1話 もう遅かったようです…
私は逃げていた。
やりたくないことや嫌なことを避けたり、後回しにしたりしているという意味の「逃げている」ではないよ。
おそらく私を殺すつもりで追いかけてきている異形の者たちに捕まらないために、必死になって走っているという意味の「逃げている」です。
私の髪は激しく乱れ、顔は涙と汗でぐちゃぐちゃになっていた。
その顔を含めた全身には数えきれないほどのすり傷や切り傷ができていて、体のあっちこっちから血が滲み出ていた。
着ているドレスはボロボロに破れ、もはやただの汚い布切れになっていた。
「はぁ…はぁ…はぁ…!」
もう体力の限界が近づいてきているのがわかる。息が上がっていてうまく次の一歩を踏み出すことができない。
それでも私は足を止めることはできなかった。なぜなら、怖かったから。死にたくなかったから。
「…ッ!?」
でも次の瞬間、私は何かに足を引っかけて派手に転んでしまった。勢い余って顔を地面に強打する形になり、激しい痛みが走る。
そんな状況の中でも本能的に足が引っかかったところに視線を向けて状況を確認すると、私の左の足首を腐敗して所々骨まで見えている「手」がつかんでいた。
「…きゃあああああああああ!!」
たまらず私が悲鳴をあげたことによって、「追跡者」たちは自分たちが捕まえるべき対象の居場所を確認し、追跡対象の女…つまり私を捕獲すべく次々と集まってきた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「あら、ずいぶんボロボロになっちゃってますね。可哀想に。大丈夫ですか…?お嬢様」
私の目の前にやってきた黒髪の女性は、同情の気持ちなど少しも入ってなさそうな、どちらかというとすごく楽しそうな声で私にそう話かけてきた。
ちなみに私は異形の者たちによって両手を後手に拘束され、彼女の前で強制的に跪かされた状態。
そんな私を余裕たっぷりのサディスティックな表情で見下ろしている女性は、私の元専属メイドのイザベルだった。
冷たい笑顔と、その笑顔とは対照的に激しい怒りや憎悪で燃え上がっているルビー色の瞳。その目を見れば、彼女が私を許してくれることなどあり得ないことは明らかだった。
でもそんなことも理解できない私は、彼女の姿を認識した瞬間、必死になって彼女に命乞いを始めた。
「イザベルさん、イザベルさんだったのね…!ごめんなさい。本当にごめんなさい。全部私が悪かったの。だからどうか許して…!許してください!」
「……」
「私、言うこと聞きますから。何でもしますから…!だからどうか命だけは…命だけは助けてください!お願いします、お願いします!」
…悲壮感の漂う声でそう叫びながら、必死に彼女に頭を下げる私。我ながら惨めで滑稽な姿だった。
そしてその様子をどこか満足げに眺めていたイザベルの反応はもちろん…。
「ねぇ、お嬢様。わたしがね?今まであなたに「許してください」と懇願した時…」
「……」
「あなたはどんな反応をしてましたっけ…?わたしを許してくれたこと、一度でもありました…?」
「…!あっ、ああ…あああ…!」
そう言いながらまた冷たい笑みを浮かべるイザベルの体のまわりに禍々しい感じの黒いオーラが渦巻くのを見た私は、パニック状態になって「あああ…」とよく分からない声をあげることしかできなくなっていた。
「今さら謝ってももう遅いんですよ、お嬢様。残念でしたね。…でも安心して?あなたの遺体はちゃんとゾンビにして、そばにおいといてあげますから。ふふふ」
そう言い放って何かの呪文を唱えるイザベルから少し離れたところに、もう一人のイザベルがいた。
そしてもう一人のイザベルの目の前には、先ほどの私のように体を拘束されてはいないものの、同じようにイザベルの前で跪いて彼女に頭を下げているもう一人の私の姿があった。
「大変申し訳ございませんでした!!」
「……」
「私たちにはどうしてもあなたが必要なんです。助けてください。どうか私たちを見捨てないでください…!お願いします、お願いします!」
叫ぶような声でイザベルに懇願しながら私は、頭が地面に埋め込まれるんじゃないかという勢いで何度も彼女に頭を下げていた。
…先ほどの私に負けないくらい、惨めで滑稽な姿だった。
そんな私を見下ろすイザベルの顔は…先ほどもう一人のイザベルが見せてような強烈な憎悪や怒りを感じさせるような表情ではないものの、目の前の惨めな女の言葉に一切興味がないことがよく伝わってくる冷たいものだった。
先ほどのイザベルの瞳が燃え上がる「赤」だったとすれば、こちらのイザベルの瞳は凍り付いた「赤」だね。
そして当然ながらそんな目をしているイザベルの返事は…
「ねぇ、お嬢様。わたし、5年もリュミエールの屋敷で働いてたんですけど…。その間、お嬢様がわたしとお話をしてくださったのって何回くらいありましたっけ…?」
「……!」
「…わたしをまるでいない者のように扱っていたあなたに、今さらあなたが必要ですと言われて、分かりましたってなると思います?」
「…ご、ごめんなさい!私が悪かったです。だからどうか…!」
改めて懇願しようとする私の話を途中で遮って、イザベルは冷たく言い放った。
「いや、こっちこそごめん。でももう遅いんですよ、お嬢様。わたし、屋敷に戻るつもりは全くありませんので」
イザベルのその言葉で最後の望みが消えたことを悟った私は、絶望に打ちひしがれた表情でただただ涙を流していた。
「私にはどうしてもあなたやブックマークや☆評価必要なんです。助けてください。どうか私を見捨てないでください…!お願いします、お願いします!」