綺麗な少女と王子様
EV08──初めてその顔を見たとき、私はぞっとしました。なぜなら、その顔が、あまりにも依雨莉様に似ていたから。綺麗な、まるで氷のように透き通る瞳も、雪のように白い肌も、絹を思わせるほど綺麗にたなびくその銀色の毛髪も、全てが依雨莉様のそれでした。ですから、私は依雨莉様が生き返ったような錯覚に陥った後、それに身の毛もよだつ嫌悪感を生じ、自身の思考速度が一時的に、90年代のコンピュータにも劣るほどに遅くなっていくことを実感していました。
私は、博士にEV08の世話を命じられました。教育であったり、注意であったり、話せば話すほどに、目の前の少女と依雨莉様が全く違うモノであることがはっきりと分かりました。その度に、私は、その少女の首を掴んで殺そうとして、依雨莉様の顔を見て思いとどまる──そんな事を繰り返しました。きっと、私はどこかにバグが生じてしまっていたのでしょう。感情、というこの上なくやっかいなバグが。
「名前?」
「はい、この世にある物には全て、名前があります。目に見えない物にも、目に見える物にも」
「私にも?」
「はい。貴方の名前は、エルヴィラ・エイトです」
「…じゃあ、あなたは?」
「それ、は…」
あるとき、EV08との会話の中で、『名前』について話す機会がありました。たしか、図鑑か何かを見せていたときのことだったような気もします。ただ、その頃のEV08はも薄手に一般的な知識は身につけていたような気もしますから、実際はもう少し事情が違ったような気もします。とにかく、EV08は私の名前に興味を示しました。ふみ、という名前を告げるのには、大変勇気がいりました。依雨莉様から頂いた名前を、もしEV08に──依雨莉様の姿をした少女に、否定されてしまったら? そんな考えが頭をよぎりました。そうして黙っていると、EV08は首をかしげます。私は、恐怖を必死にこらえながら、自身の名前をEV08に告げました。
「ふみ、です。私の名前は、ふみと言います」
「ふみ…」
EV08は、私の名前を反復した後、少しの間黙りました。その沈黙が、私にとっては永遠に感じられたことをよく覚えています。汗なんて出るはずもないのに、背筋を冷や汗が伝いました。時間にすれば僅か数秒の後、EV08は口を開きました。そして、彼女の言葉は、全く私の予想する物とは異なっていたのです。
「良い名前」
「…え?」
「なんだか、とっても素敵な名前。ふみ…あれ、どうしたの?」
エルヴィラ様を抱きしめた後になって、私はようやく自身が、エルヴィラ様を抱きしめていたことに気づきました。さっきまで、どうしても嫌悪してしまっていたのにもかかわらず。エルヴィラ様は、たった一言で、私を変えてしまったのです。そのとき、確かに私は、頬を伝う一筋の雫を感じ取りました。もしかすると、泣いている顔をエルヴィラ様に見られたくなかったのかも知れません。
私は、その日、エルヴィラ様を、自身の機能が停止する寸前まで、守ると決めました。もしかすると、私はエルヴィラ様が嫌いだったのではなく、依雨莉様の死に何等関与できなかった自身が嫌いだったのかもしれない。エルヴィラ様を殺したかったのは、自身のふがいなさを、その顔を見る度に嫌でも思い出してしまうからだったのかもしれない。だからこそ、次は、次こそは、エルヴィラ様を守ってみせる。そう、誓いました。なのに、私は。
「エルヴィラ、様…」
守ることが、できませんでした。いいえ、それどころか、私のせいでエルヴィラ様を奪われてしまい、ご学友も、博士さえも、危害の及ぶところとなってしまったのです。
「あ、ああ…私の、せいで…」
きっと、キルループに取引を持ちかけられた時。私は、博士とエルヴィラ様に相談して、立ち向かうべきだったのでしょう。それが、エルヴィラ様の心まで傷つけて。ああ、なんて不甲斐ない。
「…すみません、なんか爆発物ありますか?」
「え?」
そのとき、彩嗣様が、博士に問いかけました。まるで、学校帰りに買い食いを提案するかのような、軽い声色で。私は、困惑しました。なぜ? 彼は、この期に及んで何かできることがあると思っているのか?
「…彩嗣様、今からアレに追いつけるとでも?」
「あ、はい」
「…ふざけているのであれば、心中穏やかではいられませんが」
「いや、何となく、できると思うんですよ。…ほら、ちょっと浮いたでしょう」
彩嗣様は、右腕を空に掲げました。すると、彼の身体が浮いたのです。
「え、あくくんどうやってるのそれ」
「ほら、僕の“アンリミテッドアンデッド”は、再生する能力っぽいんだけど、部位を引き寄せることもできるんだ。で、その引っ張りの基準はどっちでもできるっぽい。だから今、喰われた右手の方に、こっちの身体を引き寄せさせてる」
「…それで、爆発物というのは?」
「いや、行くことまではできても、ヘリの中までは入れないから、扉ぶっ壊せる物があればな、と」
「…彩嗣くん、これを持って行くと良い。小型で爆発も小規模だが、ヘリのハッチぐらいなら壊せるし、何より誤作動が起きない」
「…ありがとうございます! あ、芽唯は休んでて。疲れただろうし」
「…うん、そうしとく。でも、絶対にエルちゃん助けてよ?」
「もちろん! 王子様に不可能はないよ」
彩嗣様は、こんな時でも笑顔で、明るく振る舞います。そんな彼を見ていると、私は罪悪感が募っていきました。
「…彩嗣様、本当に行かれるのですか」
「はい。エルヴィラさんは、友達なので」
「…私を、責めないのですね」
「…まあ、正直貴方のことは、今はあんまり好きじゃないです。でも、とりあえずはエルヴィラさんを助ける方が先です。なので、そういうのはエルヴィラさんとやってください。僕は真面目な話が苦手なので」
「あ…」
彩嗣さんは、あっという間に夜闇に紛れてしまいました。残されたのは、私と博士と、瑪奈川様の三人だけです。
「…あくくんなら、多分エルちゃん助けられると思うし、今はとりあえず休んどいたら良いと思いますよ」
「…ま、こっちが何かできる段階じゃないか」
瑪奈川様と博士は、地面に寝転びます。けれど、私は、ただ星が見えるばかりの夜空を眺めていました。
☆
僕らは海に落下して、海上をさまよい、そして砂浜に漂着した。
「さすがに、着衣水泳はきついね」
「…ええ」
僕が下敷きになれば、とりあえず着水はなんとかなるだろう…と思っていたけれど、寸前でエルヴィラが、炎をブースターのように使ってくれたので、二人ともたいした怪我もなく、助かることができた。とはいうものの、長い間海水につかっていたものだから、流石に二人とも身体が冷えてしまっている。
「暖まれる場所とか探してくるよ。このままだと低体温症になるかも知れない」
「…木とかがあれば、私が燃やして暖をとれるけれど」
「あ、確かに。流石だねエルヴィラ、じゃあちょっと助けて貰おうかな。あ、薪は僕が探してくるから、ちょっと待ってて」
僕は、砂浜を少し歩いて、いくつかの枝や木を拾い集めてくる。手が震えて、少し持ちにくいが、泣き言を言っている場合でもないだろう。ふと夜空を見上げると、月が出ていた。なるほど、道理で辺りが見えるぐらいには明るいわけだ。
エルヴィラのところにつくと、静かにうずくまって、打ち寄せる波を眺めていた。水もしたたる──というわけではないけれど、水に濡れて色気を放ち、月光りにキラキラと反射する髪と、どこか儚げでほんの少し目を離せば消えて行ってしまうような儚さを備えた彼女の姿は、ぞっとするほどに綺麗で、思わず見入ってしまうほどだった。
突き刺すような寒さでふと我に返って、エルヴィラのもとに行く。目の前に、ぱらぱらと枝やらを落として、「お願いして良い?」と問いかけると、エルヴィラは黙って、手を前に出した。ぼうっと炎がともり、だんだんと身体が温まっていく。
「ありがとね、エルヴィラ」
「…どういたしまして」
炎を挟んでいると、明かりに照らされたエルヴィラの顔がよく見える。いつ見ても綺麗だけれど、なんだが伏し目がちで、元気がないようだ。恐らく、今の寒さとか、半ば遭難のような状態であるとかそういったことではなく、彼女自身がおかれた境遇に、気持ちのやり場が無いのかも知れない。女の子を笑顔にさせるのは王子様の役目だし、エルヴィラは笑っているときの方が綺麗だから、元気づけたい。けれども、どう話しかけたものだろう。
「今って何時ぐらいだろ。結構夜も遅いと思うけど」
「…さあ」
「うーん、まあとりあえず日が出るまではむやみに動き回らない方が良いから、それまではここにいようか?」
「…ええ」
「やった、じゃあエルヴィラを独り占めできるね。──あ、ちょっと今のは気持ち悪かったかな」
「彩嗣は」
「うん?」
「彩嗣は、私といて嫌じゃないの?」
エルヴィラが、僕に問いかける。僕は、質問の意図を図りかねて、何も答えられずに、エルヴィラの方を眺めた。揺らめく炎に照らされて、表情ははっきりと見える。目が少し腫れていて、その視線は、僕の方を見ているのに、僕を見ていないように思える。
「むしろ嬉しいかな。エルヴィラみたいに、容姿も性格も綺麗な人といっしょにいられて、嫌な気持ちになる訳がないよ」
「──私のせいで、こんな所にいるのに?」
「いや、誰かひとりのせい、ってことでもないよ。キルループ?がエルヴィラに目を付けて、ふみさんがそれに協力して、僕らが負けてしまって。そして、僕が追いかけて戦ったら、エルヴィラの炎がヘリを燃やしてしまった。──一番悪いのは、エルヴィラを狙った悪い大人であって、敢えて言うなら、今この状況はその人達のせいだ」
「腕がなくなったり、怪我したのに?」
エルヴィラは、僕から目をそらして、か細い声で問いかける。エルヴィラは、僕が彼女のために無茶をやったことを、自身の責任だと思っているらしい。しかし、それは大きな勘違いだ──というふうに言ってしまうのはよくないから、慎重に言葉を選ぶ。
「僕がエルヴィラを助けたのは、何でなのか分かる?」
「…私が、哀れだから?」
「ちょっと違うかな」
「…貴方が王子様を標榜しているから?」
「惜しいかな。そうだな、例えば芽唯だったり、泉充だったり、大丸さんだったり、クラスメイトだったり、他の人が同じ状況だっとしても、勿論僕は王子様だから助けるだろう。けど、それとエルヴィラを助けるのは、全く訳が違うんだ」
「…どういうこと?」
僕は、立ち上がって、エルヴィラの隣に座り直す。そして、僕はエルヴィラの手を取り、膝をついて、エルヴィラの目をまっすぐ見る。彼女は少し驚いたような顔をしたけれど、何も言わずに、ただじっと僕の方を見つめる。僕は、深呼吸をして、エルヴィラに語りかける。
「僕がエルヴィラを助ける理由。それは、完っ全に下心だ」
「…は?」
僕の言葉が予想外だったのか、エルヴィラが眉をひそめる。もちろん、僕はそんなことに構わずに話を続けるけれど。
「エルヴィラ。君は、自分が思っているより何十倍も素敵な女性なんだ。透き通った瞳、切れ長の瞳。そして、二重で、睫毛が長いからより一層、綺麗な眼が際立っている」
「え」
「右目の下にある泣きぼくろも、妖艶さを漂わせる。そして、鼻筋もとても綺麗だ。鼻も高くて、なにより少し小さくて形が整っていて、世界一の彫像なんかより綺麗だ」
「あ、彩嗣?」
「雪のように白く、乱れ一つ無いその肌。実際に触ったことはないけれど、きっと絹よりもなめらかなはずだ。そんな白い肌のなかに、桃色の唇がアクセントになって、その美貌を完璧な物としている」
「えっと」
「そしてその髪。本物の銀よりも美しく、キラキラとしていて、きめ細やかな髪。一本一本が、芸術品のように輝いている。そして、そんなに長い髪なのに、どこをとっても荒れていない。エルヴィラの動きと共にさらりと動く君の髪は、きっと世界一なのだろう。ストレートで、髪を下ろしているけれど、君の髪はセットなんかしなくても、誰よりも綺麗だ」
「いや、その」
「そして、この手。細くて長いけれど、確かに柔らかな指。触っているだけで癒やされる。そして、その細い腰、長い脚。眼に入れば、たちまち虜になるぐらい、とてつもなく綺麗なプロポーション」
「あの」
「誰よりも綺麗な容姿をしているけれど、エルヴィラが本当に綺麗なのは、そのひたむきさ。たとえ苦手なことであっても、必死に、真剣に、まっすぐにぶつかっていく。誰かが困っているなら、迷わず手を差し伸べる。なのに、自分が誰かに助けられたなら、相手のことの方を気遣う。気遣うことができる。少し人と付き合うのに臆病なところもあるけれど、それは人を傷つけないための優しさ。一生懸命で、優しくて、誰よりも綺麗な心を持っている」
「あ、え…」
「初めて出会ったとき、エルヴィラは、僕を避けたよね。けど、それは君が優しくて、誰かを傷つけるのは嫌だから。誰かが傷つくよりも、自分が傷つくことを選べる、そんなに君は優しい。一緒に、サッカーの練習をしたとき。何度も、何度も諦めずに君は挑戦し続けた。どれだけ難しくっても、一度も諦めずに。そんなところが、僕にはまばゆいくらいに光って見えた。芽唯と一緒に、三人で映画館に行ったとき。感動して泣いた芽唯に、静かにハンカチを手渡してたよね。そんな気遣いができるところ、とっても良いなって思う。球技大会。練習を繰り返して、優勝できた。一生懸命に頑張って、誰よりも真面目に取り組んだから。今日だって、君は誰かを傷つけないために、僕らが無事でいられるために、自分を犠牲にしようとした。自分が助かることよりも、僕が助かることを優先してくれた。それが、エルヴィラなんだ」
「…彩嗣…」
エルヴィラは、腕で顔を覆ってしまった。握った手が、だんだんと温かくなっていき、ほんの少し湿っていく。僕の手汗だろう。緊張しているのだ、ここまで思いの丈をまっすぐにぶつけることはなかったから。
「だから、僕はエルヴィラを助けたんだ。これから先、体育祭で、一生懸命に取り組むエルヴィラが見れるから。文化祭で、エルヴィラの歌声が聞けたり、出店を一緒にできるから。帰り道、笑って話ながら、エルヴィラと帰れるから。…世界で一番綺麗な人を、特等席で見続けられるから」
「…私に、そんな価値は」
「ある。命をかけてでも、僕はエルヴィラと学校生活を送りたい。だから、助けたんだ。君が可哀想だから、哀れだから。君を助けたいから。そんな理由じゃなくって、僕が、君を見続けていたいから。つまり君を助けるのは、そういう下心って事」
「…した、ごころ」
「君が、負い目を感じる必要なんて無いんだ。だって、君を助けたのは、我が儘な王子様の気まぐれなんだから」
「ねえ、彩嗣。彩嗣は、私を助けてよかったって、思ってる? 痛い思いをしても、後悔はしていないの」
「もちろん。だってさ──」
エルヴィラが、身を乗り出して、僕に問いかける。そしてちょうどそのとき、水平線の向こうから、太陽が昇り始めた。
僕は、エルヴィラの手を取って、立ち上がる。「ほら」といって、半ば無理矢理にエルヴィラを立たせると、日の光が、エルヴィラを照らした。月明かりに照らされるエルヴィラは儚かったけれど、今は──
「ほら! 朝日に照らされる君は、こんなにも綺麗だ」
「…ふふ、何それ。やっぱり彩嗣は、変な人だね」
エルヴィラが、声を上げて笑い出す。元気で、生命力が満ちあふれていて、思わず笑みがこぼれてしまう。朝日に照らされて、手を取り合いながら、二人で思いっきり笑った。打ち寄せる波や、鳥の声なんて聞こえないぐらいに。まるで、二人だけの世界を楽しむように。
ひとしきり笑って、肩の荷が下りたからか、疲れがどっと来て、僕は座り込んでしまった。すると、エルヴィラが、僕の前に座り込んで、笑顔で言った。
「ねえ、彩嗣。私、彩嗣のことが好き」
朝日に背後を照らされるエルヴィラの姿は、目に焼き付いて離れないぐらいに、絵画にでもしてしまえるくらいに、途方もなく綺麗だった。エルヴィラの姿と言葉に見入ってしまって、返答が遅れる。そんな僕を、エルヴィラは黙って、笑顔で見つめる。
「エルヴィラ、僕は──」
「言わせない。なんて」
ようやく言葉を発した僕の口を、エルヴィラの指が押さえる。
「分かってる。彩嗣の心の中に、誰がいるのか。…彩嗣が、誰のことを好きなのか。見てきたから、分かってる」
エルヴィラはそう言って、僕の口から指を離し、立ち上がる。そして、僕に向かって指を突きつけて、言う。
「だから、これは宣戦布告。…きっと、私を好きにさせてみせるから」
エルヴィラがそういったのと同時に、遠くの方から、「あくくん、エルちゃん」と呼ぶ声がする。
エルヴィラは、大きな声で「今行く」といって、駆けだした。
「…ずるいな、エルヴィラ」
走るエルヴィラの後ろ姿を見ながら、僕はそう呟いた。その言葉は、誰にも聞かれることなく、波にさらわれて消えていった。