第1-2話 アルバム②
藍色の表紙の厚手のアルバムを開く。そこには幼稚園に入園した頃の写真が収められていた。
「ほら、真綾ちゃんよ。ちゃんと挨拶しなさい」
入園式の日、私を連れた母が、母親に連れられてこちらの方へ歩いてくる真綾を見て言った。そういう名前の子が近所に住んでいるということはなんとなく知っていたが、どういう対応をしたら良いのかがわからなかった私は、挨拶を交わす母親らの横でそのまま一言も発することなくすれ違う。仏頂面で母親に連れられた彼女も、同様になにも言葉を発することなく通り過ぎる。おそらくは、お互いに同じような小言をそれぞれの母親から言われたことだろう。私はふと後ろを振り返る。控えめにこちらに向かって手を振る彼女の姿が目に入った。
アルバムのページを捲る。入園式から少し後の、なにをしているのか誰が撮ったものかもよくわからない園での日常風景が収められている。
「ねぇねぇ、『トゥインクル☆ナイト』ごっこしよ! あたしトパーズナイトね! あんたは?」
一人で絵本を読んでいた私に真綾が声をかけてきた。『トゥインクル☆ナイト』とは、当時流行していた女児向けアニメであり、主人公を中心として女子高生らがそれぞれ宝石を模した騎士となって悪の組織と戦うという内容で、これが当時の女児たちの間で大ブームとなっていた。
女児向けアニメではあるが、幼い頃からアニメオタクの片鱗を覗かせていた私も毎週欠かすことなく視聴していた。
「じゃあ……ターコイズナイトで」
トパーズ役は花形で当時の女児たちには一番人気の役どころだった。一方、ターコイズ役は当時の女児たちにはあまり人気がなかったようだが、なぜか私は当時そのキャラクターを好んでいた。
「あんた変わってるわね……ターコイズって。ま、いいわ! 今日も地球の平和を守りにいくわよ!」
真綾は手にした木の棒をトパーズナイトの持つロッドに見立てて決めポーズをした後、私の腕を引っ張って駆け出した。
次のページを見ると、小学校の入学式の写真がそこにあった。
「よし、そんじゃあ今日は秘密基地寄ってこうぜ!」
一人の男子生徒が提案する。それに何人かの生徒が同調して走り出す。そこには私と真綾を含む6人ほどのグループがあった。皆、帰る方向は同じだが、かと言って毎日一緒に帰るような間柄でもない。たまたま帰るタイミングが合えば一緒に帰る程度の仲。それでも、時折こうやって大規模な道草を食って帰ることがあった。
学校の西側、私たちの帰路からは明らかに遠回りになる位置にその秘密基地はあった。
それは、今では使われているのかどうかわからない河川の監視塔だった。法面からせり出すようにして伸びた通路の先に、なにかの計測器が置かれた小屋がある。その小屋は鍵がかかっていて入ることは出来なかったが、見慣れぬ人工物は小学一年生の心をわし掴みするのに十分だった。
秘密基地とは言っても、特になにをするわけでもなく、小屋の周りの柵で囲われたスペースで駄べり合うだけ。秘密基地らしいことといえば、あたりの雑木林から持ってきた枝葉でその柵を飾りつけるくらいのものだった。もちろん、その飾り付けもその小屋の管理者からすれば子どものイタズラに過ぎず、次に寄り道をする頃には跡形もなく撤去されているのだが。
「ねぇ翠、見て見て! 『トパーズ・ティアラ・チャクラム』!」
真綾は声をかけて来るや否や、草木を編んでリース状にしたものを持って決めポーズをする。彼女が叫んだ不可思議な呪文は、『トゥインクル☆ナイト』の主人公の必殺技だ。
さすがにこの頃にはアニメも終了しており、私も真綾もかつてほどの熱量はなかったが、こういうおふざけを見せる相手としては私がちょうど良かったのだろう。
「え、それ真綾が作ったの? すご!」
私が素直に感動してみせると、真綾は得意気な表情をする。
「へへーん。ほら、あんたの分も作ったからね。ターコイズ担当でしょ」
そう言って真綾はもう一つのリースを私に手渡した。
「わぁ、かっこいい! ありがとう!」
私は純粋にそれが嬉しくて、玩具を買ってもらったときのように喜ぶ。
そういえば、今日の空はこの日見た青空に似ている気がする。
さらにアルバムを数ページ捲る。小学二年生のときのグループ学習かなにかの写真が目に留まる。
「なぁ、お前誰が好きなんだよ」
ある日の昼休み、近くの席にいた田辺というクラスメイトと雑談をしていたところ、唐突にそんな話題を振ってきた。当時から人を好きという感覚がよくわからなかった私は、「特に誰も」という以外の回答を思いつかなかった。
「んだよ、つまんね」
「そういうお前はどうなんだよ」
「は、はぁ? い、いいだろ俺のことは!」
私が逆に聞き返すと、そのクラスメイトは照れ隠しをするように言う。私がなおも食い下がると、彼は自分の意中の存在について白状し始める。今思うと、この話題を振ってきた時点で彼は誰かに心のうちを打ち明けたかったのかもしれない。素直に話すのが恥ずかしかったとか、感情の整理がつかなかったとかで回りくどい話し方になったのだろう。
「いいか? 絶対誰にも言うなよ! 実は……」
彼はそう言って私に耳打ちする。小学生の「誰にも言うな」ほど守られない約束もないが、当時の私は真面目に他言を控えていた。
「えっ? 真綾?」
「馬鹿! 声抑えろって!」
そのとき私は初めて真綾がモテることを認識した。いや、実のところそれを聞いてもなおしばらくはピンと来なかった。私自身、真綾のことはあまり異性として捉えていなかったし、おそらく彼女も同様に考えていると思っていたからだ。
「ふーん……真綾がねぇ……」
パラパラとページを捲り最後のページまで到達する。私はそのアルバムをしまい、隣りにあったアルバムを開いて見る。最初のページにあったのは中学の入学式の写真だ。
「よぉ翠、お前よりによってその性悪女の隣かよ。ははは、マジでドンマイだな」
何回目かの席替えで、私と真綾は隣の席になった。
後ろの席の同級生が真綾にも聞こえるように言う。当然真綾はそれに対して怒りを示す。
「はぁ!? なにあんたウッザ! あたしだって、あんたの近くとかマジ無理だから」
「んだと、このクソ女!」
中学に上がり、男女ともに思春期を迎えると、真綾は学年でもトップクラスにモテるようになった。同学年だけでなく、上級生から好意を示されることも珍しくなかった。しかし、そのほとんどは門前払いで、中には交際へ至ったケースもあったようだが、どれも数日で破綻していたようだった。そんなことを繰り返していたからか、生来の気の強さからか、やがて“ルックスは良いがそれを帳消しにして余りある性悪”という評価が出回るようになった。一度そういった評価が浸透してしまうと、そのキャラクター像による先入観を取っ払って本質を評価するのは中学生には難しい。席替えの直後、いの一番に彼女を煽った同級生も、軽い気持ちのコミュニケーションのつもりだったのかもしれない。
それから数日後。
「あーもう、わかんない! なんでこれがこうなるの?」
ある日、数学の問題が理解できず、問題に対してか、それを解けない自分自身に対してか憤りの声を上げる真綾。これは彼女なりに私に教えを請っているのだろうか。クラス中から「隣の席のお前が面倒見て早くそいつを黙らせろ」と無言の圧力を受けている気がしたので、その空気に耐え切れず私は口を出す。
「あのさ、これはここでこれをかけてやって……」
「……!︎ なんで? っていうかそのやり方なに?」
「えっ、そこ? それもう二つ前の単元でやったやつなんだけど……」
「げ、マジ? あたしそんなの聞いてないし!」
「…………」
「…………」
「はぁ……わかったよ。ほら教科書戻って、20ページくらい」
「え! そんな戻んの!?」
それから一年後、真綾とクラスが離れたことで、彼女とはめっきり会話をすることもなくなっていた。もともと特別仲が良かったという訳でもないため、残当といえば残当である。それよりも私が心を砕いているものは別にあった。
「お前、調子に乗ってんじゃねぇぞ……!」
ガラの悪い同級生の一人が私に詰め寄る。ここ数ヶ月、目の前の彼だけではなく複数の同級生らから同じように詰め寄られたり、明らかに自分の陰口を叩かれていたりということが頻繁に続いていた。
私としては、自身の行動のなにが彼らの不興を買ったのか身に覚えがなかった。そのことを相手に問いかけてみても、同じ言葉が語気を強めて返ってくるだけだった。
暴力を受けたり物を壊されたりということはなかったが、複数の同級生達から明らかな敵意を感じる状態というのは、とてもではないが居心地の良いものではない。彼らがそこに至った原因に検討がつかないこともさることながら、厄介なのは誰が私に敵意を持っていて誰が持っていないのかがわからないことだった。目の前の彼のように直接敵意を表してくる者については、こちらからも敢えて関わりを持たなければ良い。だが、そうではない者が実は自分に敵意を持っているというパターンは、なまじこちらがまともに対話を図ろうとしているだけに、それが判明した際のショックも大きい。
そのような環境の中、私は自身の心を守るため、半ば無意識的に二つの対応を取るようになった。
一つは、相手の些細な所作や表情の機微を注視し、その者が自分に敵意を抱いているのかそうでないかを判別すること。もう一つは、そもそも相手との距離を置くようにすること。
そうしているうち、私には友達と呼べる関係の人間が日に日にいなくなってゆくのを感じた。
休み時間は一人で過ごし、会話は必要に迫られた際に最低限話す程度。体育の授業や学内イベントでは無駄にヘイトを買わないように、目立たないポジションや裏方作業を率先する。
やがて私は居ないものとして扱われるようになり、クラスの輪から完全に孤立した。それでも、直接的に恫喝を受けることも掌返しに翻弄されることも少なくなったため、精神衛生上はいくらかマシではあった。
───────やめよう。
私はそう心の中で呟いてアルバムを閉じる。七海に会ったことで柄にもなく昔の写真を見返してしまったが、中学時代はいつ思い返しても胸糞が悪い。今は白中ルナとしてはもちろん、柊野翠としても大きな不満のない生活を送ることが出来ている。わざわざ嫌な記憶を掘り起こして心を乱すこともない。私はアルバムをキャビネットにしまい込んで部屋を後にした。




