夜の狐と王子様
「『けれど、殺すのなら僕の顔を見ていて欲しい。僕が最後に見るのは、君のその美しい瞳なのだから』」
「…王子様と名乗るだけのことはある。流石は演良だな」
「ふっ、当然だよ。僕は、王子様だからね…!」
文芸部室にやってきた僕と蕗乃ちゃんは、部室に常備されたお菓子(彼女曰く“供物”)を食べながら、『ウェスティア』の魅力について語り合っていた。話の流れで、僕が主人公のオズワルドに憧れているという話をすると、何故かオズワルドの名シーンを朗読してみよう、という流れになってしまった。
王子様としての演技力をフルに使った僕の朗読は、どうやら蕗乃ちゃんのお眼鏡にかなったらしく、彼女はかなりテンションを上げて、僕のことをしきりに褒めた。
「やはり、オズワルドとフェアリスの邂逅の場面は良いな。暗殺者となり、オズワルドを暗殺しに来たイースティア公国の姫、フェアリス。その彼女を、彼は優しく、しかし傲慢に抱きしめ、愛を囁く…!」
「やっぱり、『満月の暗殺者』の一番良いところはそこだよね」
「であろう! そしてその二人は、『暁の王女』にてついに結ばれる…! だが、運命が二人を許さない。なぜなら、イースティアとウェスティアは戦争にあり、そして世界は滅びの運命を辿る! 龍の呪いによって!」
「それで、『曇天の魔女』で、ついに戦争が始まってしまうんだよね。そのときのオズワルドとフェアリスの別れのシーンは、何回読んでも泣いてしまうんだよね」
「そう! 『いつか、君を迎えに行く』と約束するオズワルド、しかし彼の手はすげなく振り払われる! フェアリスは、彼に『…あの夜、あなた様を殺しておけば、ここで泣くこともなかったのに』といって、去って行く…! 嗚呼、二人の運命はいかに! 引き裂かれた二人はどうなってしまうのか…と、いうところまで、其方は読んだのであったな?」
「うん。『黄昏の龍』『新月の約束』も読んでみたかったんだけど、色々あって手に入れることができなくってさ。それで、そこまでしか読めていないんだよね」
そう、僕は『ウェスティア王国第二皇子』シリーズはかなり好きなのだが、三巻の『曇天の魔女』までしか読むことができていない。いつか読んでみようと思ってはいたのだが、ついぞ今に至るまで、それは実現できていなかった。
「…ふむ、それは少々残念だな。無理強いするものではないが、以降二作品、特に物語に終焉をもたらす書『新月の約束』は、血湧き肉躍り、魂が震え、その感動は必ずやその心臓に刻まれるであろう傑作…! 余としては、目を通すことを強く推薦するが」
「そっか、そんなに面白いのなら読んでみようかな」
「ほう…?」
蕗乃ちゃんは、僕の言葉を聞くと、目を輝かせて身を乗り出した。
「そうかそうか! ならば、今ここで二冊とも其方に貸し与えるとしよう! 幸い、この部屋には五篇皆そろっておる!」
すると彼女は、後ろにある本棚に手を伸ばして、二冊の本を手に取った。そして、それを丁寧に机の上に並べた。表紙には、それぞれ『ウェスティア王国第二皇子と黄昏の龍』『ウェスティア王国第二皇子と新月の約束』と書かれている。
「さあ、持って行け! 案ずるな、これは余の私物だ。図書室の本ほど丁寧に、割れ物を扱うように気にかけずとも良い」
「いや、私物の方が丁重に扱うべきな気がするんだけれど」
「そうか? 余は自らの所蔵する書物が多少損傷したとて気にせぬぞ? そもそも書とは、穴が開くほどに眺め、破れるほどに頁をめくる物なのだからな」
「…そっか、じゃあお借りするよ」
「うむ!」
彼女は、満足げに頷いた。好きなことを誰かと共有できるのは嬉しいことだから、蕗乃ちゃんの気持ちは良く分かる。
本を鞄にしまっていると、蕗乃ちゃんは立ち上がって、怪訝な顔をして窓の外を眺めだした。「どうかした?」と聞いてみると、彼女は小声で、「怪しい風が吹いている…」と呟いた。何かのロールプレイなのだろうか。
「演良よ、其方の棲まいに帰投する際には気をつけよ。斯様な風の吹く日には、闇の眷属共が、民草を狙うのでな。無論、余と同胞が眷属を鎮めるのだが、それでも救える民草の数には限りがある」
「ええと…」
「特に、日が沈んでからは奴らの力が一層増す。奴らは狡猾だ、只人では逃げることすらかなわぬ。“石”に選ばれた者でなければ、対抗すらできぬだろうな」
「蕗乃ちゃん?」
蕗乃ちゃんはそこで話を止めて、カーテンを閉めて、ゆっくりと僕の方に近づいてきた。そして、僕の目の前で歩みを止めて、僕を見上げる。蕗乃ちゃんの目は、とても冷たかった。けれど、それはほんの少しのことで、すぐに蕗乃ちゃんは、笑顔で口を開いた。
「…まあ、とにかくその書を転んで傷つけたりはせぬようにな! 持ち運びの瑕疵ではあるが、そもそも読めぬ状況になっては興ざめだ! …む、魔の媒体に電報が届いたようだ。どれどれ…」
彼女は、どこか意味深なことを言って、通知が来たスマホを眺めだした。不思議に思っていると、僕のスマホにも、通知が来た。見ると、芽唯とエルヴィラからのレインだった。
『部活終わったよー(^^)』
『用が終わった』
どうやら二人とも、用事が終わったらしい。『りょーかい、下駄箱で待ってて』と送ると、二人からスタンプが送られてきた。
蕗乃ちゃんに、これから帰ることを伝えようとすると、何やらスマホを眺めて難しい顔をしていた。
「えっと、蕗乃ちゃん」
「お、なんだ?」
「そろそろ帰ろうかなって思ってるんだけどさ」
「そうか! 奇遇だな、余もちょうど用事ができたので、集いを終わらねばならなかったのだ。少々、名残惜しくもあるが、別れの時だな」
そう話す蕗乃ちゃんの顔には、一抹の寂しさが見て取れた。『ウェスティア』を語れる友達は初めてだと言っていたから、やっぱり楽しいときが終わるのは寂しいものなのだろうな。勿論僕の方も、結構楽しかったので、何となく寂しい。
「あ、そうだ蕗乃ちゃん。レインやってる?」
「魔の媒体の追加機能のことか? 一応、嗜んではいるが…」
「じゃ、ともだち追加していい? いつでも君と話したいからさ」
そう言って、ともだち追加用の画面を彼女に差し出すと、彼女は押し黙って、ぽかんとした顔を浮かべた。もしかすると、追加がいやだったのかも知れないな、と思って「あー、嫌だった?」と聞いてみると、彼女は我に返ったように首を横に振った。
「そうではない! そうではないが…演良よ、其方は魔性だな」
「え、魔性?」
「ますます惚れたという意味だ」
「そ、そう?」
「うむ。…よし、これでいつでも魔の媒体で、電信を交わせるわけだな」
「うん、レインでメッセージのやりとりができるね」
蕗乃ちゃんとレインの交換をして、僕は荷物を持って帰る支度をした。「戸締まりやらせねばならん」とのことで、蕗乃ちゃんより先に、部屋を出ることになった。
「ではな、演良! 此度の狂宴は実に愉快であったぞ」
「うん、僕も君みたいな素敵な女性と過ごせて楽しかったよ。それじゃあ、また明日」
「うむ、然らばだ! …また、明日。か」
蕗乃ちゃんは、別れの挨拶の後、少しなにか呟いていたが、小さな声で聞き取れなかった。笑顔ではあったから、不満とかでは無いと思うけれど、何か粗相をしてしまったかな。
それから、下駄箱に行くと、芽唯とエルヴィラが待っていた。僕は二人に、「待たせちゃった?」と聞くと、二人は首を横に振った。
「私も今来たとこだよ~」
「ええ、ぴったり同じ時間だったらしい。ところで、彩嗣は何をして時間を潰していたの?」
「あ、それ私も気になる」
「あー…隠れ城で、光の書について語り合う宴に参加していた、かな?」
「…ドーユー意味?」
「んー? 秘密、かな」
「あ、ずるい」
☆
エルヴィラの一件があってから、ランニングが日課になった。もしこの先、あのような事件があったときに、体力が無ければ話にならない。王子様として、友達を守るためにも、体力を付けることは急務だろう。
行ってきます、といって、トレーニングウェアで家を出る。父は仕事で留守にしているので、返事はない。とはいえ、父はあまり、行ってらっしゃいの言葉を言わない人だけれど。
「…今日は冷えるな」
いつものように、河川敷を走る。僕の住む棚市には、大きな河が二本ほど流れているけれど、中でも連流川は、河川敷が整備されていて、ランニングコースとして人気だ。加えて、夜の時間帯だとそこまで込み入っているわけではない。加えて、この季節には蛍が飛んでいるものだから、景観も良い。川の側で涼しいということもあって、ここはかなりお気に入りだ。
一定のペースで三十分ほど走っていると、どこかから叫び声のような音が聞こえた。川の流れる音ぐらいしかしない河川敷にはよく響いた。音のする方を見てみると、橋の下の暗がりに、何か大きな蠢くものが見えた。
怪訝に思って、そこに忍び足で近づく。いざというときのために携帯を取り出しながら歩いて行くと、どうやらなにか、大きな毛玉のようなものが蠢いているらしいことが分かった。それは、まるで象か何かのように大きかった。そして、足の方からぴちゃり、という音がしたので、地面に水たまりがあることに気づいた。
「うっ…」
すると、その暗がりから、男性のうめき声が聞こえた。既に、異常な事態に巻き込まれかけていることには気が付いている。スマホを懐中電灯モードにして、そちらの方に向けてみると、悍ましい光景が目に映った。
「グルルル…」
そこには、巨大な蝙蝠とも形容できるような、濃い茶色の体毛に覆われた巨大な生物と、その生物の足に押さえつけられている、血を流した男性が横たわっていた。そして、僕が水たまりだと思っていたものは、男性の血だった。
光に反応した怪物が、こちらに振り向いた。野生動物と目を合わせてはいけない、ということを以前聞いたことがあるので、目は合わせず、静かに様子を窺っていると、怪物は興味を失ったのか、男性の方に向き直った。
「あ…」
怪物に襲われている男性と目が合う。彼は、かろうじて意識を保っているらしく、口を開いた。けれど、意味のある言葉は発せないらしく、すこし音が漏れ出るに留まった。とはいえこの状況だ、彼が助けを求めていることは分かる。
「おい! こっちだ!」
「ガ?」
大声を出すと、思った通りに、怪物はこちらを向いた。その隙に駆けだして、とらわれた男性を救出することに成功した。
「大丈夫ですか?」
「う…」
男性はかなり重体らしく、僕が見ても、すぐに病院に運ばなければまずい状況だというのが分かる。けれど、今すぐに、というのは無理だろう。なぜなら、あの怪物が、怒り心頭といった様子でこちらを睨んでいるからだ。
「グオガアアアア!!!!」
怪物が、翼を広げる。そして、大きく口を開いて、こちらに突進してくる。まずい、と思って全力で右に跳ぶと、怪物はすぐ側を凄まじい勢いで通過した。
「あっぶな…!」
「ガアアアア!!!」
怪物は、僕を見てうなりを上げている。どうやら、標的を完全に僕に変えたらしい。それは不幸中の幸いではあるけれど、この状況をどうやって切り抜けようか。如何せん、僕には攻撃力がない。エルヴィラや、芽唯がこの場にいれば力を借りることもできたけれど、そうもいかない。
「うーん、どうしたものかな…あれ、光ってる?」
思案していると、怪物が空に飛び、大きく口を開いた。そして、その口の奥が光り始めた。ばちばち、という音が聞こえ、嫌な予感がして飛び退くと、轟音と共に、雷が怪物の口から飛び出た。
「なっ…」
息つく暇も無く、怪物は再び口を開く。これは、完全にまずい状況だ。どうにも、切り抜けられそうにない。そう思った瞬間、「待て!」と叫ぶ女性の声が聞こえてきた。その女性は、僕と怪物の間に割って入り、怪物の雷撃を真っ正面から浴びた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「エージェント・F2、着到。…怪我はないか…え?」
「…蕗乃、ちゃん?」
狐の耳と、大きな尾を生やした、スーツ姿の少女が、僕の前に立っていた。先ほどの攻撃があたっているにもかかわらず、彼女は無傷で、そして僕に振り返った。サングラスをかけた、金髪の少女。その少女は、間違いなく蕗乃ちゃんだった。
「…話は後だ。ひとまず、あそこにいる闇の眷属を仕留める。…演良よ、そこを動くなよ?」
蕗乃ちゃんは、右手を怪物に向けて翳した。すると次の瞬間、怪物が金切り声を上げて苦しみだし、翼をはためかすのをやめて落下した。ずどん、という大きな音が鳴って、怪物は地面に激突し、びくびくと痙攣している。
「…貴様も、哀れな奴よ。せめて、余の手で輪廻を巡らしてやる。次は、闇の手先になどならぬ事だ」
蕗乃ちゃんが、倒れた怪物に近づく。そして彼女が、怪物を殴ると、怪物はうなり声を上げて、蒸発するようにもやとなって、空に昇っていった。
「…魔学徒どもめ。…して、演良よ。大事ないか?」
「あ、うん、ありがとう。僕は怪我はないんだけど、そこの人が…あれ?」
怪我をした人の方を指さして彼女に伝えようとすると、そこには人の姿はなかった。そして、橋の下から続いていた血痕も、さっぱり消えていた。
「アレに襲われていた人がいたんだけど…」
「ふむ…なるほど、演良其方謀られたな。あれら闇の眷属は、畜生ながらに狡猾でな。時に、人を食らう幻影で騙すのだ。多くは、その光景に恐れ慄くのだが、逆に助けに向かうとはな。流石は演良、いや王子様よ」
「そうなんだ…」
「だがな、演良よ」
脱力して座り込んでいる僕の前に蕗乃ちゃんが来て、かがんで話し始めた。どこか怒っているようでいて、ほんの少し、悲しんでいるように見えた。
「無謀が過ぎる。はっきり言って、此度の行いは蛮勇だ。結果的に余が来たから其方は助かったが、仮にそれが遅れるか、あの眷属がもう少し強ければ、其方はとうに死んでいただろう」
「いや、僕は…」
「よいか。確かに其方は王子様を標榜するに足る資質は持っておるのだろう。だが、それは精神の話だ。他者を助けるために死ぬな。助けるのであれば、助けるに足る力を持ってからにしろ」
「…そう、だね」
彼女の言うことはもっともだ。確かに、僕は再生する力を持っているとはいえ、超人的な攻撃力を持っているわけでなく、人間離れした膂力を持ち合わせているわけでもない。今日の僕は、無謀なだけだった。僕は、無力だ。
「まあ、そんなことを言ってはみたが、斯様な怪物に立ち向かう姿は、格好良かったぞ」
「そっか、ありがとう。でも、蕗乃ちゃんの姿も格好良かったよ」
「か、かっこ…」
僕が褒めると、蕗乃ちゃんは固まってしまった。やっぱり、彼女は褒められ慣れていないのかな。まあ、女の子が恥ずかしがってる姿は、見ていて不快ではないから、嬉しくもあるけれど。
十秒ぐらい経って、蕗乃ちゃんはもう一度口を開いた。
「…そうか、余は格好良かったか!」
「うん、もちろん」
「そうか。…最後に、それを聞けて良かったぞ、演良」
「え、最後…って、どう、いう…」
蕗乃ちゃんは、僕の顔の前に手を翳した。綺麗な手だな、と思った瞬間、急に意識が薄れていって、眠りそうになってしまった。そしてそのまま微睡みの中で、彼女の言葉を聞きながら、僕は意識を手放した。
「…すまぬな、余の戦いに其方は巻き込めないのだ。…其方との宴は楽しかったぞ」