1. 序章
「神楽!ここにいたのか、探したぞ」
そんな余裕のない声音に洗濯物への手を止めると、私は屋敷の方へと振り返った。そして表口から慌てた様子で飛び出してきた青年の姿を見つけ、その表情に思わず小さな笑みを漏らしてしまう。
「なんですか、その情けない顔は?」
「な、情けない顔などしていない。……だが、姿が見えなければ心配するだろう?」
袖で顔を隠しながら唇を尖らせる青年、もとい何百年も崇め奉られた神様の言動にしてはなんとも繊細で可愛らしい。しかし、これでこそ風守様だし、人々に愛されるべき存在なのだと思う。
「私はどこにも行きませんよ」
何か言いたげに立ち尽くす風守様に近寄ると、私はわざと真正面から彼を見上げた。こうして目が合っただけで恥ずかしそうに顔を逸らしてしまう仕草に、愛おしさが込み上げてしまう。
――ああ、好きだなぁ。
思わずそう呟きそうになった自分自身に驚いた。
これまでずっと避けてきた問い。それに答えが出てしまったような――いや、答えなど初めから決まっていたのだと、深く確信するような不思議な感覚に囚われる。
そうだ、気持ちはすでに決まっていたのだ。
まっすぐに伸びた眉も、少し垂れた目尻も、筋の通った鼻も、薄い唇も――風守様を形作るすべてに触れたいと願うこの想いが、抑えようもなく溢れ出るこの気持ちが何なのか、すでに私は知っていたのだ。
私の不躾な視線に気付いたのだろう。
風守様はむっと表情を引き締めると、何も言わずに長い両腕を伸ばして私を抱きしめた。
「……ひゃっ」
「お前の失礼な態度くらい許してやるが、先程の言葉は撤回させないからな」
そして二人で顔を見合わせ、くすくすと笑い声を上げる。
胸が張り裂けそうなほど鼓動は高鳴るのに、心は驚くほど穏やかだった。重なる衣越しに伝わる体温は心地よく、思考がふわりと霞む感覚はまるで夢の中にいるようだった。
だからだろうか。私は大切なことを失念していたのだ。
「……誰だ?」
突如、風守様の険しい声が、甘く満ちた空気を切り裂いた。
驚いて見上げると、端正な彼の顔が屋敷と反対の方角を睨みつけている。その視線を追うように身をよじった私は、普段は固く閉ざされているはずの正門の内側に、見慣れた人影を見つけた。
「香、月?」
「神楽お姉……ちゃん」
村に残してきたはずの妹、香月が硬直したままこちらを見ていた。まさか半年も帰らぬ姉を案じて、あの長い参道をたった一人で登ってきたのだろうか?
愚かにも私は、突然現れた妹をただ気遣うばかりで、彼女が風守様の結界内に足を踏み入れたことにも、その視線が誰を見ているのかにも気づいていなかった。
「……ミヅハ」
低く絞り出された風守様の声が、まるで私の存在を通り抜けるかのように響く。
そして、私は知るのだ。
香月こそが、彼が探し求めていた恋人の生まれ変わりであることを――。
* * * * *
太古の神々が宿る集落、高天村。
この地を治める須佐一族には、数百年にわたり受け継がれたお役目がある。須佐家の直系に生まれた女児は、高天村の守護神である風守様へ嫁ぐ、というものだ。
時をさかのぼること神話の時代、風守様には恋仲である水神様がいた。二人は長年仲睦まじく暮らしていたのだが、ある日、あろうことか水神様は人間の男と恋に落ち、風守様を捨てて人間界へと旅立ってしまったという。
神話とはいえかなり悲惨な状況にも関わらず、風守様は人間界に身を落とした水神様への想いを断ち切らなかった。そして、彼女が人としての天寿をまっとうした後は、彼女の子どもたちを見守り続けた。
その子孫こそが、我が須佐一族だ。
風守様の加護のもと、須佐家が治める高天村は戦乱や天災に見舞われることなく繁栄を続け、近隣の村々からも一目置かれるほどまでに成長した。そんな須佐家の七代目の娘として、この世に生を受けたのが私と妹の香月である。
「神楽お姉ちゃん、どうして水神様は風守様がいるのに人間を好きになったのかしら」
「さあ、分からないわ。だって私たちに恋愛なんて無縁だったじゃない?」
口の中の実をしゃくりとかみ砕くと、私は並んで座る妹の香月に小首を傾げてみせた。
高天村の守護神となった風守様は、健気にも恋人神が再び生まれ変わるまで待つことにしたらしい。そして彼女の子孫である須佐一族に、直系の娘が16を迎えると風守様に嫁がせることを約束させたのだ。
ただし、本当に嫁ぐのは、水神様の生まれ変わりの娘だけ。
つまりその娘が現れるまでは、須佐家の直系である私も香月も平等に風守様の許嫁なのだ。無論、お役目を果たすまでは神様の許嫁として育てられるため、年頃の異性とは必要以上に交流は持てない。風守様に嫁ぐことは須佐家に生まれた娘にとって栄誉であり、一族の悲願でもあるのだ。
「じゃあ、もし神楽お姉ちゃんが風守様のお相手だったらどうする?」
「うーん、可能性は低いわね。私には水神様の記憶なんてこれっぽっちもないし、過去に嫁いだ娘が一人もいないわけだし」
事実、須佐家の悲願はいまだ一度も達成されていない。
16を迎えた許嫁たちは、花嫁修業と称して風守様の社へ招かれる。そこでしばらく神様の身の回りのお世話を任されるのだが、その過程で水神様の生まれ変わりではないと判断された娘は、記憶を消されて村に戻されるのだ。たいていは翌日に。
直近では、父方の叔母がお役目を終えている。
「風守様ってどんなお姿なのかしら」
「さあねぇ。唯一お目通りを許される許嫁たちが記憶を消されるんだから。言い伝えでは、少年のようだとも竜のようだとも残されているけれど」
「叔母様も覚えてらっしゃらないの?」
「山頂のお社を訪れた記憶を最後に、何も思い出せないんですって。なんだか気味が悪いわよね」
まるで他人事のような私の台詞に、妹は整った眉尻を下げて心配そうに呟いた。
「そんな……もう明日なのに。神楽お姉ちゃんの祝言」
私は返事の代わりに溜息をつくと、大きく伸びをした。
明日、私は風守様に嫁ぐ。
たぶん一日だけ。
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前作の西洋的な舞台から一変して、 今度は和風の物語です。中編作品ですが、「続きが気になるね」って方は、ぜひ「ブクマ」をお願いします。