可愛い子と王子様
彩嗣演良は、泣き虫だ。子供の頃、両親が見えなくなったり、姉が姿を見せなくなると、すぐにわんわん泣いて手がつけられない─そんな子供だった。母と姉が彼の前からいなくなったその日も、彼はたくさん泣いていた。そうしてたくさん泣いた後、彼の性格は変わったのだった。
きっかけはなんだったのか、彩嗣演良はほとんど覚えていない。ただ、二つだけ覚えていることがある。彼が目指したのは、物語に出てくるような王子様であるということ。
もう一つは、“王子様”になるということは──誰かとの、約束であったことである。それが誰かは、今となっては分からない。
☆
きんこんかんこん、と音が鳴る。つまり、昼休みが始まったと言う合図だ。
「…つまり、こうしたいつ使うのかわからない知識も、我々の生活には必須であるということだ。ふむ、もうこんな時間か。少々遅延したな、礼─は無しでいいが、諸君、食べすぎて腹を壊すことのないように。あれは苦しいからな。では」
都杜先生が、教材を持って教室を出る。真面目であると言う点もそうだけれど、時々冗談を言うユニークなところには非常に好感が持てる。
「いやー、金曜の午前なんか短く感じん? 一瞬やったわ。まぁ寝てたからやけど」
「寝てたからじゃないかな」
「いやー、授業って暇やん?」
「都杜先生の麗しい声を聞いていたら眠くはならなくないけどなぁ」
「えぇ…」
からからと笑いながら、泉充が話しかけてくる。彼のジョークのセンスは抜群だが、もう少しだけ勉学に励むとなお良いと思う。数言、愉快な世間話を交わしていると、隣で何やらがたがたと音が─なんの音かはもう分かっているが─したのでそちらに目を向けてみると、案の定芽唯─世界一可愛い女の子─が数段重なった重箱を、可愛らしく取り出している所だった。彼女にとっての弁当がそれなのだが、弁当というにはあまりにも大きい。
「今日もぎょうさん食うなぁ瑪奈川ちゃん」
「んー、まぁ食べるの好きだしねえ」
「芽唯は楽しそうに食事をするから、その可愛らしい姿を長く見れるのは僕としても助かるね」
「もー、調子のいいことばっか言って〜」
にこり、と笑う芽唯。少し空気が軽くなるような、柔らかな笑顔だといつも思う。
「いただきます」
いつものように、空き教室で3人で昼食を食べる。例えば、不清潔なレストランで食事をするとなると、美味しく感じないだろう。食事をするとき、そのシチュエーションは重要であると言える。その点、今の環境は非常に良い。
「芽唯と一緒に食べるご飯は、いつもの倍美味しく感じるね」
「そんなこと言っても、唐揚げくらいしか出ないよ〜?」
「はは、ありがとう」
愛唯が、唐揚げを箸でつまんで、僕の前に差し出す。そして、その唐揚げをそのまま食べる。俗に言う、「あーん」と言うやつなのだが、やっぱり芽唯に食べさせてもらうと何倍も美味しく感じる。
「ほんまお熱いなぁ。…あかん、なんかほうれん草が甘く感じてくるわ。しかし、いっつも思うけど、彩嗣の言動って独特やんな」
「僕は、王子様を目指しているからね。王子様は人を褒めることは欠かさないものだろ?」
「何言っとんこいつ」
「ちっさい頃から言ってたよね〜」
にこやかに食事をしていると、扉が開いて、委員長─大丸さんがやってきた。大丸さんは、極めて理知的で素晴らしい女性だと思う。
「…瑪奈川さん、いつも思うのですが、その量の栄養はどこに…? 」
確かに、と呟くと、愛唯もその通り、と言って首を傾げた。
「あなたは当人でしょう?」
「あっはっは、小丸ちゃんもこんだけ食うたら背でかなるんちゃう?」
「…小太刀さん、私の名前は大丸槇葉だと何度も言ってるでしょう…!」
「いや、まぁそやけど、大丸って言うよりかは…なぁ、彩嗣?」
いつものように、大丸さんを揶揄う泉充。先ほど、彼は僕と愛唯を熱いと評したが、正直彼らの関係も十分に熱いと思う。
「いや、大丸さんの志はかなり大きいし、立派な人物という点では大丸というのは体を表しているよ。それに極めて理知的だ。…泉充、確かに素直になれない気持ちというのは分か…らないけれど、からかいと言う形で接するのはあまり良くないんじゃないかな」
「いや、素直じゃないことないけど」
泉充は目を逸らす。関係性が悪化するのは彼にとって好ましくないだろうから、むすっとしている大丸さんに少しだけ声をかけてみる。
「…大丸さんも、あんまり気を悪くしないで。泉充も、本心では大丸さんを尊敬しているけれど、彼は恥ずかしがり屋だからそれを表に出せないだけだから。ほら、大丸さんと一緒に学級委員長してるだろう?」
「は、はぁ…」
「─ちょ、彩嗣おまえ」
「な、泉充?」
「…まぁ、そーゆーことでええわ、もう」
「あはは、ぶっちゃけすぎでしょあくくん」
顔を赤くする泉充、きょとんとしている大丸さん、笑っている芽唯。こんな退屈なほどに平和で、笑みが止まらないくらい楽しい日常が、終わらなければいいのになぁと、煌々と輝く太陽を見ながら思った。
「あと10分ほどで四限ですね。私は教室に戻りますが、みなさんも遅刻しないようにお願いしますね」
「あー、俺も大丸ちゃんといっしょに戻ろかな」
「僕は芽唯がデザートを食べてからにするよ、それに…泉充も二人だと素直になれるだろうし」
「うっさ」
予鈴が鳴って、大丸さんと泉充が教室に戻る。芽唯は、食べる速度は結構早いけれど、量が量なので割と長い時間食べていたりする。今日は、けっこう話し込んでしまったから、と言うのもあるのだけれど。
芽唯は、甘いものがけっこう好きなので、いつもお弁当にデザートを準備してもらっている。今日は果物らしい。
「んー、りんご美味しい」
りんごを食べて口角を上げている芽唯は相変わらず可愛い。
「ごちそーさまでしたぁ。それじゃ、戻ろっか」
「あ、ちょっと待って芽唯」
「どしたの?」
首を傾げた芽唯に、準備していたものを見せる。心臓の鼓動がどんどん早まっていくのを感じる。王子様としては、あまり緊張するのは好ましくないけれど、一人の女性を誘うというのは、やっぱりどきどきする。
「ユスタのペアチケット?」
─ユスタ、ユーバースター・スターパークとは、この国でも随一の人気を誇るテーマパークで、有名な映画をもとにしたアトラクションや奇抜な発想の絶叫コースターで有名だ。
「うん。…その、まぁ、抽選で当たってさ。…一緒に、行かない?」
「うん、行く!」
「…っし」
芽唯は、飛び跳ねて喜んでいるようだ。張り詰めていた緊張が、一気に解かれて、肩がストンと落ちる。そんな僕のことを、芽唯は不思議そうに見ている。
「どしたの?」
「─良かったぁ。断られたらどうしようかと…」
「えー、断るわけないじゃん」
「いや、まぁそうだけどさ。やっぱり、可愛い女の子を誘うのは緊張するからさ」
「“王子様”でも?」
「“王子様”でもね」
昼休みは、笑い声と共に終わっていく。
☆
休日、ユスタの最寄駅は有り得ないほど混雑している。電車の中ですら、身動きが取れない程に─あるいは、何を掴まなくとも姿勢を保っていられる程に人がいるというのに、その人数が一斉に出口を目指して階段に殺到するのだから、もうとんでもないことになる。夥しい数の人が、ひとつの場所を目指して蠢く様は、まるで一つの巨大生物のようだと思う。
「うわぁ、やっぱ滅茶苦茶混んでるね」
「そうだね、まあ休日だからなぁ。ま、それぐらい楽しいってことだろうね」
「だよねぇ〜…わっ」
「大丈夫? 芽唯」
人にぶつかってよろけたところを、あくくんが抱きかかえてくれる。ちょっと大袈裟だけど、こういうところはかっこいいと思う。
「チッ」
私にぶつかった人は、舌打ちをして、私をジロリと睨むと人混みの中に消えてしまった。どこか気味の悪い目だった。
「…怪我とかしてない?」
「うん、大丈夫。今日は動きやすい格好で来たしね」
私は、手を広げて今日の服を見せる。あくくんは、「可愛い服装だね」と、笑顔で褒めてくれる。今日出会った時も言われたし、その後も何度か、事細かに褒めてくれるから、その度に私は顔を赤くしているし、あくくんの方も、私を褒めた後照れくさそうに笑う。─王子様を目指しているけれど、私にとってあくくんは、もう既に、かっこよくてとても素敵な、王子様だ。
「じゃあ行こっか、芽唯」
「うん!」
─この日は、あくくんと私の、運命が大きく変わる一日になるのだけれど、私たちはまだ知らない。
「んー、結構並ぶね」
「110分待ちかぁ…まあ、その間芽唯と話せるから嬉しいけどね」
「ふふ、そうだね」
私たちが並んだのは、このテーマパークでも一番人気のアトラクション、“モンスタージャンパー”と言うジェットコースターだ。非常にスピードが速い上に、レールの下をコースターが通るという唯一無二の特徴から、ユスタでも最強の絶叫系なんて呼ばれている。
待っている間、何度も私たちの頭上をコースターが走り抜けていく。その度に、乗っている人の叫び声が、コースターの動く爆音に負けじと聞こえてくるので、緊張と、わくわく感が少しずつ高まっていく。
「うわぁ、すごいねぇ」
「うん… なんか、怖くなってきたかも知れない」
「あれ、あくくんって絶叫苦手だったっけ?」
「いや、苦手じゃないんだけど… さすがに、悲鳴とか聞いたらさ」
あくくんが、苦笑いしながら話す。怖がっているあくくんは、新鮮で可愛く思える。いつも、私のことを可愛いと言っているあくくんだけれど、私にとってはあくくんも結構可愛い。
話し込んでいる内に、とうとう私達が乗る番が近づいてきた。
「結構待ったね」
「うん…ちょっと、これは、怖いな」
「私は楽しみだなぁ」
「…芽唯は凄いなぁ」
コースターに乗ると、しっかりとした安全バーが下がる。椅子は少し冷たい。隣に座っているあくくんを見ると、バーをぎゅっと握っている。
「それではー、行ってらっしゃーい!」
係員さんの掛け声と共に、がたん、とコースターが動き始める。コースターはゆっくりと、上り坂を登り始める。絶叫が好きな私としては、この時間も、けっこう好きだ。
コースターは頂上に辿り着く。一瞬だけ静止して、次の瞬間には、恐ろしい速さで降っていく!
「きゃああああ!」
「うわあああ!」
とてつもない遠心力がかかったかと思えば、浮遊感で身体が安全バーに押し付けられる。かと思えば、上下が入れ替わっていたり──とにかく忙しなくて、とても楽しい。チラリと横を見ると、あくくんはとにかく叫んでいた。
「…あのコースターは楽しいけど二回目は乗りたくないな」
「えー、私は何回でも乗れるけどなぁ」
「芽唯は可愛いだけじゃなくて頼もしいなあ。…まあもちろん、芽唯が乗りたいなら、僕も何回でも乗れるけどね」
「じゃあ今から行く?」
「えっ」
あからさまに強がっていたあくくんは、目を見開いて、ぶつぶつと何やら呟いている。眺めているのも楽しそうだけれど、流石に可哀想なので、冗談だと伝えると、ほっとした表情をした。
「芽唯はお茶目だね」
「次はもうちょっと落ち着いたのに乗ろっか」
「うん、そうしてくれるとかなり助かるかな。なんかさっきから、ちょっと膝に力が入らないからね」
「あはは、あくくんかわいー」
「…王子様は可愛いものじゃないけどね」
あくくんは、決まりの悪い顔でふいっと横を見る。こうしたところを見ると、やっぱりあくくんは結構素直だなと思う。
地図を見ると、ちょうど私たちの近くに、魔法映画「シノビウィザード」のエリアがあることが分かったので、そちらに向かおうと勧めると、あくくんも快く頷いた。
「あくくんはこの映画って見たことある?」
「いや、聞いたことしかないんだよね。一応、主人公とかぐらいは知ってるけど。芽唯は?」
「私もあんま見たことないんだよね。なんか、忍者で魔法使いっていうとっ散らかった設定なんだよね」
「らしいね…あ、そういえば、あそこの城、あれ原作者の人が自費で建設したらしいよ」
「へえ~」
このエリアは、映画の再現フードがいくつかある。実は、ユスタにくると聞いてから、ずっと食べたかったものが一つあった。
「ねえあくくん、アレ食べたい」
「あれ? あぁ、“たつまきチュロス”。美味しいらしいよね」
映画に出てきた、バネのように渦を巻いたチュロス。とても美味しいと評判で、いつか食べてみたいと思っていた。
売店はそれなりに並んでいたけれど、回転率が高いのか、そこまで時間はかからなかった。
「いらっしゃいませ! ご注文はお決まりでしょうか?」
店員さんの格好は、和服のようなローブにとんがり帽子と、特徴的だ。これも映画の再現なのだろうか。
「芽唯は何個食べる?」
「んー… 10個かな」
「じゃあ11個お願いします」
「はい、11個ですね。6270円になります」
私が財布を出そうとすると、既にあくくんがお金を支払っていた。
「あ、食べ終わったら私の分出すね」
「いや、別に良いよ?」
「え、でも…」
「芽唯が喜んでくれるなら、別にお金なんてどうでも良─くはないけど、そんなに大事ではないし」
…こういうところなんだよなぁ。ほんとうに。
「じゃあ、いただきます」
「いただきまーす… わ、美味しい! さっくさくじゃん!」
「ほんとうだ、かなり美味しい」
一口食べてみると、一気に甘味が口全体に広がる。サクサクとした食感ながら、内側の方はほくほくとしていて、噛むたびにじゅわりと甘味が広がっていく。あまりに美味しくて、一息に4個ほど食べてしまった。もう少しゆっくり味わうつもりだったのだけれど。
「美味しー」
「あれ、芽唯。頬についてるよ?」
「え、どこ?」
「ちょっと待って…ん」
あくくんが、私の頬に、触れた。その事がわかった瞬間、顔が熱くなっていくのが分かった。それも、ほとんど一瞬で。
こういうことには、いまだに慣れない。それに、頬に近づいた時の、あくくんの顔。あんなに近くで、あんなに真剣な表情。鼓動が早まっているのが、自分でもわかる。
「取れたよ」
「…ありがと」
あくくんの顔を見ることができない。やっぱり、恥ずかしい。
食べ終わって、お互い無言のままで、歩き始める。少しだけど、どきどきが収まってきたので、横目にちらりとあくくんの顔を見る。心なしか、少し赤くなっているような気がした。
気がつくと、夕陽が沈みかけ、橙色の空が、少しずつ青色に変わっていっていた。私達のすぐ近くにある、大きな池も、そんな空模様を水面に映し出していた。
「綺麗…」
「うん…それに、こんな綺麗な景色だと、芽唯はいつも以上に可愛く見えるよ」
「…そーゆーとこだよ、あくくん?」
あくくんと、目が合う。綺麗な、目だなと思った。宝石のように光り輝く、瞳。この瞳を独占しているのは私なんだ─そう思うと、どこか心地よかった。
「ねぇ、あくくん─」
「“大発破”ァ」
びりびりと、衝撃が身体を突き刺す。そう感じるや否や、轟音が鳴り響き─巨大な塊が、私の方に倒れてきた。
「芽唯!」
あくくんが、私に覆い被さろうとする姿。それが、視界が真っ暗になる直前に見えた最後の景色だった。
1分程だったろうか。煙が晴れた。ようやく、爆発か何かで、近くにあった建物が倒壊したとだと分かった。そして、あくくんが庇ってくれたから、私はほとんど何ともないのだということも。
「あくくん…?」
私の隣で、あくくんは転んでいる。どうしたのだろうと、顔を見る。何となく、嫌な予感がするのを振り払って、肩を揺する。反応はない。声をかける。反応はない。口の前に、手を置いてみる。呼吸をしている気配はない。胸に手を置いてみる。心臓の脈動は、感じられない。手首を握る。脈はない。顔を、見る。生きている、気配がない。
「ねぇ、冗談だよね…? 私、そんな冗談は、よくないと思うな。それに、そんなの、王子様らしくないよ…? ねえ、答えてよ、あくくん」
あくくんは、答えない。まるで蝋人形のように、静かだ。ただ流れる血だけが、動いている。
死んじゃった。あくくんが、死んじゃった。
「んー、まだ生きてるやつがいんな。男の方は死んでるから…あー、なるほどなぁ。泣かせる愛情じゃないか」
薄ら笑いを浮かべた男が近づいてきた。すぐに理解した。この男が─私から、あくくんを奪った、敵。
「─“メタリックメイド”。お前は、絶対に許さない」
「ッ! てめぇも、能力者か!」
私は、“プレゼント”を発動した。目の前の敵を、斃すために。