30 闇の池
木の船頭は根を張るように船と一体化しており、腕のオールを漕ぐ度に船はギシギシと音を立てながらゆっくりと進んでいく。
辺り一面は相変わらず薄暗く、濃い霧がかかっているためどこに向かって進んでいるのかが全く分からない。三メートル程先が薄らと見える程度だ。
時折り船の横を朽ちた木の漂流物が流れていく。
動物の骨のような物も見られ、風が吹くと感じられる肌寒さが不安な気持ちを掻き立ててきた。
(そもそもこの謎の生物のことを信用しても良かったのかしら?アリスの世界だったらこんな生き物もいるだろうって普通に受け入れてしまったわ。非現実的な事が立て続けに起きてるせいか何が当たり前なのか分からなくなってきてるみたい。
啖呵を切って一人で乗り込んだはいいけれど、カイン様の言う通り一人で行くなんてやっぱり無茶だったかしら……)
急に冷静になり、心細くなってくると、木の船頭は突然言葉を発した。
「弱気ナルナ。迷ウト着カナイ」
「!」
私の心が読まれたのかと、木の船頭を見上げびくりと肩をすくませると、船頭は前を向いたままオールを止めること無く続けた。
「コノ船、オマエノ行クベキ場所行ク。迷ウ、目的地無クナル」
木の船頭は諭すようにしわがれた声を響かせた。
「船頭さん、ここにはよく人間が迷い込むのよね?他の人も私と同じように理由を探して無事に帰る事ができたの?」
「タダ一人ヲ除イテハ」
「その人は理由を見つけられなかったの?」
「……」
木の船頭は一向に返事をする気配が無い。
表情が分からないため何を考えているのか全く読めないが、守秘義務でもあるのだろうかと勝手に憶測を立てていたら、船頭はぽつりと言葉を溢した。
「……マダ探シテル」
「探してるって?」
「オマエハ、ドウシタイ?」
やけに話が噛み合わないが、もともと意思の疎通が取れている事が不思議なくらいだ。そういうものなのだろうと単純に受け入れる事にし言葉を返した。
「どうしたいって、どういうこと?」
「オマエハ、何ヲ願ウ?」
「私の願い?」
そう聞かれると、私の意思は何なんだろうとすぐに答えが出てこなかった。
みんなの役に立ちたいっていう純粋な気持ちがあるが、それを具体的に言葉にすると私の願いでも無い気がしてくるのだ。
領地を護りたい。皇帝の悪巧みを止めたい。これはお父様とカイン様の願いを自分の願いとして勝手に自分の言葉のように受け入れてしまっているだけだ。
もともとそんな崇高な考えが私の根底にあったとは思えない。きっと、もっと単純な事なのだろう。
「……私は、おそらく知りたいのだと思う。私は何故、月の女神様から加護を頂いているのか。この国はこのままだといけないのか。自分で知って、見て、理解して、判断したい――のだと思うわ」
一言一言、言葉を探しながら紡いだ。
今まで形にできなかったモヤモヤとした気持ちを声に出すと、不思議なくらい胸にストンと落ち、初めて自分を理解したような気がした。
喉の詰まりが取れたような気持ちと共に、辺りの霧が少し晴れ、くぐもった声は到着の知らせを響かせた。
「マモナク、闇ノ池〜闇ノ池〜」
晴れた霧の向こうに岸辺が見えた。
まるで夜かの如く真っ暗な空模様だが、岸辺に灯されたたくさんの篝火によって寧ろ明るく感じるくらいだ。
船が岸に乗り上げるようにして止まり、私がドレスを持ち上げながら、濡れないように船から飛び降りると、確かに〈闇の池〉とかかれた看板がある。
「帰ル時、マタ来ル」
木は一言そう言うと、続けて「ゴ乗船、アリガトウゴザイマシタ〜」と言いながらまたどこかへと船を漕ぎ出した。
「船頭さん!ありがとうございました!」
私は手を振りながら、船が霧の中へ消えていくのを見送り、目的地を探して歩き始めた。
等間隔で篝火が立てられており、その明かりを辿っていくと、〈沼地の1〉とは打って変わって、足元には草が生えており、水分の行き渡った木も見られ、夜の森の中のような景色が続いていた。
裸足のため、柔らかい草をクッションのように踏みながら歩みを進めていくと、石畳の道が現れ、その先には池に囲まれたパレットさんの家を思わせるような森小屋があった。
小屋には明かりがついておらず、誰もいないのだろうとは思ったが、この家を訪ねるためにここまで来たという謎の確信があった。
篝火と石畳が終わると、池に囲まれた小屋に続いている、人が一人歩けるほどの狭い幅の木の橋がかかっていた。
私は忘れかけた警戒心を思い出し、辺りを見渡しながら慎重に足を進める。
五、六歩進んで橋の真ん中辺りへ来た時、ある事に気がついた。
「池に、月があるわ」
思わずボソリと声が漏れた。
何故驚いたかというと、空にはどこにも月なんて見当たらないのだ。
確かに、篝火が無くなったというのに、月明かりに照らされているかの如く辺りは明るかった。
魔国とは反転した世界のこと?
仮説を立てるにもあまりにも情報が少なすぎる。
私は止めていた足を再び動かし、古びた木の扉の前に立った。
木の扉には蔦が巻き付いており、長年誰かが出入りした形跡は見られない。
ただ、扉への形跡は見られないが、小屋周辺の草は伸び切っているわけでもなく、池には枯れ草一つ浮いていない。しっかり手入れがされているように見受けられた。
手入れがされている事と、住人がいない事。この二つの相反する状況に首を傾けながら、おそるおそる扉をノックした。
〝コンコンコンコン〟
扉に耳を近づけてみたが、やはり人がいる気配は無い。
どうしようかと迷ったが、とりあえずドアの取手に手をかけ、少し力を込めて押すと、木がギリギリと軋んだ音を出しながら扉は開いた。
ダメ元でやったとはいえ、扉が開いたことに驚きつつ、勝手に入っていいものかと、僅かな常識と戦っていると扉にヌッと影がさした。
「月の子がやっとここまで来たのか」
ダミ声が聞こえて振り返ったが姿が見えず、狼狽えていると、足元から「ここ、ここ」と再び声が聞こえたので視線を下ろすと、茶虎柄の猫がニッと歯を見せて笑い、二本足で立っていた。
「ひっ!」
「あぁ、その反応、ククク懐かしいにゃぁ」
猫は手で口元を抑えるようにして笑っているが、大きな口から覗く歯は片手では隠しきれていない。
私は逃げるべきか、会話をすべきかを瞬時に考えた。
私の事を月の子と呼ぶ事から月の女神様の事について何かを知っているのだろう。
しかし、顔の半分以上も口角を上げて笑う顔からはどう見ても邪悪さを感じる。
猫は黄色い大きな瞳で私を見上げると、私が開けたドアの隙間から中へと入り「おいで」と低いダミ声で呼びかけた。
少し気が引けたが、皇宮での襲撃に備えてドレスの下に隠してあった短剣の存在を思い出し、私は行くしかないと覚悟を決めた。
私が入れるくらいドアを押し開けると、中で猫はランプに被った埃を尻尾で軽く払い落とし、今ではあまり見なくなったマッチで器用に火をつけた。
猫は部屋にある燭台に順番に火をつけていき、最後に暖炉に薪を数本投げ入れて火をつけた。
自分の家のように慣れた手つきでそれらの作業は行われ、ようやく休めると言わんばかりに猫は暖炉の前に香箱座りをした。
私がその様子を扉に触れたままじっと見ていたら、猫は「寒いから閉めて、こっちに座りな」と欠伸をしながら声をかけてきた。
私がおそるおそる部屋へ入り、扉を閉めると部屋の中のカビと埃の匂いに少しクラクラする。足の裏は見なくても真っ黒になっている事が分かる。
部屋の中は真ん中に食卓、正面に台所と水瓶、右奥に猫がいる暖炉。そして、左奥には二階へと繋がる階段があった。
暖炉の前には揺り椅子があり、足元の揺れる部分が壊れているため、座ることはできそうにない。
私は立ったまま猫に話しかけた。
「あの、ここはあなたの家ですか?」
猫は目を閉じたまま耳をピクリと動かし答えた。
「いいにゃ、ここは俺の友達の家さ」
「友達ですか?」
「ああ、俺の友達、ドゥンケルハイトの家さ」




