父親と彩嗣演良
真っ暗な室内で、その男は静かに立っていた。背後にいる父からは、かすかにうめき声が聞こえてくる。
「…炉ノ路…!」
「…僕の持っている能力はね、この世界で最強の能力なんだよ」
「何を、言って…」
暗闇の中で、彼の赤く光る瞳がゆらゆら揺れる。人差し指を立てながら、彼は言葉を発する。まるで二人の人間の声が重なり合ったかのような、不可思議な声。
「“ロールロバー”。他者の能力を、完全に再現する能力。そして、その条件はたった一つ。“プレゼント”を持つものを、視界に収める。ただ、それだけだ」
そこまで言うと彼は、懐から一振りの短刀を取り出した。父を庇うように身構えると、彼はにこりと微笑んで、「別に危害は加えないよ」と優しく言った。
「…そして、一度再現した能力は、記憶している限り何度でも使える。とはいえ、中には難しい能力もあるんだ。例えば…」
「なっ…!?」
そこまで言うと、彼は短刀を自身の腕に刺した。どくどくと、赤い血が流れる。ただ、不思議とその血は暗闇の中で怪しく色彩を放っていた。腕から流れる血を気にかけるそぶりすら見せず、炉ノ路は話し続ける。
「体外に出た自身の血を毒にする、なんてのもある」
「父さんに、それを飲ませたのか…?」
「正解。察しが良いね、君は良い編集者になれると思うよ」
そこで彼は、短刀をしまった。すると突然、血が逆流し始めて、身体へと戻っていく。やがて傷が完全に広がると、彼はへらへらと笑いながら、再び話し始めた。僕は此の時点で、背筋を百足が這っているような恐怖を感じていた。
「ただ、これは使い勝手が悪いんだ。ほら、こうして自分の身を傷つけなければいけないし、大量の毒を用意すると失血死してしまうだろう? だから、つい最近までは使えなかったんだよ。でも、数ヶ月前に、この能力は随分とつかいやすいものになったんだ。なぜなら…」
「…僕の、能力」
「その通り、君の“アンリミテッドアンデッド”のおかげで、いくらでも僕は毒を生産できるようになった」
「じゃあ、父さんは…」
僕を襲っていた恐怖の正体が分かった。僕は、僕自身の能力で、今父を危険にさらしているのだ、ということが。彼は僕に近づいて、にやりと嗤う。
「ありがとう、彩嗣演良君。君のおかげで、僕は君の父親を殺せるよ」
「…は?」
「…うん、良いね。その顔は、実に良いよ。…小説のモデルにしたいぐらいだなあ、ははは」
視界が歪む。なぜ。僕は、この能力は今まで、皆を救ってきた能力なのに。どうして今になって、父さんを。手が震えて、呼吸が乱れる。脚の力が抜けて、立ってられなくなって、その晩しゃがみ込む。
「…まあでも、僕も家族が死ぬ辛さなんてのは分かるんだよ。僕もね、娘と妻を、失ったことがあるもんだからさ。だから、提案だ」
「てい、あん…?」
「僕にくれないかな、杖。そうすれば、君の父親から、毒を取り除いてあげるよ」
「つ、え…」
だめだ、と言う声が聞こえる。誰なのかな。全くもって、分からない。だって、駄目なはずは無いんだから。父さんが死ぬのは嫌だ。頭の中で幾度も響くこの声に従って、杖を彼に渡さなかったら。それは僕が、お父さんを殺したって事になるんじゃ無いのか。そんなの、駄目じゃん。だって、僕は…父さんの、息子なんだから。
胸に手を当てる。文化祭前に起こった事件の後、杖は僕の身体に取り込まれた。取り出す方法は、なぜだか身体が知っている。一言、呪文を唱えると、僕の身体が光を発して、胸から杖が飛び出た。
「…おー、これが、杖…思ってたより、普通だな。…これが、神の遺産…!」
彼は、杖に触れる。すると突然風が吹いて、赤く暗い光が、杖を取り巻き、杖の色が黒く変色していく。杖から感じた優しい雰囲気が、禍々しいものへと変わっていく。そして完全に変貌した杖は、彼の身体へと入っていった。
「…ふっ、なるほどね。杖は心を写す、か。…お、力が漲る感覚だ…はは、これで…!」
「…杖を渡したんだ、早く父さんから毒を取り除け…!」
「ん? ああ、そうだったね。ほら、これでいいだろ?」
彼は手を翳した。すると、父さんの身体から、血が飛び出て彼の掌へと吸い込まれていった。父が大きく、咳をした。僕は、父に駆け寄った。これで、父さんは生きてられる。よかった、これで父さんを救えたんだ細心の注意を払って、父の姿勢を変える。毒が無くなったとは言え、このままだと危ないことには変わりは無い。ただ、もう毒は無いのだから、死ぬことはきっと無い。…もう、家族がいなくなることは──
「…え?」
先ほどまでうつ伏せになっていて見えなかった父の胸には──ナイフが、深々と刺さっていた。え、なんで。毒の、筈だ。そんな、まさか。父が苦しそうにしていたのは、もしかして。
「あはは!! そうだよ、彩嗣演良! 残念だったね! 君のお父さんに毒は盛ったけど…もう既に、ナイフで一突きしていたんだよ!」
「…約束が、違う…!! 父さんを、助けるって…!」
「あれ? 僕は、“毒を取り除く”としか、言ってなかったよね? あはは、聞き間違いは駄目だろ? …読解力に欠けているね!」
彼の口角が歪む。深い絶望の暗闇に落ちた僕に、その嗤いが響く。もし、僕がまず最初に父の容態を確認していれば。もし、炉ノ路の話を聞かずになんとかしていれば。もし、誰かに助けを求めてさえいれば。…無数のもしもは頭に浮かんでくるだけで、僕の心を助けはしない。ただ僕は、苦しそうに吐血する、父の顔を眺めて──なぜ僕は、誰かを助ける能力を持っていないのかと思っていた。
「…いや、別に、君の父を殺すつもりは無かったよ。ただ、杖を持っていると言うだけだったらね。けれど君は、これまで僕らに何度も見せただろう? 君は、何度でも立ち向かう。何度だって立ち上がる、諦めの悪い──敵だとね。だから、僕は君の心を折った。…君に“プレゼント”があったから、君の父親は死んだんだよ」
なぜ──父は今死にそうになっているんだ? どうして僕は、こんな羽目に。──それは全て、僕のせいだ。だって僕は、彼らと戦うことを選んだから。諦めないことを選んだから。…この能力が、誰かの役に立つって、思ってしまったから。でも、結果はどうだ? 父さんが、死にかけてしまっているじゃ無いか。こんな、こんなことなら、能力なんて要らなかった。戦おうとなんて、思わなかった。こんな、ことなら──
「じゃあね、悲劇の王子様」
──王子様になろうだなんて、思わなければ良かった。
苦しそうにうめきを上げる父を抱えて、ただじっとしていた。頭の中では後悔が無数に渦巻いていた。なぜ、どうして、もしも、ああしていたら──そんなことばかり、浮かんでは消えていた。
「…あく、らか…?」
不意に、声がした。それは、今まで頭の中に響いていた声とは違って、目の前からした。何度も聞いた、父の声。
「父さん…まだ、息が…! 良かった、早く救急車を…」
「…今更、助からん。終わりぐらい、自分で分かる」
「そん、な…」
救急車を呼ぼうとした僕の手を、父が止める。ただ、その手はあまりにも弱々しくて…父さんが本当に、死んでしまうのだと分かった。
「…演良。私は、お前のことをあまり知らない。…まさか、あんなやつに狙われるような生き方を、してるなんてな」
「ごめん、父さん、僕のせいで…」
「…違う。お前のせいじゃない。…そう、自分を責めるな」
「とう、さん」
父の声はしがれていて、弱々しく、時折血を吐いている。けれどその眼差しは強く、強く僕を見つめている。
「…どうして泣くんだ、演良。私は、良い父親では、無かっただろ…?」
「そんな、こと…」
「…ふふ、否定してくれないんだな…」
父の言葉を強く否定することは、僕にはできなかった。そんな僕の頬を、父は撫でる。…初めて、父にこうして貰ったような気がする。
「…私はな、演良…人の心が分からないし、人に愛情がもてないんだ。…アイツと結婚したのも、ただ…お前の姉が、生まれたからだった…がはっ」
「父さん、喋らないで…!」
父さんが吐血する。僕は必死に胸の傷を抑えるけれど、父さんは話すことを止めない。
「…そして、お前の母と、姉が出て行って…お前と、二人になった。…お前と遊んでやったことは無かったし…瑪奈川さんに誘われないと、出かけることもしてやれなかった…」
「…父さん」
「…本当はな。お前を、愛そうとしてたんだ…でも、できなかった…どうしても、愛するふりしか、できなかったんだ…」
「でも、父さんはバンド、見てくれたじゃ無いか」
「…だな…まあ、最近は…ほんの少しだけ、お前に情がもてていたんだ…なあ、演良…私は、こんな悪い父親なんだ…お前に隠し事だってしてる…だから、そう泣くな」
父は、僕の涙を、震える手で拭った。
「でもさ、父さん」
「…なんだ…?」
「良いか、悪いかは、どうだって良いんだ。…僕にとってはさ、父さんはきっと…本当に、父親だったよ?」
「…父親、か…ふふ、悪く、ない…な…」
父が、笑う。父さんの笑い声なんて、初めて聞いたかも知れない。こんなときになって、初めて僕は父を、一人の人間として見れていた。
「…私は、もうじき死ぬから…がはっ…お、前に…本当の、ことを…言うぞ…!」
「もう良いから、父さん…このままだと、本当に…!」
「黙って、聞け…! いいか、お前の、母さんだが…あれは、出て行ったんじゃ無い…あれは、あれは…殺されたんだ」
「…え?」
父が、語気を強める。父さんに叱られたことは、何度あっただろうか。
「…いいか、お前はいつか、姉さんと会うだろうが…信用、するなよ…母さんを殺したのは、あいつだ…」
「え、いや、うそ…だって、姉さんと母さんは、あんなに仲良くってさ…」
「…すまない、最後にこんなことを言い残す父で…じゃあな、演良…あまりはやく、死ぬなよ…」
父さんは、人形の糸が切れたように──動かなくなった。先ほどまで続いていた荒い呼吸も、口から出る血も、もう無い。父の掌から、次第に熱が、無くなっていく。どんどんと小さくなって、父がモノになっていく。父さんの顔が、だんだんと重力に負けてだらんとなって、別人のようになっていく。
どれほどそうしていただろうか──僕は、握っていた父さんの掌がすっかり冷たくなってようやく、父さんが死んだんだって、分かった。
気が付くと、誰かが家に入ってきていた。あれ、そういえば芽唯と、でぃーちゃんと約束してたっけ。…二人に見せられないな、父さんの身体は。動かさなきゃ。…あれ、身体が動かない。段々と足音が迫ってくる。けれど、僕はどうにも、動けない。
「あれ、あくくん…と、おじさん…? どう、したの…えっ、おじさん!? おじさん!」
芽唯が、父さんに駆け寄る。僕はしゃがんで、もう動かなくなった父さんに声をかける芽唯を、ただじっと見ていた。涙は枯れきって、もう出てこない。
「あくくん、おじさんは…!?」
「あー…あはは、父さん、死んじゃったよ…」
僕はぼうっと、ただ言った。…それからのことは、覚えていない。芽唯が救急車を呼んで、でぃーちゃんを芽唯の家に行かせて、それから──どうしたのだろう。確か、病院に行って、警察が来て、それから──帰ってきて、ベッドに転んだんだっけ。
「…なんで、こんなことに…」
不思議と涙は出なかった。ただ、昔のことを思い出していた。まだ父さんも母さんも、姉さんもいた頃。そういえば、僕はあのとき、泣き虫だったっけ。いっつも姉さんに泣きついて。やんちゃだった芽唯にも、その頃は手を引っ張られてたんだっけ。夜泣いては、母さんに一緒に寝て貰ってた。そしてそんな僕を、父さんは優しく見守ってくれてたんだろう。
「あはは、演良遅い!」
「待ってよ、姉ちゃん!」
「もー二人とも走りすぎだよ」
「…随分、楽しそうだな」
一幕が、浮かぶ。あの頃は良かった。何にも考えないで、ただその日を生きていたから。僕は、一人じゃ無かったから。でももう、僕は──たった一人だ。
思い返す度に、現実が僕を襲う。
「…父さんも守れなくって…何が、王子様だよ」
──王子様。母と姉がいなくなって──いいや、姉さんが母さんを殺して出て行って、僕は泣かなくなった。代わりに、王子様であろうと、し続けたんだ。だから、困っている人には手を差し伸べて、泣いている子は笑顔にして、格好良く、そうやって生きてきた。ちゃんと、救えたんだ。芽唯だって、エルヴィラだって、蕗乃ちゃんだって久瑠々先輩だって。なのに、なのに…僕は、父さんを救えなかった。…王子様なんて、王子様なんて──そんなものさえ、志していなければ。父は死なずにすんだのに。
「…王子様なんて、なるんじゃなかった」




