悪女と呼ばれた傷モノ令嬢の白い結婚 〜溺愛は不要ですよ、王弟殿下〜【アンソロコミック&コミカライズ単話版発売中!】
「ジャネット・デイヴィス侯爵令嬢。私はお前との婚約の破棄をここに宣言する!」
煌びやかな夜会の中、亜麻色の髪の可憐な少女と腕を組む婚約者に指を突きつけられた私は、静かに瞑目した。
婚約破棄だなんて、信じられない。
いいや、その兆しがなかったかと言えば嘘になる。でもこの婚約は王命。だからまさかここまではやらないだろうと思っていたのだ。
まさか国王陛下が外遊に行っている隙を狙って行動を起こすなんて。
婚約破棄さえしてしまえばたとえ王命であろうとも撤回はできないという考えのもとに違いなかった。
「理由を、お聞かせ願えますか」
「タバサからお前の悪行の数々を聞いた。非道極まりな悪女なお前を、私の婚約者には据えておけない」
――悪役令嬢。
そんな風に呼ばれ、蔑ろにされるようになってからどれほど経ったろうか。
悪役令嬢とは、最近流行りの恋愛小説に出てくる登場人物のこと。平民の少女あるいは貧乏貴族令嬢の成り上がりストーリーの中で、主人公をいじめ抜き、お相手の王子と主人公の恋を引き裂こうとする悪女のことである。
しかし恋愛小説とは創作だからいいのであって、実際の世界にそれを持ち込まないでほしい。侯爵家の娘として、そして未来の王子妃として厳しい教育に耐え、第一王子ディミトリアス殿下の婚約者であり続けた私が、わざわざその立場を失うかも知れない愚かな行為をするわけがないではないか。
だというのに、ディミトリアス殿下の隣の少女――子爵令嬢タバサは私にいじめられたなどとありもしない事実を周囲に吹聴して。
それを信じ込んだディミトリアス殿下や周囲の令嬢が、私を悪役令嬢に仕立て上げた。
そして代わりに、劇に例えるならば主人公であるところのタバサ嬢は殿下の隣を許された。
本当は彼にエスコートされるべきは私だ。なのに私は、婚約者にまるでいないもののように扱われるようになったのだ。
「私が何をしたとおっしゃるのです。全てタバサ嬢の証言と噂だけではありませんか。証拠の一つでもおありですか」
別にディミトリアス殿下を想っているわけではない。
この婚約は完全なる政略で、地位も能力的な面も王子妃として向いているだろうと判断された私が選ばれただけのこと。
それでも、ありもしない罪で私の名誉が穢されるのはあまりいい気分ではなかったから、反論した。
「タバサの発言を嘘だと言うのか。彼女が前回のパーティーにて階段から突き落とされたところは多くの者が目撃している」
「階段から落ちた後のタバサ嬢を目撃したのでしょう。彼女が自ら転んだ可能性もあるのでは?」
実際は、タバサ嬢が私を陥れるため、勝手に落ちて行っただけである。
それなりに高い階段から落ちておきながら軽い捻挫程度の怪我で済んだ彼女の落ち技は見事としか言いようがなかった。
もっとも、その捻挫のおかげで私の悪役令嬢疑惑はさらに強まったわけだが。
「ジャネット様、ひどいっ……!」
タバサ嬢が涙を目に溜め、肩を震わせる。
いつも彼女はこうなのだ。人前で簡単に泣いてしまうなんて恥ずかしくないのだろうかと思い、私は彼女を冷めた目で見た。
だが、周囲の受け取り方は違う。誰もがタバサを憐れみ、私に非難の目を向ける。
タバサ嬢は容姿においてとても可愛らしい女性だ。ふわふわした明るい亜麻色の髪に丸い琥珀色の瞳。小柄で、小動物的な愛らしさがある。
だから彼女が笑えば大抵の男は魅了され、涙を流せば可哀想に思うらしいのだ。
――もちろんディミトリアス殿下も。
「そこまでして自分の非を認めないとは、愚かな女だ。
まあいい。お前との関係はもう終わりにし、これから私はこのタバサ・ハリエス子爵令嬢と婚約するのだからな!」
タバサ嬢を大切そうに抱きしめ、ディミトリアス殿下が声を張り上げる。
タバサ嬢は顔を赤らめ、「ディミ様……」と愛しそうに呟いた。
もはや二人きりの世界。私のことなんてどうでもいいに違いない。
もちろんタバサ嬢が本当にディミトリアス殿下を愛しているかどうかは怪しいところだが、それはさておき。
たとえここで私がさらに強く冤罪を主張したところで、殿下の心は変わらないだろう。むしろ、これ以上反抗すれば私の命が危うくなる可能性もある。
私に頷く以外の選択肢はなかった。
「承知いたしました。……では、失礼致します」
ドレスの裾をつまみ、カーテシーを見せると、私は静かにその場を立ち去る。
去り際に数多くの陰口が聞こえたが全て無視をした。
胸には怒りでも悔しさでも悲しみでもなく、ディミトリアス殿下と添い遂げるための長年の努力が報われなかったことへの虚無感だけがあった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……さて、これからどうするべきでしょうね」
夜会からの帰り道、馬車に揺られながら私は思案していた。
婚約破棄されたことは、仕方がないと思っている。
政略的な婚約であったとはいえ、ディミトリアス殿下の心を掴んでおけなかったのは私なのだから。
私はそこそこの美人だと自負しているが、タバサ嬢と違い怖い顔をしているのと、彼女のように異性にベタベタするようなはしたないことができるはずもないので、こうなるのは必然だったとも言える。
しかし困ったことになった。
私たちは本来、あと半年で婚姻を結ぶはずだったのだ。それがなくなったわけで、私は行き遅れの傷物ということになる。しかも、次に社交界へ顔を出せばなんと言われるかわかったものではない。
どうしたものかと考えているうち、私の生家であるデイヴィス侯爵邸に帰り着いてしまった。
とりあえず父に報告するべきだろう。私はそう思い、父の執務室へ向かった。
――そして数十分後。
私の話を全て聞き終えた父は、不機嫌そうな顔で言った。
「そうか。ディミトリアス殿下と破談になった上、家名に泥を塗られたと」
「申し訳ございません」
「現在王都に陛下は不在だ。至急、手紙を届ける。返事が来るまでは自室で静かにしていろ」
「了解しました」
婚約破棄撤回はあり得ないが、少なくとも慰謝料くらいはもらえるかも知れない。
とはいえ、国王陛下は息子に甘いので大して期待はできないが。
この時、私は少しも予想していなかった。
まさか国王陛下が慰謝料代わりに提示してくる条件が、新しい縁談だなんて――。
「王弟殿下と婚約!?」
数日後、私は驚きのあまり悲鳴のような叫び声を上げていた。
父が私に渡してきたのは、国王陛下の直筆の手紙。
そこには謝罪の旨と、ディミトリアス殿下を許す代わりに、国王陛下の年の離れた弟君と婚約しないかと書かれていた。
王弟ハイウェル・オデ・ラース殿下は今年で二十五歳。
本来、貴族でその年齢にもなれば婚姻しているものだが、王弟殿下は独身で婚約者すらいない。
その理由は諸説あるが、一番の原因はわかりきっている。彼が顔を晒さないからだ。
彼が住まいである辺境の王領から出て来るのはごく稀なこと。
それでも必要最低限のパーティーなどは参加するので、私も顔を合わせたことはある。……と言っても王弟殿下は仮面越しだったけれど。
どうして仮面をつけているかは不明。だが、そんな怪しげな殿方はどの令嬢でも選びたがらないのは当然。
過去にいくつかの縁談があったらしいが、どれも婚約が成立する前に破談になっていると聞いていた。
――結局国王陛下は私を厄介払いしたいということらしい。
私の名誉を取り戻すようなことをすれば、息子の非を認めることになる。それがどうしても、嫌だったのだろう。
「……断っても良いのだぞ」
父が言った。
愛のない結婚が当たり前だと思っている父であるが、さすがに国王陛下の対応は腹に据えかねたらしい。
しかし私はしばし考えた後、首を横に振った。
「いいえ、大丈夫です。王弟殿下との婚約を受けます」
「だが」
「傷物になった私では、他に嫁ぐことができません。デイヴィス侯爵家は弟が継ぐでしょうから、私に残された道は修道院へ行くか恥を晒して一生を過ごすか。
それならば王弟殿下との縁談を受けた方が良い。それに、我が侯爵家にも少なからず利益はあるはずです」
王弟殿下は当然ながら王族だ。王家との縁を持っておくという政略的な意味もある。
国王陛下の言いなりになるようで癪だが、他にいい選択肢もないのだ。どうせなら乗っておく方がいいだろう。
「確かにな。ジャネットがいいなら、それでいい。陛下には了承の返事をしておこう」
「よろしくお願いします、お父様」
こうして私は、顔も知らない王弟殿下へ嫁ぐことになった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
王弟殿下とは、婚約をすっ飛ばして早速婚姻を結ぶ算段になっているようだった。
通常、ある程度の交流期間は必要であるが、私は十八歳で王弟殿下は二十五歳。数年待っていればどちらも結婚適齢期を大幅に過ぎてしまうという理由だろう。
王弟殿下の住まう辺境の地の屋敷――あまりに広いので城かと思うほどだった――に着くなり、大勢の侍女たちに出迎えられた。
「初めまして、ジャネット様。早速身支度をいたしましょう」
「王弟殿下はどうなさっているのですか」
「すでに用意が済んでいらっしゃいます。今頃、ジャネット様を待っておられるかと」
「わかりました」
結婚式は屋敷の広間で行われるらしい。それも私が到着してすぐだというのに。
王族というのは他人に配慮できないものなのかも知れない、と私は不敬ながら思ったが、それを口に出すことはなく侍女に身支度を任せた。
長い水色の髪を美しく整え、純白のドレスを着せられてこの上なくめかし込んだ私は、実に花嫁らしい風貌だった。
それでも元々目つきが悪いせいで、鋭い印象は変わらなかったが、出来は上々である。
「ありがとう。では、旦那様のところまで案内していただけますか」
「どうぞ、こちらへ」
今から私は王弟殿下の妻になるのだ。なってしまうのだ。
私は侍女数人に囲まれ、花嫁姿を褒めそやされながら、胸に湧き上がる不安をグッと堪えてホールへ足を踏み入れる。
そして――その場所で私の登場を待ち侘びていたらしい王弟殿下と、対峙した。
「貴女がデイヴィス侯爵家の令嬢だな」
「はい。王弟殿下、お久しぶりでございます」
完璧な所作で頭を下げる。
その後ゆっくりと顔を上げながら、王弟殿下を観察した。
程よく引き締まった胴に、スラリと長い手足。艶やかな黒髪や輝く金色の瞳は、怪しげでありながら魅力的だ。
しかしその印象を薄れさせてしまうくらい強烈なのは、顔にすっぽりと覆い被せられた仮面だ。結婚式でもつけているそれは、普段のパーティーの時と違い金銀の飾りがついた、少し華やかなものだった。
その仮面の裏側には、何を隠しているのだろう。
表情がまるで読み取れないせいで、不気味に思えてしまう。
しばらくの沈黙の後、王弟殿下が口を開いた。
「この度、貴女とこうして婚姻することになったが、これはいわゆる白い結婚だ」
「白い結婚……ですか?」
眉を顰める私に、王弟殿下が頷く。
「俺――ハイウェル・オデ・ラースは貴女ジャネット・デイヴィスと形だけの結婚をする。つまり貴女を愛することはないし、肉体関係も求めないということだ」
妃教育でいついかなる時でも淑女の笑みを保つ訓練をしていなければ、あまりの驚愕に口をあんぐり開けるという醜態を晒してしまっていたに違いない。
婚約破棄の次は白い結婚。どうやら私にはつくづく男運がないらしい。
「なぜですか」と理由を問いただしても、王弟殿下は一向に口を割らなかった。
でも理由はわかっている。そう――私が悪役令嬢だから。
その他にも事情はあるのかも知れないが、一番の要因はそれだろう。
社交界の爪弾きにされた私を娶らされたことを、王弟殿下は不快に思ったはずだ。甥の不始末の責任を取らされるわけだから、当然である。
その腹いせに私に白い結婚を迫ってきた。これなら話の筋が通る。
でも、案外悪くない話だ。
白い結婚ということは、妻としての務めを果たさなくていいわけだ。
いくら貴族の娘としても、ほぼ何も知らない相手に抱かれるのは嫌である。
だから私は少し安心した。
「承知いたしました、王弟殿下」
「……やけに素直なのだな」
「王弟殿下に愛していただけるとは思っていませんでしたから。それくらい弁えております」
王弟殿下が何か言いたげに見えたのは、きっと気のせいだろう。
そのまま無事に式は進行し、誓いの口付けをすることなく、婚姻書にサインだけをして私たちは夫婦になったのであった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
屋敷の一室、そこが私にあてがわれた部屋だ。
一人で過ごすには広過ぎるほど広く、一日に数度侍女が顔を覗かせるだけなので、自由気ままに過ごすことができる。
私は王弟殿下の許可をいただいて屋敷の書庫から本を取ってきて、読み漁ることにした。
ここでの日々は本当に穏やかだ。
自分の地位のための醜い蹴落とし合いもない。周囲の貴族の目を気にして常に気を張っている必要もない。
最初はどうなることかと思ったが、妃教育にも縛られず、社交もせずにのんびり暮らせるこの生活はまるで夢のようだった。
王子妃、ひいては王妃になるより、私にはこちらの方が向いているのかも知れない。
そんな風に思うようになったのだが……。
「王弟殿下、どうして私を膝の上に乗せていらっしゃるのですか」
「…………」
「私は自分で食べられます。食堂でこのような醜態を晒せば、おしゃべり雀が妙な噂を立てかねませんよ。聞いていらっしゃいますか、王弟殿下」
愛することはないと宣言し、てっきりろくに言葉を交わすこともないだろうと思っていた王弟殿下が、なぜか私と積極的に戯れようとしてくるのだ。
何か理由があるのかと考えてみたが、思いつくことはない。第一タバサ嬢のような小柄な女性ならともかく、どちらかといえば大柄で可愛げのない私にこんなことをして、一体どうなるというのだろう。
食事時はいつもこうだ。
そして他にも妙なことはある。例えば私が部屋から出た時、明らかに待ち構えていたように王弟殿下が現れたり。私が庭で一人お茶を飲んでいると、それを遠くから王弟殿下がじっと眺めていたり。
一体何なのだろう。
気になって侍女に訊いてみたこともあるが、お茶を濁して誰一人として答えてくれない。
「まさか王弟殿下に実は溺愛されてる……ということはありませんよね? 恋愛小説じゃあるまいし」
平民ヒロインの成り上がりの次に人気なのが、好奇心旺盛ヒロイン×冷徹ヒーローの恋愛小説。
最初は愛のない結婚だったはずが、好奇心旺盛な明るいヒロインに絆されていき、クールなヒーローは想いを口にしたいがなかなかできない。そんな話だ。
私はあまり好きではないが、社交界で他の令嬢たちとの話題に必須だったから読んでいた。
あくまでそれは恋愛小説の中の話であって、もちろん実際に愛のない結婚から溺愛などということが起こるとは考えにくい。
それに何より、私は分を弁えている。お飾りの夫人だからとかこつけて人の庭を勝手にいじったり、メイドの真似事をしたり、無闇に動物と戯れるなどしているわけではない。
それに加え、一日に王弟殿下と話すのは朝と晩の挨拶くらいしかないので惚れられる要素が全くなかった。
……謎過ぎる。
「王弟殿下、私を愛することはないのですよね?」
返ってくるのは、沈黙だけ。
仮面の下の表情は今日も窺えなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
そんな生活を一年ほど続けていたある日、王都から手紙が届いた。
それは、パーティーへの誘い。第一王子ディミトリアス殿下の立太子の儀に伴うものだった。
「国王主催の正式な催しだ。面倒だが俺は行かねばならない。貴女もついて来てくれ」
「……私が出席すれば王弟殿下のお立場が悪くなるかと。何せ私は悪役令嬢と呼ばれた身です故」
「知っている。その上で言っているのだ」
どうやら王弟殿下は、いくら私が悪役令嬢ジャネットであったとしても、妻を連れて行かない方が外聞が悪いと考えたらしい。
それなら私は、ついていくしかなさそうだ。
「承知いたしました」
本当はパーティーに出るのは嫌だ。ディミトリアス殿下と再会したくはない。
だが、私は一切感情を出さなかった。王弟殿下の不興をかってこの屋敷から追い出されるようなことになりたくはなかったから。
そして当日のうちにまた侍女たちに身支度をされ、今度は落ち着いた濃紺のドレスを纏って馬車に乗り込んだ。
隣には、今日も今日とて仮面をつけている王弟殿下の姿があった。今にも互いの体が触れ合いそうなほどな距離である。
「王弟殿下、近いです」
「……今日のパーティーでは私のことは名前で呼ぶように」
「承知しました、ハイウェル様。しかしそれとこれとは話が別ではありませんか」
苦言を呈したが、離れられるどころか無言で手繋ぎをされてしまった。
ギュッと握りしめる手の力が強く、私は驚く。
「ハイウェル様……?」
彼は私から顔を逸らし、窓の外を眺めている。
そんな様子はまるで照れているかのように見えて――私の胸がざわついた。
まさか私が好きだからそんな態度をしているなんてことはありませんよね?
そう言おうとして、喉元まで出かかった言葉をグッと呑み込む。
ダメだ。そんなわけがない。これは単なる私の勘違いに決まっている。
自分にそう言い聞かせたものの、しばらくは落ち着かなかった。
久々の王都、久々のパーティー。
王弟殿下にエスコートされながら歩く私は、案の定奇異の目で見られていた。
「あら、悪役令嬢が仮面殿下と並んでいらっしゃるわ」
「今は仮面殿下の夫人になったという噂よ」
「どんな悪どい手で籠絡したのかしら」
「悪役令嬢には仮面殿下がお似合いですね」
私はともかく、王弟殿下に向かってそのような陰口を言っていいのだろうか。最悪、不敬罪で処せられかねない案件である。
王弟殿下は全く気にした様子はないので、おそらく大丈夫なのだろうが……。
などと考えていた時、パーティー会場にやけに明るいファンファーレが響き渡った。
「王太子殿下、並びに婚約者様の御成〜!」
そしてホールの扉が開き、パーティーの主役である二人が現れる。
「この度はお集まりいただき感謝する。王太子となった私、そしてもうじき妃となるタバサをこれから支えていってほしい」
「お願いしますねぇ〜!」
満面の笑みで媚を売るタバサ嬢は相変わらず愛らしく、けばけばしいピンク色のドレスが目を引いた。
一方、ディミトリアス殿下はというとどこか覇気がない。
パーティー参加者たちが拍手を送ったが、当の彼は上の空。
そして何かを探すように視線を巡らせた後、こちらを向いてぴたりと止まった。
どうやら彼の探し人は私だったらしい。
「少し失礼」
彼はそう言うなり、他の参加者やタバサ嬢さえお構いなしで私の方へやって来た。
一体何なのだろう。私に嫌味でも言いに来るつもりにしては、表情が暗い気がするが。
本当は逃げてしまいたかったが、悪役令嬢だと揶揄され広く知られてしまった私が人混みに紛れられるとは思えない。覚悟を決めて、元婚約者の彼と対峙することを選んだ。
「ハイウェル様、申し訳ありません。今だけ、少し離れていただけませんか」
「……断る」
「ディミトリアス殿下は私とお話がある様子。ハイウェル様のご迷惑になるかと」
「それなら余計だ。妻である貴女をあいつと二人きりにしてはおけない」
ただのお飾りでしょうに、と言葉を返そうとしたその時、ディミトリアス殿下が私のすぐ目の前に立った。
仕方ない。王弟殿下にエスコートされたままだが、挨拶しておこう。
「ご機嫌よう、ディミトリアス殿下。ご迷惑かと存じますが私からも祝辞を。立太子、おめでとうございます」
「ジャネット。少し話がある。隣にいるのは……ふん、仮面男か。その男を置いて私の元へ来てくれ」
ディミトリアス殿下にしてみれば王弟殿下は叔父。だというのに『仮面男』と呼ぶとは、相当仲が悪いようだ。
そういえば彼と婚約者同士だった頃、ディミトリアス殿下が一言も王弟殿下と口をきいていなかったことに気づいた。
王弟殿下も明らかに不機嫌だ。私は今すぐここから立ち去ってしまいたくなった。
「申し訳ございませんが、そうはまいりません。私はハイウェル様の妻ですので。お話ならここで伺います」
「……。そうか、わかった。仮面男がいるのは癪だが話してやろう」
「ディミ様〜!」と遠くでタバサ嬢が呼ぶのを完全無視して、ディミトリアス殿下は言い放った。
あまりにも非常識で、想定外な言葉を。
「ジャネット。お前を……いや、君を私の側妃にしたい」
――。
――――――。
――――――――――――――は?
さすがの私でも、淑女の笑みを保っていられず無表情になった。
今、彼はなんと言った?
「もう一度おっしゃっていただけますか」
「ああ。君を私の側妃にしたいと言ったんだ」
どうやら聞き間違いではなさそうだということはわかったが、まるで意味がわからない。
「……ディミトリアス。前から腑抜けた奴だとはわかっていたが、とうとう狂ったか」
怒りを隠そうともせずに王弟殿下がディミトリアス殿下に噛み付く。
だがディミトリアス殿下は取り合わず、私に向かって話し続ける。
「ジャネット。辺境暮らしは辛いだろう。タバサへの行いの数々は許す。だから私の側妃になれ。悪いようにはしない」
「なぜですか」
私の声は、自分でも驚くほどに冷たい。
あれほど大々的に婚約破棄をしておきながら、今更側妃に? しかも私はもう既婚者だ。それをわかっていながらのディミトリアス殿下の発言に、静かな怒りを抱いたのだ。
「タバサは笑顔が似合う女性だ。だが何せ子爵令嬢だから、腹黒貴族たちと真っ向から話すと怯えてしまってな。
私には君が必要なんだ、ジャネット。君も私のことが必要だろう? 仮面男に嫁がされた君を、私なら救ってやれる」
「私を救う……? 殿下が?」
「そうだ」
ツッコミどころが多すぎて、どう言っていいのかわからない。
怒りを通り越して呆れた私が黙り込んでいると、王弟殿下が口を開いた。
「ふざけているのか、ディミトリアス」
「仮面男は口を挟むな。私は今、ジャネットに――」
「彼女は俺の最愛の妻だ。お前がそこまで馬鹿だとは思わなかった。あの子爵令嬢が妃教育をこなせないからと、俺と離縁させてまでジャネットに側妃という体で全てを押し付ける気か」
王弟殿下のあまりの剣幕に、ディミトリアス殿下は固まった。
だが、私にとってもはやそんなことはどうでもいい。もちろんディミトリアス殿下からのふざけた誘いも問題だったが、それより何より――。
「ハイウェル様、今のお言葉、一体どういうおつもりですか」
たとえ演技であろうと最愛など言うべきではないだろう。
ディミトリアス殿下を牽制するだけなら『俺の妻』だけでいいのだ。だというのに彼はわざわざ最愛との言葉を選んだ。その真意を今度こそ、問い詰めなければ――。
「……後で話す」
「またそうやってはぐらかすのですか」
「今度は本当だ。それより今は、この馬鹿だろう」
馬鹿とは言わずもがなディミトリアス殿下だ。
いくら王弟殿下といえ、公の場で王太子である彼を馬鹿と罵るべきではない。が、先に失礼過ぎる発言をぶちかましたのはディミトリアス殿下の方なのだから、多少は許されるだろうと思う。
……仕方ない。今は王弟殿下に詰め寄っても話してもらえそうにないので、王弟殿下に便乗してディミトリアス殿下に苦言を呈しておこう。
先ほどの彼の発言は、さすがに腹が立ったし。
「ディミトリアス殿下。私を一方的に断罪したこと、お忘れですか」
「しかし私は君を許すと――」
「そもそも、私は悪役令嬢ではございません。が、あなたがたが勝手に決めつけ、悪名を流したのでしょう?
そんな方々と……婚約者だったというのに私より他の女性の言い分を信じた殿方と復縁? 常識的に考えてあり得ません。さらに私を利用するつもりでの側妃の座など、不名誉極まりないものを押し付けられるなど、はっきりもうしまして度し難いというものです」
「ぐっ……! だが、私には君が必要なのだ!」
「お断りいたします。悪役令嬢たる私は殿下に相応しくありません。ディミトリアス殿下、どうぞタバサ嬢とお幸せに。私は私の夫と過ごしますから」
せっかく遥々やって来たパーティーだが、これ以上居続ける意味はないだろう。
長居してタバサ嬢に絡まれるのも嫌だし、早々に帰る口実ができたのはむしろ良かったかも知れない。
悔しげに歯噛みするディミトリアス殿下を一人残し、私と王弟殿下はその場を辞した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ディミトリアス殿下は今頃、立太子早々やらかしたことで恥晒しになっていることだろう。
そのことに少し胸がスカッとするのを感じつつも、私は不安で仕方がなかった。
やっとの思いで馬車に乗り込み、今度は向かい合って座る。
真正面に腰を下ろす、仮面で表情を窺えない王弟殿下をまっすぐに見据えた。
「……約束通り、きちんと説明していただきましょうか、王弟殿下」
「ああ」
「王弟殿下は私を愛することはないとおっしゃいました。私もそのつもりで、これからあなたのお飾りの妻として必要な時はそれを演じようと思っていたのです。
しかし王弟殿下は、私との白い結婚を望んでいたようには思えないのです。だってそうでしょう? 普通、お飾りの妻を膝の上に乗せたりお茶をしているところをこっそり覗いたり、致しませんもの」
「覗いてなど……」
「あれで隠れているおつもりでしたか。申し訳ございませんが、私からは丸見えでしたよ」
ともかく。
「実は私のことを愛していらっしゃるという私の推測が正しければ、どうして結婚式の時にあのようなことをおっしゃったのです。お聞かせ願いたいものです」
王弟殿下は沈黙した。
数秒あるいは数分。ほんの短い時間であるはずなのに、非常に長く感じられた。
しかしやがて彼は、覚悟を決めたような顔をして言った。
「貴女に私は不相応だと思ったからだ」
「不相応、ですか」
仮面殿下と揶揄される王弟殿下と、悪役令嬢な私。
実にお似合いの夫婦……のように思うのだが。
「貴女に嫌われたくはなかった。だが、もう隠し通すのは無理らしい」
そう言いながら王弟殿下は仮面に手をかけた。
静かに引き剥がされる白い仮面、その下に隠されていたのは。
真っ青な痣と真っ赤な火傷に覆われた顔面だった。
焼け爛れた唇で、王弟殿下が笑う。
「二目と見られない顔だろう」
確かに、普通の令嬢であれば悲鳴を上げてもおかしくないほどの顔だ。
しかし私は比較的落ち着いていた。
「驚きました。ですが、どうしてその程度のことで不相応だと思う必要があるのです。
私とて、悪役令嬢と呼ばれた身。傷物になった私は王弟殿下には不相応です。しかし王弟殿下は私と婚姻してくださり、私を蔑むことなく話してくださっていたではないですか」
だから私も同じだ。
「王弟殿下がどんな顔の方であろうとも、嫌ったりは致しませんよ。……すぐに愛せるかといえば、話は別ですが」
王弟殿下は信じられないというような顔で私を見る。
私は微笑み、彼の手を取った。
「これで私たちの間の障害は消え去りましたでしょう」
頷いた彼は、ぼつぼつと語り始めた。
痛ましい半生、そして私に惚れ込んだ理由を。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
王弟ハイウェル殿下は、先王陛下の子であったが正当な妃から生まれたのではなかった。
彼を孕ったのは独身貴族令嬢。望まぬ妊娠をさせられ、相手が王である故に糾弾できなかった彼女は、息子にそのやるせない怒りをぶつけた。
マッチの火で焼くのも殴るのも蹴るのも、全て顔だったという。
社交界に出た時、恥晒しとなるように。それがせめてもの先王陛下への仕返しだったのかも知れない。
だが彼女は流行病で早くに亡くなり、先王陛下に引き取られた。そして王太子――今の国王陛下だ――の弟として暮らすようになったらしいが、傷が消えることはなく仮面をつけて過ごすしかなかったらしい。
「そんな中、俺は初めて社交界に出た。そして出会った貴女に一目惚れしてしまったんだ。
出会った、と言っても遠くから眺めるだけだった。ディミトリアスの隣にいる貴女を見つけて、息を呑んだものだ。
貴女は輝いて見えた。水色の髪にオレンジ色の瞳……そしてその時に着ていた薄青のドレスがよく映えていた。もしかすると貴女の他にもっと可憐な令嬢はいたかも知れない。だが、その瞬間から貴女の虜になった」
「私はキツイ顔つきをしていると思うのですが」
「そこがいい」
「そうですか。ところで見た目だけなのですか、私を愛する理由は?」
「最初はそうだった。だが、ダメダメなディミトリアスを支えようと努力する貴女の心根に惹かれ、ディミトリアスから貴女を奪って自分のものにしてしまいたいと思うのにそう時間はかからなかった」
そして数年後、ディミトリアス殿下が私との婚約を破棄したと聞いて、償いという形で私と婚姻するのはどうかと陛下に提案。息子を悪者にしたくなかった国王陛下はすぐさま受け入れ、謝罪の手紙と共に縁談が送られてきたというわけだった。
「しかし、顔のことがある。これでは貴女と初夜を共にできないと考えた。
そこで貴女に愛さないと宣言し、こっそり貴女を愛でることにしたのだ」
「全くこっそりではなかったと思います」
「そのようだ。だが、これからはその必要もないな。
――俺は今日でますます貴女に惚れた。もしも貴女がいいなら、俺に愛されてはくれないだろうか」
真剣な金色の瞳で見つめられ、私は思わず視線を逸らす。
愛されてはくれないだろうかだなんて恋愛小説のヒーローのようなセリフ、恥ずかし過ぎるではないか。
「でも、私はあなたに愛を返さないかも知れませんよ? それに私が認めるまで、この結婚は白いままです」
「それでもいい。だがいつか必ずその気にさせてみせる」
……まったく、困った人だ。
これからは放っておいてもらえないだろう。一人で穏やかな暮らしをしたいのに、と思ったが、なぜか嫌な気はしなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それからかなり色々なことがあった。
立太子したはいいものの自分の公務もまともにこなせず、その上タバサ嬢の教育が進まぬまま婚姻してしまったディミトリアス殿下があまりにポンコツ過ぎて貴族たちの反感を買い始め。
それとほぼ同時に国王が急逝してしまい、次期国王となるはずだったディミトリアス殿下に王位を渡してはならないと筆頭公爵家や私の生家であるデイヴィス侯爵家がクーデターを起こした。
色々と残念な王家だが、軍事力はそれなりだ。
泥沼の戦いになるかと思われたが、そうはならなかった。
なんと、王弟殿下がクーデターに参戦したのだ。
王族の力を得た反乱軍はあっという間に勝利、そしてディミトリアス殿下は敗北し、タバサ嬢と共に地下牢にぶち込まれることになった。
タバサ嬢は脱獄しようとして失敗して重罪になり、口にするのも憚られる醜い言葉を撒き散らし、この世の全てを呪いながら処せられたという。
「ジャネットさえ、彼女さえ私の側妃になっていれば! どうして仮面男になど……!」
その一方でディミトリアス元殿下はタバサ嬢のことなど忘れて毎日のように私への恨み言を言っているらしいが、私にとってはもはやどうでもいい話である。
それよりも。
「近頃、公務でお忙しいのにますます私にべったりではありませんか。私に溺愛は不要ですよ、王弟殿下?」
「俺はもう王弟ではない。いい加減、普段も名前で呼んでくれ。それに、貴女に不要でも俺には必要なのだ」
「そうでしたね」
私を抱き枕にし、横になる王弟殿下……もとい、今は王座を継いだので国王陛下と呼ぶべき彼は、私の髪を愛しそうに撫でる。
彼が国王になったことで私は妃になり、それまで私たちを仮面殿下や悪役令嬢などと呼んで蔑んでいた者たちが謝罪に来て汚名返上したりしたのであるが、彼と私は本当の夫婦になれていないままだ。妻である私がまだ彼をきちんと認めていないからだった。
しかし彼はそんなのはお構いなしに私を溺愛していて、昼間はずっと私を膝の上に乗せているし、夜でさえこうしてベッドも同じだ。
そう遠くない未来に、ただの抱き枕役ではなく、お飾りではない本当の妻としての役目を果たす時がやって来るような気がする。
こんなに優しい瞳で見つめられてしまっては絆されないわけがない。
彼の顔がどんなに痣と火傷だらけでも関係なかった。
「愛している、ジャネット」
――私もです、ハイウェル様。
そう答えようとするけれど、気恥ずかしくて何も言えず、私は静かに頬を染めるだけだった。
お読みいただきありがとうございました。
2024年2月22日、comicスピラ様の『一途に溺愛されて、幸せを掴み取ってみせますわ!異世界アンソロジーコミック 1巻』に当作品のコミカライズが収録、コミックシーモア様で先行配信されています。
原作の何倍もあまあまで素敵なので、もしよろしければぜひお読みください♪