幻と王子様
真夜中、誰かの酒声が聞こえた気がして、目を覚ました。肌に張り付く汗の感触が気持ち悪い。背中がヒリヒリと痛む。喉が渇いたので、リビングに降りた。すると、二人の人影がそこにはあった。 一人が、もう一人の上にいる。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
何度も、何度も謝罪が繰り返される。そして、ナイフが何度も、何度も振りかざされる。一振りするごとに、赤い何かが、下の方の人影から飛び出る。何度も何度も、何度も何度も、何度も何度も、何度も何度も、ナイフが光って、血が飛び出る。
「あなたは、■■にはいらないの」
ナイフが、下にいる■を刺す。■■■■が、高笑いをする。■は、少しも動かない。ただじっと見ていると、■■■■と目が合った。目を見開いて、返り血がついた顔で、こちらを眺める。
「■、ちゃん…?」
「■■くん、おきてたんだ。だめだよ、ちゃんと寝ないと」
「何、してるの…?」
「■■■■■を、殺しただけだよ」
「なん、で…」
「邪魔だから。ねえ、■■くん」
彼女はそう言って、血に濡れた指で、僕の顎に触れる。ぬめっとした感触が気持ち悪い。
「■■くんは、王子様になるんだよ。そうしたら、私が■■くんを──殺してあげるから」
そこで、夢は途切れた。
ふと気が付くと、河川敷のベンチの上で横たわっていることに気が付いた。スマホを見ると、もう23時を回っていた。
「あれ、なんで寝てたんだっけ…」
ランニングをしていたことは覚えている。そして、確か、急激に眠くなってこのベンチに寝転がったような気がするけれど、寝起きだからか、記憶にもやがかかったように思い出せない。動物を見たような、友達と出会ったような気はするけれど、同時に、何も起きていなかったような感覚もある。
スマホを開いてみると、いつものように、芽唯やエルヴィラからのメッセージが数件来ているばかりだ。レインを開いたところで、急激な違和感に襲われる。
「あれ、蕗乃ちゃんがいない…って、誰だっけ?」
誰かと、仲良くなった気がする。けれど、思い出せない。狐につままれたような気持ちで、家に帰り、ベッドに入った頃には、もうそんな疑念は消えていた。ただ、ほんの少しの喪失感を抱きながら、いつものように眠りについた。
☆
魔学徒。人類がまだ魔法を使えた時代の特権階級にして、“神”による人類からの魔法没収を免れた魔法使い達の生き残り。それら闇の勢力を征討すべく戦う秘密機関、それが“Dolls”。そのエージェントとして闇に対峙するのが、余の使命だ。
「で、ソイツの記憶はちゃんと消したのか? 文乃」
「抜かりなど無い。余の能力で、綺麗さっぱり消してきた。余の存在に関する記憶ごとな。これで彼奴は、余とは何の関わりの無いただの常人だ」
「ならいい。努々忘れるな、僕等の闘争は秘密裏だ。断じて、一般人を巻き込むな」
「…了承している」
目の前に座る十つほどの童、“Dolls”のリーダーである通称司令から、確認を受ける。今宵、一般人に戦闘行為を目撃され、あまつさえそれが知人であったことに、彼は酷く怒っているようだ。
「…君の気持ちも良く分かる。僕にだって友人はいるからな」
「…其方のような、揚げ足取りが趣味で人を顎で使うのが至極当然などと思っておる陰湿な奴にも同志がいるのだな。安心したぞ、其方の私生活は心配であったからな」
「一言どころか全部余計だな。…本来なら、休暇を取らすが、今、戦えるエージェントは君ら二人だけだ。…すまないな」
司令は、伏し目がちに頭を下げる。この陰険少年が頭を下げるのは極めて異例だ。なるほど、彼にも同志がいるというのはあながち嘘でもないらしい。
「ふっ、余を舐めるな。同志一人失った程度、何らの障害にもなり得ん。余の命題はただ一つ、闇の者どもを打ち倒すのみよ。ではな、司令。寝る前は牙を研ぐのだぞ?」
「子ども扱いするな、歯磨きぐらいいつもやってる」
「は、では牙を癒やす賢者のもとへ連れて行ってやろうか?」
「…歯医者は行かない。あそこは怖いからな」
「…まだ童だな」
激高した司令から逃げるように、アジトを出た。真夜中だから、道は真っ暗で何も見えない。月は満月だと聞いていたのだが、あいにくの曇天で、星の瞬きは眼に入らない。
しかし、まさか魔獣──魔学徒が使役せし怪物を退治しに向かった先に、演良がいるとは思わなかった。襲われている人を助ける、というのはなんとも彼らしい──実際には、ほとんど彼の人となりは知らないが──けれど、今日だけは、いて欲しくはなかった。
「今宵の夜空は、まるで余の心境を映す鏡のようだな。…雨まで降ってきたか」
空を眺めていると、頬が濡れる感覚に襲われた。それを、降ってもいない雨のせいにして、ふらふらとした足取りで、余以外に誰も住んでいない家へと帰る。最近は、ただいまなんて言葉も忘れてしまった。ただ帰って、ろくに喉を通らない食事を取って、寝るだけの場所。本棚とベッドと机の他には何もない。掃除が楽なのは良いけれど。
「…はぁ、気が重いな。こんなことならば、最初から会うことがなければ良かったのにな。天は悪戯が好きだな。…今のは、フェアリスっぽかったな」
部屋の中に入ったのに、雨はやまない。ずうっと、降り続けている。
「…折角、ただの友達が、できたと思ったんだけどな」
弱音がこぼれる。そんなことをしている暇はないのに。けれど、今宵だけは、弱音を吐いていたい。だって、もう、彼と関わってはいけないのだから。
「…日の出か。今日も、眠れなかったな。まあ、余に安穏たる休息など必要は無いのだが」
日が昇って、朝がやってきた。一睡もできていないが、学校には行かねばならない。故に、支度をする。無理矢理食パンを詰め込んで、服を着替えると、インターフォンが鳴った。見ると、余の同志である世々川香恋が立っていた。“Dolls”の関わりを抜きにしてみれば、演良との関わりを抹消した余にとって唯一の、只人の同志だ。余にとって、ごく僅かな日常の象徴とも言える。
「む、其方も飽きぬな。其方の家からここは、アカデメイアとは全く逆の方角に位置しておるだろうに」
「アンタみたいな不健康な奴、ほっとけるわけ無いでしょーが。その隈、今日もろくに寝てないでしょ。折角ツラ良いんだから、もーちょい考えなさい」
「…いやなに、月を眺めておったら夜が明けてな。昨晩の月は格段に美しかったからな。余は風情を解した狐であるのだ」
「昨日は曇りでしょ」
「心の眼だ。そういえば、其方はまだ会得しておらなんだか? 機会があれば会得させてやるぞ」
「キョーミない」
香恋は、冷めた目で余を見る。演良ほどではないが、彼女もまた、余の話法に理解を示す者の一人だ。なんなら、“Dolls”の同胞よりもウケは良い。
「…ま、元気そーで安心したわ」
「相変わらず其方は良き同志だ。有り難いな」
「あっそ。…そーいや、昨日はなんで文芸部の部屋使ってたの?」
「…少々、本棚の整理をしておった。城主としては、城の整備はまめにしておかねばならんだろう」
「部長アタシなんだけど」
そういえば、演良の記憶は消したが、香恋の記憶は消していなかったか。まあ、彼女はあまり他人に踏み込まないたちだから、そこまで気を張らなくても良いだろう。
「ところで香恋。近頃王になると息巻いておったが、事の次第はどうだ?」
「ん? あー、生徒会長選挙ね。いや、なんかアタシ以外にも立候補者いるっぽくてさぁ、結構めんどくさそう」
「ほう? つまり、策謀渦巻く頭脳戦というわけか。それは面白そうだな」
「どこがよ。アタシは別にそーゆーのやりたくないの。それに、相手結構強そうだしさ」
「む、野心家な其方らしくもないな。いつもなら、嬉々として敵を叩き潰そうとするだろうに」
「アタシはただトップに立ちたいだけ。その過程は別に好きじゃないの」
「そうか。ではやめるか?」
香恋は、余の言葉を聞いて、きょとんとした顔をした。それから、高笑いをして、「んな訳ないでしょ」と言い放った。
「篷樋学園の生徒会長は裁量が大きいの。つまり、アタシは名実ともに生徒のトップに上る…! 大丸槇葉を叩き潰して、アタシが会長になってやる」
彼女は拳を硬く握る。「好きにできる部屋が欲しい」といって文芸部を立ち上げた彼女らしい。いつもと変わらない香恋の姿を見て、余も思わず口角が上がる。
それから学校に着いて、普段通りに授業を受けて、放課後になった。香恋は、「いろいろ準備する」といってどこかに行った。いつもであれば、余は隠れ城──部室で時間を潰すのだが、今日あの部屋に行くのは、演良のことを思い出して辛い。家に帰っても何もすることもないので、結局図書室で勉学をすることにした。無論、ここは演良と出会った場所でもあるのだが、部室にも家にも行かぬ余にはここぐらいしか選択肢がないのだ、悲しいことに。
「相変わらず、ここの椅子の座り心地は良いな。奢侈の限りだ」
かなり柔らかい椅子に座って、机の上に課題を広げる。インクと紙の本の匂い、頁をめくる音、ペン先が走る音、行き届いた空調。やはり、この部屋は快適だ。
“Dolls”との活動との両立は、余にとってさほど難しいことでもない。闇の勢力との戦いは過酷だが、少なくとも勉学において、進退窮まるほどに理解できていないということはない。平たく言えば、余は平均的な成績を取っているということだ。
「この問は難しいな…ん?」
図書室は静寂だ。誰かがドアを開けば、ほとんどの者は、誰かが来たことに気が付く。そのぐらい静かなのだから、余は必然、それに気が付いた。図書室の戸を開けて、入室してくる美丈夫──彩嗣演良の、姿に。
「あ──」
思わず出かかった声を、必死に抑える。同じ学校に通っているのだ、いつかはすれ違ったり、出会ったりもするだろう。だから、彼が図書室に来ることも、別に特別なことではない。だというのに、舞い上がってしまうほどに、運命を感じてしまうほどに──恋は、厄介なものだと気が付いた。
気づかれないように、演良の様子を窺うと、彼は鞄から一冊の本を取り出した。それは、遠目でも一瞬で分かった。『ウェスティア王国第二皇子と黄昏の龍』──余が彼に貸した、本。余と彼を結びつける、唯一のものだ。
(記憶を失ってもまだ、読んでくれているのだな…)
本を広げて一心に読む彼の姿に、思わずほころぶ。余の能力で、恐らく彼の中では何か、辻褄をあわせる他の記憶があるのだろうけれど、それでも、つい、嬉しくなってしまう。
「あ、彩嗣」
「あれ、エルヴィラ?」
すると、本を読む彼のすぐ側に、一人の女性がやってきた。その女性は、同性である余からしても、とても綺麗な女性だと思えた。演良は、あんな綺麗な女性とも親交があるのか、と思うと、心がちくりと痛む。
「何を読んでいるの?」
「ん、『ウェスティア王国第二皇子と黄昏の龍』って言う作品でさ。結構好きなんだけど、ちょっと前に本屋で見つけたんだよね。それで買っちゃった」
「図書室の本ではないんだ。ねえ、それはどういう物語なの」
綺麗な女性は、そう聞くと演良の隣に座る。そして、ぴったりと肩をくっつける。演良は、それにほんの少し動揺して、頬を赤くしたけれど、すぐに物語の説明に移った。
「ええと、ウェスティア帝国っていう国の、二番目の王子様のオズワルドっていう人が主人公なんだけどね。彼は、継承権はないけれど、龍の呪いを受けて生まれたから、命を狙われているんだ」
「呪い?」
「うん。この作品の世界には、龍がいるんだけれど、龍に呪いを受けた人間は、生まれてから二十年後に、呪いによって死ぬんだ。そして呪いによってその人が死んだとき、大きな災害が起こるとされている。つまり、災害を防ぐには、オズワルドが二十歳になるより先に、殺さないといけない」
「なるほど」
「それで、彼を狙う暗殺者の一人にフェアリスっていう女性がいて…」
演良は、目を輝かせて物語を言い聞かせる。その様相は、昨日の、余と語らったときと同じくらいに──いや、それ以上に楽しげだった。
身振り手振りをして伝える演良に、綺麗な女性は楽しげに相づちを打つ。彼女の表情を見て、彼女もまた彼に恋をしているのだと分かった。なぜなら彼女の顔は、眼差しは、余が演良に向けるそれと全く同じだったから。
「で、オズワルドとフェアリスは恋に落ちるんだ」
「そう…彩嗣は、そのお話が好き?」
「うん、凄い好きだな。特に、オズワルドが好きでさ、結構参考にしてたりするんだよね、王子様の」
「…たしかに、彩嗣は私を、格好良く救ってくれた」
「あはは、改めて言われると、照れるね」
「…私も、この物語が好きになった」
「はは、良かった。今まで、『ウェスティア』語れる人いなかったからさ」
演良の言葉を聞いた瞬間、余は酷い喪失感に襲われた。演良の記憶を奪ったのは余だ。そう分かっているのに、演良にあの笑顔を向けられるべきは、余ではないのに──なぜ余は、演良にああやって笑いかけられていないのか、そう、思ってしまった。
「…この物語がなかったら、私は彩嗣を、好きになれていなかったから。だから、私は、この物語が好き」
「エルヴィラ…」
静かに目を合わせる二人の姿は、まるで恋人のようで──王子様と、お姫様のようだった。そして、その瞬間、漸く気が付いた。演良にとってのお姫様は、フェアリスは、余ではなかったのだと。余の恋は、初めから、実るはずもなかったのだと。余なんかが、演良に釣り合うはずもなかったのだと。──ただ、演良が優しいから、余に笑いかけてくれただけなのだと。気が付いて、しまった。
それから、どうやって帰ったかは分かっていない。失意の中で、絶望から逃げるように、ただ帰って、ただ命令に従って、魔獣と戦った。
「…フェアリスのようだなんて、酷く思い違いをしていたな」
魔獣を倒して、目撃者がいないかを確認してから、帰路につく。相変わらずの曇天だ。けれど、雨は降らない。お姫様でもない余に、雨なんか、降ってもくれない。下を向いて、俯いて歩く。だから、気が付くのが遅れてしまった。目の前に立っていた、刀を下げたシスター服の女に。
「やっほ、“Dolls”のエージェントさん。キルループ、っていったら分かるかな?」
「…『いちばん』の一人か?」
「お、あったり~。ま、けどその認識じゃあ…」
瞬間、女の姿が消える。どこに、と見回すよりも早く、女の声が背後から余に囁いた。
「死ぬよ?」
「がはっ!?」
女が、余を殴りつける。咄嗟に“フォーレンフォックス”で尾を生やしてクッションにすることでダメージを最小限にできたが、肺が圧迫されたのか息ができない。
「あたしの名前は仮名波羅かなえ。聞き覚えあったりする?」
「…ないな。それに、キルループは“協定”に参加していたはずだったが」
「あー、ありゃ抜けたよ。だってさ、あんなとこいたら強い奴とやれんじゃんね」
「…目的はなんだ。初撃でころさぬのであれば、余を殺すことではあるまい?」
「ん、察しが良いね。あたしの目的は、“黒い石”だよん」
「なるほどな」
“黒い石”。“Dolls”のエージェントが持つ、能力を覚醒させる道具。魔学徒はこれを狙っているが、キルループまでもこれを狙っているとは。能力を持つ人間の共助組織と聞いていたが、実態は随分と変貌しているらしい。
「んじゃ、いっちょ戦いますか。あ、あたしはまだ刀抜かんからさ。ま、頑張ってね」
女はそう言うと、真っ正面から凄まじい速度で、余に攻撃を仕掛ける。エージェントとして徒手での格闘は仕込まれているが、はっきり言って防戦一方だ。
「くっ…! 強者だな」
「んー、そーいう君は弱者だけどね。んで、まさか能力ってけも耳生やすだけ? それはけっこー萎えるんだけど」
「はっ、ならば食らうといい。“夢幻妖惑”!」
余は、自身の能力である、他者に幻覚を見せる能力を発動させる。全力で放ったこの攻撃は、目前の敵を沈黙させることに成功した。仮名波羅はぱたり、と倒れ込む。
が、油断した次の瞬間、仮名波羅は立ち上がり、余に拳を放った。咄嗟に腕を挟むも、痛みは非常に大きい。
「がはっ…!」
「んーおもしろいねその力。ウチの芸人より全然おもろいよ。でもま、あたしと君とじゃ格が違うからさ。んで、“黒い石”どこにあんの?」
「…答えぬ」
「あはは、いーじゃん。能力持った人間同士の戦いじゃ、最後に物言うのは意志だもんね。でもま、それじゃあたしも困るからさあ」
そう言うと、仮名波羅は刀を抜いた。たったそれだけの行為の筈なのに、息をするのさえ苦しい殺気が、余を襲った。
「ギリ病院送り程度に君を斬ることにするよん」
仮名波羅が、刀を振りかぶる。立ち向かう意志すら生まれない、圧倒的な殺気と、絶対的な死の予感。刀がスローモーションに見え、走馬灯が思い浮かぶ。なぜか、こんな時なのに、これまでの人生よりも、演良の顔ばかりが脳裏に浮かんだ。
ああ、最期に、彼の顔を一度で良いから、見たかったな。目をつむれば、瞼の裏に浮かんだりするだろうか。
ぐさり、と音がする。血が、地面に落ちる音。けれど、余の身体には痛みがない。仮名波羅の「え、誰?」という声に、反射的に目を開ける。そこには──
「ええっと、大丈夫かな?」
王子様が、立っていた。
「あ、演良?」
「あれ? 僕のこと知ってるの? おかしいな、君みたいな素敵な子、絶対に忘れないんだけどな」
記憶はないはずなのに。それなのに、貴方は、余を助けに来てくれるんだな。そう思うと、ひときわ大きく、雨が──いや、涙が溢れた。