することもなく、自分の手でゆっくりと扉を開くことができた。
「僕は開けていいなんて言ってない」
「おはようございます。まさか屋敷の外へ出るのに許可がいるとは思わず、ご無礼をお許しくださいませ」
昨日と同じように裏庭の中央に佇む風守様へにっこりと微笑む。本日も朝からご機嫌斜めらしいが、こちらとて同じだ。もはや名誉など諦めてさっさと帰りたい。
「今、嫌味を言ったか?」
「いいえ、風守様らしきお方」
「はっ、信じられない!やはりお前がミヅハの生まれ変わりであるはずがないっ」
――ミヅハ、とは水神様の真名だろうか。
「風守」や「水神」は人間が奉るための呼称であり、神にも神格に関わる名が存在するとは知っていた。人間には知りえない、口にすることさえ叶わない神聖なものだと思っていたが、ここに来て二度も耳にしている。
どうせ記憶を消すからかしら?
そんな私の視線を鬱陶しそうに振り払うと、風守様は顔を見るのも嫌だとばかりに背を向けてしまった。
ああ、本当にこの子どものような人が、我が一族の守護神なのだろうか。須佐家を守る風守様の神話を聞いて育っただけに、それなりに思い入れもあったのだが……。
だからほんの少しだけ――悪戯心に火がついた。
「それはどうかしら、シナトベ」
昨日、ウンミリ様がこぼした風守様の真名らしき名を、水神様になりきって呟いてみたのだ。精一杯の意趣表示として、自分にしか聞こえないようとてもとても小さく――。
まさか本当に、この呟きを風守様が耳にするとは思わずに。
まさか神様が、人目をはばからず大粒の涙を流すとは想像もせずに。
「ミ、ミヅハなのか?……僕を思い出したのか?!」
疾風のごとく私へと駆け寄ると、満月のような瞳を潤ませた風守様が、私の両肩に手をかけたまますがるように見下ろした。
「ミヅハ!ミヅハ!僕だよ、そうだよシナトベだ!あ、会いたかっ……」
最後は声を詰まらせて聞き取れなかったが、突然の展開に私の耳も正常に機能していなかったと思う。それでも、非常に望ましくない状況であることは十分過ぎるほど理解していた。私の顔にぽたぽたと落ちる涙の温かさとは対照的に、どんどん自分の手足から血の気が引いていく。
なぜ、あっさり信じちゃうの!
叫びそうになる喉を必死に絞りながら、目の前の光景に混乱する頭を落ち着かせる。つい先ほどまで嫌悪の念を抱いていた相手に対して、疑うことなく感情をさらけ出せることが信じがたかったが、その純真さこそが「神様」と呼ばれる所以なのだろうか。
だが、どんな理屈を並べたところで、非があるのは間違いなく自分だ。
本気で騙すつもりはなかったとはいえ、数百年も想い人を待ち続けた方に対して許される行為ではなかったし、出来心などで片付けられる話でもないだろう。
「お、落ち着いてください、風守様。私に水神様の記憶が戻ったわけではございません。なぜ私が風守様の真名を存じていたかと申しますと……」
「ミヅハ。いいんだ、いいんだよ。ミヅハである兆候がある限り、僕はいつまでも待てる。ああ夢のようだ」
どうしよう――もう、死をもって償うしかないのだろうか。
まるで自分が極悪人に成り果てたかのような嫌悪感が込み上げる。相手が神様であろうとなかろうと、人として到底許されることではない。これで須佐家が守護を失うことになったとしても、このまま嘘をつきとおすわけにはいかなかった。
「風守様、罰を覚悟の上で申し上げます。私が真名を存じ上げていたのは……」
「本当は、もう君とは二度と会えないと諦めていたんだ。須佐の娘が訪れるたび、確かにミヅハの面影を感じたけれど、誰も、誰もミヅハではなかった。……もう僕は疲れていた。今度もダメなら諦めようと……何も感じることのない一片の風になって、空を漂いながら、やがて消えてなくなろうと……」
どうしよう――もう、死をもってしても償えなくなってしまった。
「風守様、あの、私も、突然のことで混乱しております。――水神様の記憶も、定かではございませんし、一度、須佐の屋敷に帰らせていただき、お互い冷却期間を設け……」
「それは許さない!ミヅハ、僕はあの時、君の望み通りに手放したじゃないか。もう二度と須佐には帰さないからな」
力強く、とても力強く正門が閉じる、そんな幻聴が聞こえた気がした。
* * * * *
「随分と仲良くなられた……のですね」
朝餉の席で、私の横にぴったりと身体を寄せる風守様の姿に、ウンミリ様も怪訝な顔を隠せない。
「少し誤解がありまして」
「誤解などない。ミヅ……神楽こそが、僕が待ち望んでいた娘なんだ」
「そう結論付けるには早いと申し上げましたでしょう、風……シナトベ様」
「そうだった。では、食後に散歩でもしながら思い出話でも聞かせよう」
朝餉を迎えるまでに私たちは、それぞれに協定を結んだ。
風守様は、私を水神様と決めつけず、神楽として接すること。そして水神様の生まれ変わりかどうかを冷静に見極めること。対する私は、風守様ではなくシナトベ様と呼ぶこと。そして水神様の記憶を思い出すよう努力すること。
すっかり失念していたが、私が水神様の子孫であることに間違いはないのだ。つまり、彼女の生まれ変わりである可能性もあると言えばある――あると言えばあるのだ。
「ミヅハには助けられてばかりだった」
食後の散歩で、風守様が約束通り昔話をしてくれた。
人間のように親から生を受けない神は、ある日突然、この世に誕生するらしい。生まれたばかりの風守様は自分が神という存在であることも分からず、風のように漂いながら一人で静かに過ごしていた。そこへ現れたのが水神様だった。
「シナトベは風を操れるのね、なんて素敵なの!」
初めて出会った意思疎通ができる相手。彼女は風守様の世界を一変させた。風に乗ったり海に潜ったりするだけでなく、この世の理や神以外の生態についても教えてくれた。また彼女は他の神々にも顔が広く、風守様を連れては彼らを紹介してくれたらしい。
「でも一番楽しかったのは、ミヅハと一緒に過ごすことだった」
どこか遠い国の出来事やある神様の失敗話など、水神様が聞かせてくれる物語はいつも風守様をワクワクさせた。彼女と会えない日は、まるで夜が永遠に明けないかのように感じるほどに。そうして一人ぼっちだった風守様の心は、少しずつ満たされていったのだろう。
「彼女の話なら、昨日何を食べたかを聞くだけでも楽しかったよ」
水神様の話をする風守様はとても穏やかで、初めて会った時の態度が嘘のようだった。それほどまでに愛し合っていたであろう二人の姿に、深い疑念を抱かずにはいられない。
「なぜシナトベ様は、水神様が人間界に行くことをお許しになったのですか?」
「……ミヅハが望んだことだから。それに私が泣き叫んだところで、彼女を止められはしないよ。君はいつも自由だったから」
「わ、私には……水神様の記憶はありません」
「そうだったね」
「人間が憎くはありませんか?」
「憎いさ」
思った以上に食い気味に返され、思わず私はたじろいだ。
「僕からミヅハを奪った人間なんか大嫌いだ……と思っていた。ミヅハが人間としての生を終えた後は、目障りな須佐家を消してやろうとさえ考えたこともある」
まるで私の中の水神様に訴えるように、風守様が正面から私を捉えた。鋭い言葉とは裏腹に、黄金色の瞳の輪郭がぼやけて今にも決壊しそうだ。私は懐から手拭いを取り出すと、恐る恐る風守様の目尻にあてた。
「でも、できなかった。人間なんて嫌いだけど……君の、ミヅハの子孫に害を与えるなんてできるわけがない。それに、またミヅハが、う、生まれてくると分かっていたから。だから待とう、と、だって、君に、また会いたかったから」
涙をぬぐおうとした私の手首をつかむと、風守様はそのまま目を閉じて自身の頬に私の手を当てた。私を水神様の生まれ変わりだと信じて疑わないその仕草に、一度は目をつむったはずの痛みが胸を締めつける。
「私ともいっぱい遊びましょうね、シナトベ様」
私が水神様だったらいいのに。
初めて、本気でそう思った。