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10 深夜の逢瀬

 黒い手袋をはめた大きな手が目の前に差し出された。


 私も、本音では会っていろいろ話をしてみたかったのだと思う。


 お父様から聞いた、皇室に気を付けろという実父の遺言や、皇太子の人格の酷さを表す言動の噂など、余計な知識があったが故に色眼鏡で見てしまっている気がしてならないのだ。


 私は手を伸ばしかけたが、今の服装に気付き「少しお待ち下さい」と言って、クローゼットから適当に掴んだ上着を羽織ってもう一度手を伸ばした。


 手を引かれると、まるで重力が無くなったかのように軽々と体が彼に引き寄せられ、足の踏み場を無くした私は彼の胸にしがみついた。


「大丈夫?しっかり捕まって」


 彼は怖がる私の腰を支え、ゆっくりと上昇し、街を見下ろしながら月を背に移動した。


 上から夜の街を見るのは、もっと綺麗で感動するのかと思っていたけれど、この時間になると街灯も消え、月が雲に隠れると、真っ暗な湖の底を覗き込んでいるかのような気分になり、少し怖く感じる。


 彼の胸元のマントを掴む力を強めた。


 目の前の彼にぴったりとくっついている今の状態が、恥ずかしいが心地よくて、恐怖を弱めるには十分だった。


 空を飛べる魔法使いはかなり希少で、少なくとも私の領地には居ない。


 近年の魔法使いは、主に魔力を持つものを指し、魔石などの高い魔力を持つ媒体に、魔力で術式を書き込むことで一定の魔法を使えるようにすることができる。


 時々存在する高位魔法使いが、魔力の無い媒体に術式を書き込み、発動させる事ができるが、それは魔法陣と呼ばれており、それなりの書き込む面積と技術が必要とされる。


 空を飛ぶには乗り物となる物に術式を書くのが一般的だが、目の前のこの魔法使いは術式無しで魔法を展開している。


 私の体が浮いたのも、私の体に魔力を纏わせたからだろう。


 そんな事ができる魔力量とそれを操れる力は、今は無き古代の魔法使いの能力と同じだ。


 何故そのような力を持っているのか、知りたいけれど、知らないほうがいい事もあると、好奇心に追いやられそうな理性が必至に止めようしてくる。



 しばらく空を飛んだ後、城下で一番高い教会の屋根に向かってゆっくり降下した。


 屋根に両足がつき、重力が戻ってくる感じを覚えたが、彼は腰から離した私の手をそのまま握り、手をつないだまま座るように促した。


 私が言われるがままに座ると、彼もニコニコと隣に座り、とりあえず話をする体勢は整ったが、手を離す様子は無く、不思議に思い視線を合わせると「落ちたら危ないだろ?」といたずらっぽく笑った。


「あ、あの皇太子殿下」


「カイン」


「……カ?」


「私の事はカインと呼んで欲しい」


 手を握ったまま、私の真っ赤な顔を覗き込むように言った。


 青い切れ長の目と整った鼻筋に口角の上がった薄い唇。

 骨張った大きな手は私を逃がすまいと指の間を滑らせるように絡めとった。


「し、しかし殿下」


「呼んでくれたら手を離しても良い」


 精悍な見た目とは裏腹に、少年のような子供っぽい笑みを浮かべた。


 さっきからこの人はどういうつもりなの?田舎から出てきたおぼこ娘だと思ってからかっているのかしら!?


 実際その通りだが、相手のペースに乗せられるのは負けた気がするし、逆らって機嫌を損ねるのも得策とは言えない。


「カイン殿下」


 そう呼んで、探るように目の前の瞳を見れば、まだ納得していないらしく、握られた手はより強固に指が絡んでいった。


「そうか、怖がりなセレーネは私と手を繋いでいたかったんだね。気が付かなくてごめん」


 精悍な顔から発せられる飄々とした口ぶりは私を苛立たせるのには十分だった。


 私は恥ずかしさ故の赤面を怒りで上書きするように「カイン様、手を離して下さいませんか」と絶対に負けるものかと声を絞り出した。


「そんな睨むような顔をしなくてもいいじゃないか」


「睨んだつもりはありません」


「私は君に嫌われたくは無いんだ」


 皇太子は私からぱっと手を離し、曲げた自らの左足の上に肘をついた。


 時折、今日の皇宮で見た彼の口調や振る舞いとは違う、まるで長年の友達かのような距離感が垣間見える。


「あの、でん、カイン様。もしかして今この時も婚約者選定の最中なのでしょうか」


 私は自分だけがこのような扱いを受ける理由が分からず、そもそも自分だけではないのでは無いかという結論に至って質問した。


 しかし、目の前の彼は私の口からそのような言葉が出るとは予想していなかったらしく、きょとんと目を丸くしていた。


 そして、少し言葉を考えるような素振りをしたが、チラリと私の顔を見て、観念したように眉を下げ、優しい笑顔を見せた。


「婚約者選定なんて本当はただの建前なんだ。私はずっと君を探していたんだよ」


「ずっとって、私たち、昨日初めて会いましたよね?」


「君は初めてかもしれないけど、私は初めてではないと言ったらどうする?」


 私は隠しきれず、今日一番の怪訝な顔をしたと思う。


 口から出る言葉がナンパ師のそれと大差無いからだ。


 選定試験の続きだと言ってくれたほうがまだ納得できただろう。


 目の前のナンパ師疑惑の男は私の心情を察してか、少し慌てるように姿勢を正し「いや、そういう意味じゃなくて、本当にそのままの意味なんだ」と誤解を正すような言い方をしたが、疑惑は深まるばかりだ。


「とにかく、私は君を探すために舞踏会を開いたし、君のために皇太子にもなった。誰よりも君を守りたいと思っているし、君と結婚したいと思っている」


 カイン様はつらつらと語りながら少し顔を赤らめ、まっすぐ私の目の奥を見つめるので、その甘い言葉が私の弱いところにまで入り込んでくるのは時間の問題だ。


 今も、私の中で彼は皇太子殿下ではなく‘カイン様’として定着しつつある。


 ちょろい私の心臓はドキドキと高鳴り、脳みその警戒機能が働かなくなってきた。


 彼の発言を信じているわけではないが、誰だってイケメンにこんな事を言われたらときめくに決まっている。


「今の私が何を言っても信じられないと思う。でも、今言ったことは何があっても覚えておいて欲しい。結婚して欲しいというのはあくまで私の願望だし、今日も会場で伝えたけれど、もちろん嫌なら断ってもらって構わない。でも、もう少し君を口説く時間を与えてもらえないだろうか?」


 一体誰が彼の事を猛獣だとか、暴力的で危険だとか言ったのだろう。


 私の目に映る子犬のようなこの人は、人の同情心や優しさに付け入る天然詐欺師タイプだ。


 分かっているのに断れない。


 いっそのこと、脅してくれたほうが私の性格上反抗できただろう。


「そ、そういえば、いつも聞いてこられる紺色の髪の少年とはいったい誰なのですか?」


 私は了承の言質を取られるのを避け、彼の目から逃げるように話題を変えた。


「あぁ、その少年に会えば私がここに至る経緯がわかると思うんだが、私の口からはあまり言いたく無いんだ」


「それは一体何故ですか?」


「んー……何というか、君が何も知らなかったから、今ここで伝えると全てが変わってしまいそうで怖いんだ」


 目を伏せるように言われた煮え切らない答えだが、おそらくこれ以上聞いてもはぐらかされるだけだろう。


「どうして私がその少年に会うという事がわかるのですか?」


「会ってもらわないと、私が困るんだ」


 さすがに質問の答えになっていないと追及しようしたが、カイン様は空を見上げ「もうすぐ夜が明けてしまうね」とそれ以上の会話を拒否するように話をそらした。


 カイン様は立ち上がり、私に手を伸ばした。


「もう、今日中には領地に帰ってしまうのか?」


 私はカイン様の手をつかんで立ち上がり答えた。


「はい、領地まで遠いので午前中には出発すると思います」


「そうか、また近々会いに行ってもいいだろうか」


「カイン様が直々にいらっしゃるなど、父が卒倒してしまうかもしれませんが、お待ちしております」


「メンシス侯爵は親ばかだと有名だからな。手紙を書いて正式な訪問をさせてもらおうと思うが、何かと理由をつけて断られそうだ」


 カイン様は話をしながら何気ない風に私の両腕を自分の腰に回した。


 気が付けば私から抱きつくような体勢になっている事に驚いて顔を上げると「こうしないと危ないから、……って事にしてもいいかな」といたずらっぽく笑って顔を上げた。


 それと同時に、私たちの体が勢いよく浮き上がり、私は腕を解くタイミングを失った。


 名前呼びにしろ、この体勢にしろ、情報戦においてもしてやられたと今日の対談の完敗を悟りつつ、夜空を駆けるようにして宿に戻った。


「またね、セレーネ」


「はい、今日はありがとうございました」


 窓際に下ろしてもらった私の右手を取り、カイン様は名残惜しそうにそこに優しく口づけをした。


「紺色の髪の少年に会った時、私の事は言わない方がいいと思うよ。彼は警戒心が強いから」


 カイン様は最後に思い出したかのようにおざなりに言って、皇宮の方角へ飛んで帰っていくのを窓から見送った。


 地面と空の境目が薄っすらと白づき始めた。


 もうすぐ日が昇る。

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