信
「なんで……?」
不思議なくらいに落ち着いた彼女の声が、誰もいない放課後の教室にこだました。
何度も、何度も。
俺はこうすることしかできなかったのだろうか。
自分の欲望を、抑えることはできなかったのだろうか。
「どうして……?」
――これ以上ないくらいのことが起こると、人間は冷静になるんだろうか
「どうしてッ!?」
そして、声を荒げた。
彼女の声は、ながく響いた。
「昇が悪いんじゃないじゃない!悪いのは、あいつじゃない!なんで、なんでッ!?どうして!?」
ヒステリックなまでに何度も、何度も叫ぶ。
彼女は、非常に頭がいい。
分かるはずだ。
分かってくれるはずだと、そう信じて、伝えに、来た。
「悪いのは、俺だ。お前なら分かるだろ?」
「違う!悪いのはあの男だよ!?何も間違ったことなんてしてない!」
「澪」
目を見つめた。
「いやだ、いやだ!どうして!!先に手を出したのはあの教師なんだよ!昇は正当防衛をしたんだよ!?何が悪いの!なんでなのっ!!!」
俺を揺さぶり、体全体で気持ちを表現してくる彼女。
愛おしく、狂わしいほど好きな彼女。
「そもそも、あたしが悪いんだ……あたしが、あたしがッ……!」
俺はなんて残酷なことをしたのだろうか。
もう、泣き崩れていた。
何も言葉をかけることができなかった。
「俺は間違ったことをしたつもりはない。澪が悪いわけでもない。でも、世の中そんなに都合よくいかないみたいなんだ」
うまく笑えてただろうか。
たとえうまく笑えてたところで、澪は見ていなかった。
彼女はもう視点が定まらないほど、動揺していた。
「あたしの……せいだ。あたしが反抗したから…」
自分のしたことに後悔の念を抱いている。
高校生が先生に対して反抗することなど、後悔することでもない。
「だからお前が悪いんじゃないって」
「あたしのせいだよ!」
どこかを見ていた目が、俺を見据えた。
涙に埋もれた大きな目は、真っ赤に染まっていた。
「大体、俺が事情把握せずにいきなり殴ったからいけないんだ。頭のいいお前なら分かるだろ?」
「でも退学って……ないよっ」
俺は澪の髪を引っ張っていた教師を全力でぶん殴った。
後悔はしていない。
反省はしている。
ただ、許せなかった。
退学というのも、教師の頬の骨を折ってしまったくらいだから仕方ないだろう。
「嫌だよ……いやだよぉ……」
彼女は俺に寄りかかり、顔をうずめて泣いていた。
誰もいない教室で、このまま時が止まってしまえばいいと思った。
二人で、逃げてしまいたかった。
退学という処分をわざわざ伝えにくる必要はなかった。
こうなるかもしれないと分かってたのに、メールで済ませようと思っていたのに、
どうしても最後に会いたかった。
大げさかもしれないが、同じ制服を着て、同じ学校に登校するということは大きな意味がある。
彼女と同じ高校を卒業したかった。
わずかな残りの、同じ時間を歩みたかった。
残り、3ヶ月で卒業だった。
澪とは高校1年生のとき初めて出会った。
大きな目で、セミロングの髪。
ほっぺはまさにマシュマロのようで……
一目惚れにちかかった。
大切な彼女をずっと守りたいと思った。
誰にも触れさせないと思った。
絶対に。
「ごめんな。言わないほうがよかったよな」
反応はない。
「ごめんな」
もう何も伝えられなかった。
俺はまだ泣きじゃくる彼女を離し、そっと言った。
「さよならだ」
涙の味のする唇をさらい、俺は教室に背を向けた。
二度と来ることのない教室に。
「ま、まって……」
「ついてくるな」
俺は残酷だった。
彼女の足音が途切れた。
「別れよう、決別だ。ついてくるな、追いかけてくるな、メールも、電話もなしだ」
「え……?」
別れの言葉を言われるとは思ってなかったのだろう。
「ちょっと、何いって……」「ついてくるなッ!!」
後ろを振り返らず、足音を一瞥する。
荒れた心を落ち着かせる。
突然のことに唖然としているんではないか。
背中越しに伝わってくる彼女の表情。
それくらい好きだった。いや、好きなんだ。
言葉で、音で、空気を伝って、彼女のことがわかる。それくらい。
「元気でな」
教室を出て、歩く。
追いかけてこない。
今頃きっと、頭の中が混乱しているのだろう。
何がなんだか分からないんだろう。
困った顔の澪を想像し、普段見ない可愛さを見つけた。
好きだ。
今も、多分これからも。
しかし、俺がいなかったら残りの3ヶ月間を必ず無に過ごしてしまう。
ずっと上の空で過ごしてしまうだろう。
今は辛いかもしれないが、こうして別れたほうが彼女のためになる。
頭で分かってても、頬を流れる雫は嘘をついていなかった。
もし澪が追いかけてきて、見られたらいやだったので急ぎ足で歩いた。
学校の校門を出た頃に、たった一人を除いて誰もいない学校から、音が聞こえてきた。
あわただしい音の中に、俺の名前が聞こえた気がした。
その音を聞きながら、止まりそうになる足を必死に動かしながら、帰っていった。
送るなと言ったがやはりメールはきた。
電話も、家にまでかかってきた。
直接たずねてくることはさすがになかったが、全部無視し続けるのも辛かった。
しかし、その回数は日に日に減っていった。
これでよかったと思えた。
新しい恋でも見つけたんだろうと思えた。
けれど、正直にその恋を応援することはできなかった。
そして、3ヶ月が流れた。
あっという間だった。
澪は無事に卒業できただろうか。
もう彼氏でもない俺が気にすることはないのかもしれない。
午前11時55分。
校門に、立っていた。
何気なく登校していた通学路には、桜の花が咲いていた。
桜も入学式に咲くというイメージから、地球温暖化のせいで卒業式に咲くという感じになってきている。
哀しい桜が俺を見つめていた。
同時に、彼女がそこにいた。
「元気?」
自然に出た言葉は、再開の第一声とは思えなかった。
「うん」
表情は変わらない。
もうみんなは卒業式の打ち上げにいっているのだろう。
周りには誰もいなかった。
「彼氏できた?」
「うん」
分かりきっていたことだが、やはり少しだけ残念だった。辛かった。
どうも表情に出ていたようだ。
俺の顔を見てなのか、笑いはじめた澪。
「笑うなよ」
「あはは。ま、彼氏なんていないよ」
「え?」
自分でも間抜けな声を出したと思った。
そして、久しぶりに見る綺麗な笑顔に見蕩れていた。
「あたしが、好きなのは、」
言葉を区切り、はっきりと言った。
「昇」
そして、抱きついてきた。
「俺あんなに冷たくしたのに?彼氏作んなかったの?」
「分かってたよ。冷たくしてたわけ。てかそんなのはどうでもいいの。あたしは、昇が」
澪が俺から離れ、一歩距離を置いたところから見つめた。
風が髪を靡かせ、目をつぶった。
その目は
もう二度と
俺に向かないのではないか、
開かれることはないのではないかと思うくらい長くつぶり、
明けた。
「大好き」
俺達は笑いあい、抱きしめあい、誓った。
『『離れ離れになっても、絶対信じてる』』