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姉と王子様

 あくくんの、お姉さん。…小さい頃、私は彼女と仲が良かった。まだ幼かったから、ほとんど自分の姉のようにも思っていたような、そんな気がする。そして、今さっき、目の前に現れた彼女は──完全に、私の記憶の中のそれと一致していた。


「…大丈夫、あくくん」

「うん…いや、ごめん。ちょっと、きついかも」

「そっか。このままじゃ濡れちゃうし、とりあえず中に入ろう」

「…うん」


 あくくんの手を引きながら、家へと入っていく。あくくんの家は、随分と行き慣れている。鍵を借りて、玄関の扉を開ける。どうやら、でぃーちゃんはまだ帰ってきていないらしい。部活とか、入ったのかな。何にしても、いなくて良かった。こんな状態のあくくんを見たら、きっと彼女は心配してしまうだろう。──もちろん、彼女が帰ってくるまでに、彼が調子を取り戻せるかというと、正直なところ多分難しいのだろう。


「ごめん、芽唯」

「いいからいいから、とりあえず転んどく?」

「…ごめん」

「いーってば」


 あくくんをソファに寝かせる。彼の顔は暗くて、そんな彼を見ていると、ふつふつと怒りがわき上がってくる。──あくくんは、ようやく、心から笑えているのに。ようやく、平和な日常を送れるようになったのに。なんで、今更。あくくんのお母さんを殺した、お姉さんが、ここに来て。こうやって、あくくんの平穏を奪うのか。

 必死に怒りを抑えていると、あくくんはすう、と寝息を立て始めた。きっと、精神的に疲れちゃったんだろうな。ブランケットを探しに、私はリビングを出た。たしか、布団とかは二階にあったっけ。物置…あ、今はでぃーちゃんの部屋か。


「…ここに、お姉さんがいたんだよね」


 今は「でぃー」と書かれた、小さなプレートが駆けられているドアを見て、一人呟く。ここは、お姉さんの部屋。私は、一度だけ入ったことがある。お姉さんが、珍しく化粧をいていた日。私は、彼女に「私もメイクしたい」なんてだだをこねて。それで、姉さん──麗守香さんが、仕方ないからと、内緒で部屋に入れてくれて、教えてくれたのだった。

 …どうして、あんなに優しかったあの人が、あんなことを言うのだろうか。はっきり言って、何にも分からない。


「…あ、とりあえずブランケットブランケット…こっちかな?」


 扉の一つを選んで入る。どうやら、そこは半ば物置部屋のような様相を呈していた。クローゼットを開けてみると、布団類が入った袋が積まれていた。正解だったらしい、そこからブランケットを取り出して、私はあくくんのところへ降りていった。


「ん…芽唯…?」

「まだ寝てて大丈夫だよ~」


 眠そうに声をあげるあくくんに、優しくブランケットを掛ける。私が寝てても良いというと、彼は曖昧な声で返事をしながら、もう一度目を瞑って、すうと寝息を立て始めた。

 彼の寝顔を見る。女の私から見ても、少し羨ましい位に、長くて整った眉毛。色白な肌に、ほんのりと赤い唇。黒い髪は、どういった手入れをしているのか、まるで濡れているかのように艶があって、そしてあまりにも、きめ細やかで。…やっぱり、いつ見ても彼は、格好良いなあ。こうやって、すやすやと寝ているのは、少しだけ、可愛いけれど。


「…ちょっとぐらい…」


 彼の顔に、自分の顔を近づける。そうして、彼の唇を見て。彼が寝ているのを、もう一度確認して、私は彼に、口づけを──しようとした寸前で、思いとどまった。


「…今やるのは、ずるいよね」


 彼が、とても辛い目に遭っているのに。疲れ果てて、寝ているのに。それを、チャンスだと捉えて、あまつさえ、彼の唇までも、奪おうとした私。そんな自分に、嫌悪感がわいてくる。…あくくんが、苦しんでいるところにつけいるなんて、私、悪い女だな。




 夢を、見た。…一度見た、あの日の夢。確か、寝苦しさに目が覚めたのだったか。目が覚めたとき、ほんの少し、嫌な匂いがして。そして、汗をかいたのか、シャツが張り付いていた。背中はヒリヒリと痛むし、無性に喉が渇いて仕方が無かった。だから僕は、リビングに降りて、水を飲もうと思い至ったのだ。


「…あれ、姉ちゃん…?」


 廊下を歩きながら。僕は、姉の部屋の扉が、空きっぱなしになっているのを見た。僕の部屋から一階に降りる階段までには、姉の部屋の前を通る形になる。確かその日は、姉が寮生活から帰っていて。それで、時々そのときみたいに、夜目が覚めて、トイレに行ったりするときには、扉は閉まっていたけれど、うっすらと灯が漏れていたのだった。ただ、その日はドアが開いていて、それに、電気はつけっぱなしで。しかも、彼女の学習机には、乱雑にノートが置かれていて、椅子も、立ち上がった後、戻されていないようだった。

 姉さんは、几帳面な人だった。僕が本を取り出したままにしておいていると、よく「こら演良くん、棚に戻さないと」と言って、注意されることがままあった。だから、幼いながらも、何の片付けもせず急いで部屋を飛びだしたような其の光景は、僕に不安を抱かせた。


「…暗いなあ…」


 階段を降りていく。不思議なことに、リビングにはあかりが灯っていなかった。いつもだったら、この時間はまだお母さんは起きているはずなのに、と思って、ゆっくりと僕は階段を降りて、リビングの方へと歩いて行った。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい…」


 すすり泣くような声と、柔らかい肉に包丁が刺さるような音、液体が床にぶつかる音に混じって、そんな声が聞こえた。ただ、雑音に紛れて、誰の声なのかは分からなかった。

 そして、ドアを開けた。そこには、二つのシルエットがあった。一人は床に横たわって、もう一人は、その上にまたがっているようだった。


「…仕方ないよね。あなたは、演良くんには、いらないの」


 その声を聞いて、僕は、おぼろげな頭で、目の前にいるのが姉だと理解した。姉は、その下にいる人に、何度も、何度も、刃物を振り下ろしているようだった。振り下ろす度に、血が吹き出て、下にいる人の身体が、びくんと揺れる。そして、刃物をブスリと引き抜いて、もう一度、もう一度と、何度も、何度も振り下ろす。血が出きったのか、もう刺しても、ただ肉を刃物が刺す音と、姉の吐息しかきこえなくなってようやく、僕は声を出すことが出来た。


「姉、ちゃん…?」


 僕がそう言うと、姉はゆっくりと振り返った。その表情は、暗くて、よく分からなかった。


「演良くん、おきてたんだ。だめだよ、ちゃんと寝ないと」


 彼女は、そう言いながら、ゆっくりと立ち上がった。そうして、刃物を手に持ったまま、僕の方に、ゆっくりと歩み寄った。一歩歩く度に、彼女についた返り血が床にぽとぽとと滴り落ちていた。彼女の声色は、いつも通りの、優しい調子で。でも、姉の行為は、いまいちよく、分からなくて。だから僕は、姉に尋ねた。


「何、してるの…?」

「おかあさんを、殺しただけだよ」


 僕の問に、彼女はそう答えた。何度も聞いた、僕の質問に答える、優しい口調だった。だから、僕はその意味を理解することが出来なくて。そんな僕を見かねたのか、姉は僕の側を通り過ぎて、ドアの近くまで言った。パチリ、と音がする。まぶしさに、思わず目を瞑る。姉の「ほら」という言葉に、恐る恐る、目を開けた。──僕の目に飛び込んできたのは、点いた灯に照らされた、母の亡骸だった。それは、まるで赤い花に囲まれているかのように、おびただしいほどの血にまみれていて。そして、先ほどからしていた嫌な臭いは、血と、臓器の匂いなのだと気が付いた。


「なん、で…」

「邪魔だから。ねえ、演良くん」


 かろうじて、絞り出した言葉に、姉は答えることなく。そして、ただ彼女はすうっと僕の目の前に来て。返り血に濡れた、真っ赤な指で、僕の頬を撫ぜた。目の前には、所々に血がついた、姉の顔。なのに僕は、姉のその顔を見て、ほんの少しだけ、安心していた。

 彼女は僕をじいっと見て、そしてにこりと笑って、口を開いた。


「演良くんは、王子様になるんだよ」

「おうじ、さま…?」

「うん。とおってもかっこよくて。とっても、優しくて。泣いている人は、みーんな笑顔にしちゃうんだ。ね、いいでしょ?」

「姉ちゃん、何を言っているの…?」

「…いい? お姉ちゃんとの約束だよ。君は、王子様になるんだ。それで、好きな子と幸せになるんだ」


 彼女は笑って、そして何も言えない僕の頭を、優しく撫でた。きっと、血にまみれたその手触りは、心地の良いものはなかっただろうに。なのに僕は、それに安心して。


「じゃあね、あくくん。もし君が、王子様にならずに、泣き虫のままでいたら。──そのときは、私が演良くんを、殺してあげるから」


 姉はそう言って、最後に笑って、くるりと振り返った。そして彼女は、母の亡骸には見向きもせず、ただ、リビングの窓を開けて、部屋を出て行った。夜闇に消えていく彼女の背中が、どこか、儚げで、今にも消えてしまいそうだったのを覚えている。けれど、僕は、もっと別のことに、気を取られていた。──最後、姉が家を出る前に、僕に見せた顔。彼女は、笑っていた、筈なのに。sの瞳からは、一筋の涙が、こぼれていた。

 そうして僕は、眠気と、理解できない状況と、頭がいっぱいいっぱいになって。それからのことは、もうほとんど、なんにも覚えていない。ただ、一つだけ分かるのは。僕の母を殺したのは、間違いなく、姉さんだった、と言うことだ。





 嫌な夢から目が覚めたのは、とても良い匂いが、漂ってきていたからだ。ぼんやりと目を覚ますと、どうやら僕は、ソファの上に寝転がっているようだった。ただ、何かとても柔らかい物の上に、僕は頭を乗せていて。そして、ほんの少し、暗かった。


「うーん…」

「お兄ちゃん、おはようなのです」

「…でぃー…?」


 うえのほうから、でぃーの声がした。目を開けると、丁度真上に、でぃーが僕の顔を見つめているのが見えた。それからだんだんと冴えていく頭で、ゆっくりと考えて、どうやら僕は、でぃーに膝枕をして貰っているらしいことに気がついた。


「でぃー、おはよう…重くないかな?」

「ふふ、ぜんぜんなのです。お兄ちゃんこそ、寝心地はわるくないのです?」

「うん…心地良いよ」

「えへへ、ならよかったのです。…お姉ちゃーん、お兄ちゃんが起きたのです!」


 僕の顔を見て笑うでぃー。彼女は、キッチンの方を見て、少し大きな声で呼びかけた。すると、芽唯が「おっけ~! もう少しでできあがるから!」と返したのがきこえた。…そっか、芽唯がこうして、転がせてくれたんだっけ。


「お兄ちゃん、そろそろ晩ご飯が出来るのです」

「そっか。…よし、じゃあ起きようか。ありがとね、でぃー」

「いえいえ、妹として当然のことをしたまでなのです!」

「あはは、そっか」


 彼女の笑顔は、寝起きの僕には眩しすぎた。そして、手を洗って、食卓につくと、もう三人分のご飯の用意が既に終わっていたのだった。そこには、大皿に盛られた唐揚げに、ご飯、それに副菜や味噌汁なんかが並べられていた。


「…これ、芽唯が作ってくれたの?」

「そうだよ~」

「…ありがと、芽唯。唐揚げか、とっても美味しそうだね」

「えへへ、そう? …あ、でも、ごめんね油とか勝手に使っちゃって」

「いいよいいよ、そもそも普段は二人なんだし。それじゃ、食べよっか」

「うん!」


 席に座って。唐揚げを、一個口に運ぶ。とっても熱いけど、ぎりぎり食べれるぐらいだ。噛むと、じゅわりと旨みと油が染み出てくるし、外の衣はさくさくだ。…うん、とっても美味しい。芽唯の料理は、やっぱり、とっても美味しいな。


「…うん、美味しいよ、芽唯」

「そっか。良かったぁ」

「美味しいのです、お姉ちゃん!」

「うんうん、ありがとねぇでぃーちゃん」


 そうして、ゆっくりとご飯を食べていくうちに。不意に、頬を熱い物が伝うのに気が付いた。


「あくくん、大丈夫?」

「…お兄ちゃん、辛いことでもあったのです?」

「いや、大丈夫だよ。これは、その。芽唯のご飯が美味しくて…」


 二人に涙を見られて、僕は咄嗟にごまかした。でも、芽唯はそんな僕をまっすぐ見て、そして口を開いた。


「…あくくん。大丈夫だよ。辛いこと、抱え込まなくて」

「芽唯…?」

「あくくんはさ。いつも、苦しいことも、辛いことも、抱え込むし。自分がどうにかしなきゃって、思ってるでしょ? でもね、本当に辛いときは、頼ったって良いの。王子様とか、関係なくさ。ね、あくくん」

「そうなのです。お兄ちゃんは、何でもかんでも一人でやろうとしすぎなのです。でぃーだって、お兄ちゃんのためなら、どんな事でも頑張るのです!」

「…ありがとう、芽唯、でぃー。…あのさ。さっき、思い出したんだ。姉さんが、母さんを殺した日の事。…今、二人といるのがとっても楽しいから。だけど、もしかしたら、って思うと…その、なんかもう、止まんなくなっちゃって」


 涙をこぼす僕を、二人は優しく見つめてくれた。そして、僕の手を取って、とっても優しい口調で、話し始めた。


「…うん、そうだよね。心配だよね。でも、きっと大丈夫だよ。だって、私達は、あくくんは、一人じゃないんだから」

「そうなのです! でぃーも、お姉ちゃんも…皆で、一緒にやれば、きっとどんな事だって叶えられるのです!」


 僕を見つめる二人を見て。どこか、胸の奥底から、温かい物が湧き出てきた。そうだ、頼ったって良いんだ。…皆と一緒なら、きっと。


「…うん、芽唯、でぃー、ありがとう。…それじゃ、頼っちゃって、いい?」

「もちろんだよ」

「もちろんなのです!」

「はは、ありがと」


 二人と話しているうちに、気づけば涙はもう、おさまっていて。僕と芽唯と、でぃーは、笑いながら、美味しい晩ご飯を食べたのだった。

少々私生活が忙しい影響で、投稿頻度が落ちております。少しの間、ご容赦下さい。

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