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ベテルギウスの悲恋

作者: 長尾衣里子

 菜摘は本のムシだった。大学も日本文学科に進んだ。好きな講義を受けるために、教職もとらなかった。志賀直哉の講義が、必修の教育原理と重なったからだ。二年生対象の講義にもかかわらず、菜摘のほかは三年生。たった四人の授業だった。三人とも志賀直哉が卒論の精鋭ぞろい。しかも、先生はきびしいことで有名な中川朋教授。試験中、教室を訪れて、

「みなさんが枕ならべて討ち死になさらない程度の問題にしておきました」

 かよわい声で、二年生を震え上がらせたこともある。菜摘は必死で、くらいついていった。まさに、学生生活を謳歌していた。


 夏休みで漁師町に帰省する。菜摘の実家は寺だ。

「東京の女子大に一年半かよえば、あかぬけるかと思ったのに……。バレー部に入ったのはいいけど、何これ肩パット?」

 短パンにTシャツの菜摘の肩に手をおき、容赦ない母。本当に、肩パットと思ったらしい。食卓には、腕によりをかけた母の手料理がこれでもかとならんでいる。全部たいらげた上、牛乳一リットルを飲み干した菜摘に両親は目を丸くした。


 めずらしく母が家をあけた夜。はじめて父とサシで話した。

「わしら夫婦は子宝にめぐまれなかった。大学にやること、寺を継がせること。その約束で、赤ちゃんだった菜摘をもらったんだ」

 ひと言ひと言、しぼりだす父。

「知ってるよ、そんなの」

 わざとおちゃらける菜摘。

「寺を継ぐのに、本はいらんっ」

 父は言い放った。その夜、菜摘は家を飛び出した。


 三年生になって、菜摘は早めに部活を引退した。エディター専門学校の夜間部に通い出す。休みに入っても帰省せず、出版社でバイトした。

 一方で、大学の卒論は芥川龍之介を選択――人生を凝縮したような刹那の感動を追って、人生を捧げざるを得なくなる主人公たち。菜摘は化石探しや星空ハンター、スポーツ選手に芸術家、そして自分自身に、その横顔を見出した。

 四年生。いちおう就職活動した。すべて、マスコミ大手。箸にも棒にもかからなかったが、それでよかった。

「大学卒業後、二年間は東京にいていいからね」

 母からもらった猶予期間、フリーの編集者として、出版社につとめることにした。

「てっきり、大学院に行くものと思って許したのに」

 がっかりする母。

「大学院の先生だけじゃなく、世の中すべての人から学べる仕事なんだよ」

 菜摘はそう説得した。


 図書部に配属され、科学本の編集にたずさわる。菜摘がアシスタントした社員の藤堂は、すぐにキレる瞬間湯沸かし器。だが、キャプションや、小見出しのつけ方の極意をおしえてくれた。半人前で足手まといだったはずの菜摘に、藤堂はたずねる。

「次の本は、一年がかりの宇宙シリーズです。じつは、フリーの三谷さんがやらせてくれと売りこんできたが……。菜摘さんはどうです。やりたいですか?」

 高校時代、宇宙科学者カール・セーガンの著書『COSMOS』に夢中だった菜摘。

「ぜひ、やらせてください」

 迷わず即答した。藤堂と菜摘のタックに、プロダクションが入る大所帯。プロジェクトが立ち上がる前から、菜摘は資料室にこもりきり。かたっぱしから、サイエンス雑誌の図版をコピーして切りぬいた。ぶあついスクラップが後々、役に立つ。


第一巻『太陽』――太陽風は電波障害の原因。船外活動する宇宙飛行士にとっては命とりともなる。だが、太陽系を大きく包みこみ、より危険な銀河宇宙線から生命を守っている。文系出身の菜摘には、母なりの荒療治な愛のように思われた。

第二巻『超新星』――太陽より八倍以上重い星は、ものすごいエネルギーで内部燃焼して、ついに超新星爆発という壮絶な最期をとげる。近くの伴星までまきこんで、壊滅的な被害をもたらす一方、まわりまわって新たな星の誕生のきっかけとなる。


「菜摘さんは、超新星のような人ですね!」

 他にも本をかかえる藤堂が、通りがかりにからかう。

「超新星爆発のたび、宇宙は豊かになるのですって。著者が言ってましたよ」

 菜摘は笑って応酬する。残業帰りに、凍てつく星を見上げた。都会の夜空でも、オリオン座くらいはわかる。仕事いっぱいの頭で思いをはせた。


「ベテルギウスって、悲しかったのじゃないかしら。狩人オリオンの肩に輝く一等星ベテルギウス。地球から六五〇光年離れているから、室町時代の姿を見ているのね。太陽の二〇倍近い重さで、超新星爆発を遂げる運命(さだめ)。太陽の寿命は百億年近いとされるけど、ベテルギウスの寿命はたったの一〇〇〇万年。巨星ゆえに短命で、まわりの惑星に生命を(はぐく)(いとま)もない。たとえ、生命の萌芽が生まれたとしても、超新星爆発でこっぱみじんね。あと三〇〇年足らずで、燃料の炭素を使いつくす説もあるベテルギウス。

 太く短く燃えさかる超新星のような愛。それとは真逆で〈少し愛して、長く愛して♡〉ってCMが一世風靡したっけ。私もどちらか選ぶなら、そんな太陽みたいなおだやかな愛をはぐくみたい」

 菜摘は星に願いをかけた。


 それから一年。全七巻の宇宙シリーズを終え、菜摘は出版社を去る。サイエンスライターの事務所に転職した。父が倒れたと一報があったのは、そのころだ。急ぎ病院にかけつける。脳血栓で左半身がマヒしていた。父の分まで寺を守ってゆくのに孤軍奮闘する母。ひと月の入院中、菜摘が父につきそった。まだペーペーだったこともあり、仕事に支障はなかった。

 病室で菜摘はつとめて、陽気にふるまった。俳句のテレビを見るようになった父に打ちあける。

「中学時代、私の俳句が若さぎ日記に載ったのよ」

「ウソこけ」


  玄関に(くつ)渡るカニ野分(のわき)告ぐ


 遠い記憶から思い起こす。

「野分って何だ」

 ぶっきらぼうに父は聞く。


「台風のことよ。昔、おばあちゃんが『伊勢湾台風の何日も前、フナムシがここまできた』と話してたじゃない。玄関で靴から靴に逃げるカニを見つけた時、その昔話がよぎったの。この珍客も嵐を予感したのじゃないかって。青天だったのにね」

 だまりこむ父。

「そこを伸ばしてやりゃよかったな」

 後悔しているように、ポツリ。

「いや、俳句の才能はないから」

 菜摘は照れて話を変えた。


「私ね、編集者からライターになったんだけど、寺を継ぐこと忘れてないよ」

 父とサシで話すのは、あの夜以来だ。


「私はお父さんやお母さんみたいに、実業家肌でバリバリやるの無理。けど、おじいちゃんは、新聞書いてガリ刷りして寺に来た人に配ったんでしょ。それ聞いて、ひらめいたの! 私も寺で新聞作る。船に乗せてもらって漁師さんにインタビューしたり、祭りに密着したり、子どものころから興味津々だったもの。編集はいいとして、専門学校でレイアウトも習った。あとは書くだけ。だから、ライターになったの。ひと通り習得したら帰る。約束するから、それまでお父さんも住職でがんばって」

 その日から、父は見ちがえるようにリハビリに打ちこんだ。やがて、本堂を杖ついて歩き、(きょく)ろくに座って導師(どうし)をつとめる日々。目を見はる回復ぶりだった。 


 菜摘も安心して、ライター修行にはげむ。だが、ひと月に本一冊ペースの〆切は、菜摘の体をむしばんだ。一年たたないうちに、菜摘は倒れる。事務所をやめて入院生活。退院後も、〆切のある生活はドクターストップだった。実家に帰って、寺を手伝う。だが、菜摘は母の仕事は継げても、父の仕事は継げないことに気づく。これまでも、外国人と恋に落ちたり、天職に打ちこむ人を好きになったり……。そのたびに「とても坊主になれる人ではない」と涙をのんできた。見合いに舵をきる。それでも、父の跡を継いでくれる結婚相手はなかなかあらわれない。

 そんな時、父に末期ガンが見つかった。父は弟子をとり、寺を継がせるかわりに菜摘と母の生活を保障するよう条件を出した。父名義の駐車場を菜摘に生前贈与して、寺から賃貸料を払うというかたちだ。父を看取ってから、菜摘たちは寺を出た。


 鬱屈した気分を晴らすため、菜摘はミュージカル見物に出かけた。スターの演技に運命的なシンパシーを感じる。二階の最後列で見ても、舞台上と一体化する感覚があった。菜摘の心に火がつく。観劇だけにとどまらず、インスタもフォロー。「関西ローカルのラジオに出ます!」と投稿があれば、聴けないことを落胆して「声、ききたかったな」とコメント。まるで、カレからTelがないのをすねる彼女気どりだ。ラジオ収録中の写真がUPされれば、待ちに待ったカレに会えたかのように有頂天になる。スターのフォロワー数は三八万人。その中のひとりに過ぎない菜摘。それでも、ブレーキは効かない。妄想は、エスカレートの一途をたどった。

 常軌を逸した菜摘を現実にひき戻せるとしたら、母親だけだった。菜摘を心療内科に連れていく。カウンセラーから、インスタのコメントは一方通行で返事のない一人芝居と指摘された菜摘。インスタのフォローをひかえた。つのる思いから、悲しい手紙を書く。


〈唯一、触れたことがあるのは……あなたの右手。

 握手してからというもの、夜ごと大きくて肉厚な手のひらを感じてる。

 正気を保とうと思って、バーチャル彼女をやめたら、さみしさがとまらない。

 現実から離脱しないためには、それしか(すべ)がないの。

 インスタのコメントの数々が狂人の戯言(たわごと)なら、ひとこと返事を……。

   ―ーそれが容赦のない言葉でも、あなたのファンのままの 菜摘〉


 それが現実に立ちもどる最後のチャンスだった。切実な願いにもかかわらず返事はこない。その代わり、菜摘には恋しい人の心の声が聞こえるようになった。だが、もう母親には打ち明けない。

「エスパーにでもなったかしら」

 菜摘はそれを幻聴とは思わなかった。愛と狂気は表裏一体か。まるで、超新星爆発の前兆である内部崩壊のはじまりだ。

「あの人が呼んでるわ。私、行かなきゃ」

「会ったこともない人に何のぼせてるの」

「会ったわ。ディナーショーで握手してもらったもの」

「それじゃ会ったうちに入らない。口をきいたこともないんでしょ」

 母親はぴしゃっと言った。

「ないけど、目と目が合ったわ」

「隣の人もそう思ってるわよ」

「お母さんにはわからないのよ。私たち心が通じあっているの」

「目を覚ましなさい、菜摘。向こうはあんたのこと知らないのよっ」

 必死に引きとめる母親をふりはらって、菜摘は夜の街に出た。一晩中まんじりともせず、菜摘を待つ母。夜のしじまを破って、スマホが鳴る。

「もしもし菜摘⁈ どこにいるの」

 電話は菜摘ではなく、劇場の守衛室からだった。

「楽屋口に入ってゆく娘さんを呼び止めたら、面会許可が下りているはずだと言いはって。だが、リストに書いてないし、娘さんは裸足だし。声が聞こえるって意味不明なこと言うから、スマホをかりて連絡させていただきました」

「すみません、すみません。すぐ迎えにゆきます」

 車を走らせながら、母は声を上げて泣いた。平身低頭にあやまって、菜摘を家に連れ帰る。

「寒かったでしょ。ホットミルクで温まって」

 カップを置く母親の手は震えていた。ミルクを飲んだ菜摘は睡魔に襲われる。コタツに横になった。その後のことは覚えていない。


                   ※


 白い病室で、菜摘はめざめた。長い夢から醒めたようだった。もはや、あの声はまったく聞こえてこない。窓には鉄格子がはめられていた。

「意識をとり戻したのなら、自分でクスリ飲めるね」

 やさしげなドクターがカップの水に粉末をとかした。

「クスリで声が消えたってことは、幻聴だったのですね」

 菜摘は寂しげだった。

「私の病名は?」

 おだやかにたずねた。

「心因性によるドーパミンの出過ぎですね。左側頭部の神経が少し活発化していたようだ」

 菜摘の左耳の上辺りにそっと手をあて、説明するドクター。

「私はどれくらい眠って、いや、それより母はどこに?」

 ドクターは沈痛な面持ちで、一通の手紙をさし出す。そこにはこう書かれていた。

〈菜摘に睡眠薬入りのミルクを飲ませ、首をしめました。菜摘は精神を病んでおります。もう私の手には負えない。老い先短い私が最期を看取らねば……。私も後を追います。〉

 母の遺書だった。

「無理心中するつもりでも、最期まで力が入らなかったのだね。あなたの命に別状はない。だが、お母さまは睡眠薬を大量摂取して、隣で息絶えていたそうです」

 ドクターの言葉に泣き崩れる菜摘。とめどない涙をふきもせず、心の底から母にわびた。

「あの恋は、まるでベテルギウス。私は太陽になれなかった。いちばん身近で、ただひとりの家族、大切なお母さんを巻きこみ、破滅の道を突き進んでしまった。ごめんね、お母さん」

 先ほどの精神安定剤が効いて、徐々に意識が遠のく。菜摘は深い眠りにおちていった。


 数百光年彼方で、超新星爆発するベテルギウスを夢にみた。3500℃だった表面温度が、超高温100億度まで達していた。太陽なら何億年もかかって出すエネルギーが、一瞬で解き放たれた。安全圏にある地球さえ数か月間、満月のような輝きで照らし出された。ましてや、危険地帯五〇光年内には衝撃波が押し寄せて、星の原材料ガスの吹きだまりとなる。それは新たな星の誕生のきっかけとなった。

 星の卵たちは、ゆっくりと暗黒星雲に(はぐく)まれる。やがて、(あか)りがともって原始星となり、ネビュラ(星雲)のうぶ着を照らしだす。

 一方、吹き飛ばされて寂寞とした現場には、死んだ恒星の核だけが残った。かつて、太陽の一四〇〇倍もの大きさまで膨張した赤色巨星ベテルギウス。その成れの果ては、わずか直径20キロ足らずに凝縮されていた。きらびやかな雲がリング状にとりかこむ真ん中に中性子星はあった。一秒間に数十回という猛スピードで回転しながら強烈なビームを放っている。それが電波パルスとして観測されるため別名はパルサー。


 宇宙の灯台(パルス)となった中性子星=(いま)一刻(いっとき)の眠りから目覚めた菜摘。限りない悲しみを胸に、出家の決心をする。暗い大海原をさまよえる船乗りの(ともしび)。そんな存在に行きつくだろう。

 いつか、この星のように……。

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