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エレベーターのドアが開いた瞬間、嫌な予感が胸を締め付けた。
八階のフロアは、思っていたよりも静かだった。
オフィス用の白い壁、等間隔に並んだドア、消えている照明。
人の気配があるのかないのか、判断がつかない。
「……春香」
名前を呼んでも、返事はない。
喉がひりつく。呼吸が浅く、胸がうまく膨らまない。
焦るな、と自分に言い聞かせる。
焦ったところで、春香が見つかるわけじゃない。
わかっているのに、足は勝手に前に出る。
視界の端に、一つのドアが入った。
簡易的なプレートに、無機質な部屋番号。
理由はない。
ただ、ここだと思った。
ノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。
勢いよくドアを開ける。
「春香――」
声は、途中で止まった。
部屋の中は、簡易的なオフィスだった。
机と椅子、ホワイトボード、積まれた段ボール。
そして、その中央に人影があった。
相場さんだった。
立ったまま、こちらを見ている。
顔色は悪く、目元は赤く腫れているように見えた。
「……相場さん?」
どうして、ここにいる。
どうして、こんな顔をしている。
頭の中で言葉が絡まり、何一つ整理できない。
俺は一歩、部屋の中に踏み込んだ。
靴底が床に擦れる音が、やけに大きく響く。
「春香はどこだ」
オフィスの中に足を踏み入れた瞬間、そう口にしていた。
息が荒い。喉が痛い。頭の中がひどくうるさい。
視界に入ったのは、相場さんだった。
部屋の中央に立ち尽くし、こちらを見ている。
「相場さん、春香は――」
言い終わる前に、部屋の奥を探そうとして、一歩踏み出した。
「待って、真一」
背後から声がした。
聞き間違えるはずがない。
何度も、何度も呼ばれてきた声だ。
俺は弾かれたように振り返った。
そこに、春香が立っていた。
俺が入ってきたドアの近く。
壁に軽く手をつきながら、こちらを見ている。
「……春香」
春香は、ゆっくりと一歩前に出る。
それから、俺と相場さんを順に見た。
「真一、落ち着いて」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「大丈夫。私は、ここにいる」
そう言ってから、少しだけ息を吸う。
「だから……お願い
紗月の話を、ちゃんと聞いてあげて」
その言葉のあと、春香は俺から視線を外した。
ゆっくりと、部屋の中央に立つ相場さん――紗月のほうを見る。
「……紗月」
名前を呼ばれた相場さんの肩が、びくりと揺れた。
それでも、春香の声は優しかった。
急かすでも、問い詰めるでもない。
ただ、そこにいることを確認するみたいな声音だった。
春香は何も言わない。
理由も、正しさも、求めない。
ただ静かに、紗月を見つめている。
まるで――
もう覚悟は決まっていると、知っているみたいに。
相場さんは俯いたまま、しばらく動かなかった。
握りしめた手が、わずかに震えている。
春香は一歩も近づかない。
距離を詰めることもしない。
ただ、その場を譲るように、黙って待っていた。
やがて、相場さんが小さく息を吸う音がした。




