5 黒髪の魔法使い
ふらふらと帰路につきながら、来るときに見た景色をもう一度眺めながらラホール卿に話しかけた。
「……ラホール卿、ドレスって大切だったのね。今までミスリルの鎧こそ見た目の美しさも防御力も兼ね備えた最高の着用物と思っていたけれど、その認識は間違っていたわ……」
風に乗って甘い花の匂いが鼻をかすめた。
綺麗に植えられた花壇の周りには若い女の子達が集い、それぞれが違う香水を身にまとっているのだろう。
花をも背景に変えるその子たちの華やかさに思わず足を止めて見入ってしまった。
「当たり前だけれど、帝国中央部では剣を交えるような事はほぼ無いものね。ルナーラのような戦いの前線からも遠くて……良くわからないけれど、夢の中にいるような気分になるわ」
「ルナーラは他の領地と比べて特殊ですからね。そう思ってしまうのも無理はありません」
なんというか、ここ数日で私の中の当たり前は当たり前ではない事を思い知らされた。
再び歩き出した私の後ろを歩いていたはずのラホール卿は気が付けば私の右側を歩いており、私がまた誰かにぶつかるようなことが無いように、さり気無く誘導してくれる。
ミスリルの鎧が魅力的なのではなくて、ミスリルを着るに値するルナーラの騎士がかっこいいのだとようやく自分の憧れの先に気付いたが少し遅かった。
「それにしても、ドレスが女の戦闘服だと身をもって実感したわ……新しいドレスを買ったのは正解だったわね。皇太子だけに気を付ければいいってものでもないわ。寧ろ貴族令嬢同士の会話こそ……あぁっ!」
ブツブツと独り言のように呟いていたら重大なことを思い出し、思わず立ち止まった。
すぐさま隣のラホール卿を見上げ、どうしようと両肩を落とす。
「そういえば、リゴール嬢と会った時に気付いてしまったの」
相変わらずラホール卿の表情は何を考えているか分からないが、僅かに左眉がぴくりと動いた。
「私、ドレスにばかり気を取られて、扇子を買うのを忘れていたわ……あれは騎士で例えると剣のようなものよね。ん?それとも盾かしら?」
慌てすぎて論点を見失い、私が頭を抱えたところでどこからか「ブフッ」と笑いを堪え切れなくなった声が聞こえた。
リゴール嬢の騎士に対しては全く無反応だったラホール卿が素早く私の前に立ちはだかり、右手を剣のグリップに添えた。
ラホール卿の視線の先には黒いマントで顔を隠した男性が左手で口元を抑えていた。
「失礼。会話が聞こえてしまって」
低く、耳の奥を包むような艶やかな声だ。
「驚かせて申し訳ない。ドレスを戦闘服に例える女性は珍しいので、つい聞き耳を立ててしまいました」
ラホール卿はじっとマントの男を見つめたままで、特に会話をする気は無さそうだ。何か不審な動きがあれば直ぐにでも剣を抜くつもりの緊張感を漂わせている。
「あ、いえ、まさか人に聞かれているとは思わず……恥ずかしいです」
マントの男の顔は見えないが、私をじっと見つめている事はわかる。
その視線に居心地の悪さを感じたため、「では」と立ち去ろうとしたが、マントの男は「お待ち下さい」と私を引き留めた。
マントの男はそれ以上動く様子は無い。
先ほどのリゴール嬢との一件もあり、正直これ以上知らない人に関わりたく無いが、無視するわけにもいかず「何でしょうか」と返事をした。
「紺色の髪をした生意気な少年を知りませんか」
「紺色の髪ですか……うーん、珍しい髪色なので会えば覚えていると思うのですが、見た記憶はありませんね」
一般的に、髪色が黒に近いほど魔力が高く、魔法の才能があると言われている。
しかし、今の時代魔力を持つ人自体が珍しく、その一般論が正しいのかどうか定かではない。
「そうですか……ありがとうございます。もし、後々会う事があれば私に教えてください。では、失礼しました」
マントの男が少し残念そうにそう言って路地裏へと足を向けた。
路地に入っていく寸前に風が吹き、男の被っていたマントが一瞬だけ捲れ、ふわりとラベンダーの香りが漂った。
その横顔から整った鼻筋と輪郭、切れ長の目と白い肌、そして一番目を引いたのは風に揺れる真っ黒な長髪だ。
色香を纏った雰囲気に一瞬心臓がキュッと苦しくなったが、嫌な感覚ではなかった。
男の姿が見えなくなってラホール卿はようやく警戒を解いたのか、剣から手を離し大きく息を吐いた。
ラホール卿もあの男の桁外れた強さを感じ取っていたのだろう。
敵意は全く無かったが、実力は計り知れない。
リゴール嬢の騎士に対するラホール卿のように余裕がある者の立ち回りだった。
髪が黒かったという事は魔法使いだろうか?
剣と魔法両方に精通しているとなればさらに勝ち目は無い。
「また教えてと言っておいて名乗りもしなかったけどいいのかしら」
「あんなヤバそうな人がただのうっかりさんなら俺の好感度は爆上がりですよ」
緊張が解けたのと同時に仕事モードも切れてしまったのか、いつもの軽い口調に戻ったラホール卿は「お嬢様、早く帰りましょう」と私をせかした。
「そうね、お父様もそろそろ心配して迎えに来かねないわね」
私たちは軽口を言い合うが、この短時間に都会の洗礼を受けたようで内心穏やかではなかった。
明日は皇太子の婚約者を決める舞踏会。
危険な皇太子、他家の令嬢との関係、皇室内の情勢不安による内乱に巻き込まれた際の身の危険等々…が加われば、それはもう私のキャパシティオーバーだ。
舞踏会への参加だけで危険がいっぱいという事に前日になって気付くなんて!
楽観的になっていた出発前の自分を一発殴ってやりたい。
慌てて宿に帰ると、お父様は隠すつもりも無く、私の位置を示す魔法版を手に持って待っていた。
「セレーネ、街はどうだった?楽しかったか?」
「お父様!」
いつもの様子のお父様を見て少し安心したが、僅かに残る不安を払拭しようとお父様に勢いよく抱きついた。
「一体どうした?何かあったのか」
「……いえ、明日までに何とかせねばならない事実があると思い知っただけです」
心の中では『行きたくないです!』と泣きついたが、口に出せば余計な心配をさせるだけだ。
出席の危険性に今さっき気付いたのは愚かな私だけで、お父様もお母様も出発前に理解した上でここまで来ることになったのだ。
「……先ほどリゴール伯爵嬢とぶつかってしまった際に少しいざこざが起きたのですが、もしこれが発端でリゴール家と険悪になったらどうしましょう」
さりげなく質問を投げかけると、お父様は腕を組んで考える素振りをした。
「うーむ。リゴール伯爵は金には敏感だが温厚で戦いは好まないタイプだからきちんと謝罪すれば問題ないだろう」
「他のややこしい貴族だった場合は?」
「謝罪を受け入れないというなら仕方ない。それまでの関係だ。媚びてくる者は居ても好きで敵対しようとしてくる者はいなかったからなぁ。もしそうなれば他の思惑を疑うだろう」
「なるほど……あ、あと、舞踏会に武器の持ち込みは禁止ですよね?」
「それはまぁそうだが、相手が武器を持っていたなら奪えば問題ない。持ち込んだのはそいつだ」
私の質問の意図を汲み取り、笑って答えるお父様は至って真面目に言っている。
そして私はスラスラと出てくるお父様の回答にいとも簡単に納得してしまう。
貴族令嬢とはこちらから喧嘩を仕掛けなければ良いだけだし、他勢力の反乱が起きたとしても生き延びる自信はある。
息を殺して存在感を無にしていれば問題ないわ!壁際なら死角も無いし!
「お父様ありがとうございます!」
先ほどの絶望とは打って変わって一筋の光明が見えた。
今の無双感を持ったまま舞踏会に臨みたいところだが、大事な事を思い出した。
「あ、結局扇子買えてない!」
夕食を済ませ、お風呂にも入りお父様の隣の部屋である自分の寝室に戻ってきて、さあ寝るかというところで思い出した。
外はもう暗く、空いている店など無いだろう。
お母様、予備で二つ持ってきてないかしら……
どうしようかと悩んでいたらコンコンコンコンと窓を叩く音が聞こえた。