29 沼地の1
私とカイン様は重力のままに真っ暗な空間を落ちて行った。
手袋の下でぼんやりと私のブレスレットが光を纏っており、カイン様はその光を頼りに私の手を掴み、グイと抱き寄せたので、私も羞恥心を忘れてカイン様の首にしがみついた。
カイン様は続けて魔法を使う仕草を見せたが落ちるスピードは一向に変わらなかった。
(出ちゃう出ちゃう!!内臓が口から出てきちゃうってぇぇぇ!!!)
歯を食いしばったままパニックで一言も発せない私を気遣ってか、カイン様は私をお姫様抱っこするように抱きしめ、足から落ちる姿勢をとる。
一体どこまで落ちるのか。
落ち続けていると案外慣れてくるもので一時的なパニックは治ったが、未だ残る恐怖からカイン様の首に強く抱き着くと、突然落ちるスピードが緩やかになった。
カイン様の魔法が使えるようになったのかと思い、顔を合わせると、カイン様も状況が分からず目を見開いている。
ふわふわと浮かぶように落ち続けていると、足元から僅かな光を感じた。
その光はだんだんと近づいてきて、真っ暗だった足元には何かが漂うように浮かんでいるのが見えた。
ぼんやりと燈が灯ったランタンには掠れて読めないが名前が書いてある。
明かりを求めて手を伸ばしたが、幻影のように掴むことができず、手がすり抜けてしまった。
だが、不思議な事に、ランタンに触れると火傷するような温もりだけは手に感じる事ができた。
草臥れたクマのぬいぐるみに履き潰された子供用の小さな靴。真新しい金のペンダントに金縁のされた綺麗なカップ。何回も読まれてボロボロになった本と錆びて刃の欠けたナイフ。
他にもいろいろな物が手の届く距離に流れつき、私たちが落ちているのか、物達が上へ浮かんでいくのか分からなくなるほどだ。
そのどれもが暗闇の中でオレンジ色の光を帯びており、ランタン同様に触れることは出来ないが、妙に心地良い空間だ。
(なんだろう……見てると物凄く心がぽかぽかしてくる。リヒトと指切りをしたあの日みたいな……)
いつのまにか恐怖は忘れ、私達の今の状況はウサギを追って穴に落ちたアリスのようだと、ふといつか読んだ本の事を思い出した。
いつしか周りに浮遊物は無くなり、最後の万年筆が頭上を登って行って見えなくなった頃に、足下に出口のような物が見え始めた。
トンネルのような狭い空間から光が漏れている。
落ちている私達はどうすることも出来ず、カイン様が私をより強く抱きしめるのを感じながらそのトンネルを潜り抜けると、急に浮遊感が無くなり、私達は地面に降り立った。
いつもの三倍くらいの重力を感じるが、カイン様は少しふらつく程度で私を落とす事はなかった。
体勢を立て直すとカイン様はすぐに辺りを見渡し、私を抱き上げたまま「ここは何処だ?」と声を漏らした。
今にも雨が降りそうな黒い雲は光を遮り、地面は草が生えていないため、風が吹くたびに砂埃が舞う。
私達がいる地面は家が一軒建つ程の面積しかなく、枯れた木々と沼に周りが囲まれている。
私はとりあえず降ろしてほしいとカイン様に目で合図すると、カイン様は靴を履いていない私の足を見て、黙ったままを首を左右に振って歩き始めた。
少し歩けばすぐに沼に突き当たる。
前後左右道は無い。
しかし、一か所だけ看板のようなものが見えた。
「カイン様、あれを見てください」
私が看板を指差せば、カイン様はそちらに向かって足を進めた。
〈沼地の1〉
「場所の名前だろうか……分からない。相変わらず魔法は使えないし……」
カイン様が少し不安そうにつぶやくと、霞掛かる沼の向こうからゆらりと影が動いた。
渡し舟に乗って何かが近づいてくる。
戦闘になった場合、私を抱いたままだとカイン様の邪魔になると思い、無理やり腕から逃れ、地面に降りた。
カイン様は私の前に腕を出し、一歩前に出る。
渡し舟には人の背丈ほどの大きさの木の幹のような物が乗っていた。
幹からは枝のようにオールが伸びており、右、左とゆっくりと回転しながら船をこぎ進めている。
船は〈沼地の1〉と書かれた看板の下に止まった。
「次ハ闇ノ池~闇ノ池~」
木は喋った。
幹のしわをよく見ると顔のようにも見える。
しわの横線が動き、声を発したようだ。
木は一応こちらが見えているらしい。
「乗リマスカ?」
くぐもった声は私達に聞いてきた。
「その前に聞きたいのだが、ここはどこだ?」
カイン様が警戒心を露わに、木の船頭に向かって質問すると、木の口らしき場所の上に二つのコブがあり、それをミシミシと音を立てて動かした。
コブの下からは窪んだ眼のようなものが出てきて私達を凝視した。
「人間。迷子?此処、魔国、沼ノ池。人間、時々落チテクル」
魔国と聞いて、日記に書かれていた事をふと思い出した。
「帰り道はどこにある?」
「人間ガ迷イ込ム、理由アル。次ハ闇ノ池。理由探セ」
「ここへ来た理由が分からないと帰れないのか?」
「ソウダ」
カイン様は私の方へ振り返った。
「仕方がないが、行ってみるしかない」
そう言ってカイン様が船に乗り込もうとすると、木の船頭はどこかから手のような枝を伸ばし、カイン様の前に差し出した。
「ハート、赤一枚」
「ハート?」
木の船頭は指のような枝を折り曲げ、私とカイン様の腰元を指差した。
私とカイン様の腰にはいつの間にか皮の袋のようなものがついており、貨幣のような重みを感じる。
皮袋を開けてみると、中には赤やピンクや黄色といった小さなハート型の石が入っていた。
赤が四枚、ピンクが一枚、黄色はじゃらじゃらと沢山ある。
カイン様も自分の腰についていた袋を開けてみたが、中からは小さなピンク色のハートがコロンと一つ出てきただけだった。
「オマエ、足リナイ」
木はコブを残念そうに下げてそう言った。
「私、赤が四枚ありますよ!私の分を使って下さい」
私がそう言ったが、木は私の前で枝を一本メトロノームのように揺らして「デキナイ」と言う。
「自分ノハート、自分ダケノ物。人二渡セナイ」
そう言って、木の船頭が私の赤のハートを一つ取り、カイン様に渡そうとしたが、ハートはカイン様の手のひらをすり抜け、地面の上に落ちた。
「乗レル、オマエダケ。ドウスル」
それを聞いてカイン様は私を制止しようとしたが、私は「乗ります」と答えた。
「セレーネ!?一人でなんて危ないだろう!」
「私が見つけた紙に‘魔国は愛が無いと暮らせない’とありましたが、それってこのハートの事ではないでしょうか?――行って戻るだけのハートは持っています。それに……もしかしたら月の女神様のお導きかもしれません。何か手掛かりを掴むために行かねばならないのだと思います」
私が真っ直ぐカイン様を見つめて言えば、カイン様は心配でたまらないと言わんばかりに眉を下げた。
カイン様は祈る様に私の手を両手で包み込み、おでこが付くくらい頭を屈めた。
「不甲斐なくてごめん……行かないでくれと言っても行くんだろう……。頼むから、無茶だけはしないと約束してくれ」
小さく感じられるカイン様を私はおそるおそる抱きしめた。
すると、カイン様も私の背中へと手を回した。
柔らかい髪が頬を擦り、少しくすぐったい。
「大丈夫です。ハートだけはたくさんあります。必ず、手掛かりを見つけて戻ってきます」
私はゆっくりとカイン様から手を離し、覚悟が変わらないうちに船へと乗り込んだ。
これほどまでに弱気なカイン様の表情は今後見られないかもしれないと、不謹慎ながら思ってしまう。
ゆっくりと船は陸から遠ざかり、霧でカイン様の姿は見えなくなっていった。




