ブローチの話
1900年代のモンゴルか、アラビアあたりの都会くらいのイメージです。いろいろ矛盾があるのでファンタジーで。ウードはギターみたいな楽器です。
専門家ではないので、ご容赦ください。
燭台の灯りがゆらっとゆれて、手元に小さな虫が飛び込んできた。集中が途切れて顔を上げると、窓から見える町並みは夜の賑わいを潜め始めているくらいだった。
気づけば部屋の空気も昼の陽気をすっかり失い、自分の座る作業台の周りの他はなんの気配もしない。
先程まで一緒に残っていた同業たちは一人、また一人と宿舎に戻っていき、生半可に最後の一人の気遣いとも取れる「お前もさっさと帰れよ」の一言に返事をしたのは、もう随分前だったように思った。
ぐぅ、と体を伸ばすと、腹からも同じような音が出た。夜の街は暖簾を仕舞おうとしている店もあるが、職人の台所も担う目の前の通りはまだまだ行けば旨い飯にありつけるだろう。
また宿舎の方を見れば、がやがやと楽しそうな声とともにいくつか小さな部屋の明かりが付いているから、仲間で集って晩酌でもしているのかもしれない。
少し勢いをつけてから立ち上がり、今日の戦果を眼下に眺めてから服についた汚れを払ってテーブルの上に落としてやる。ごみやナイフを片付け、長時間彫っていた秋の新作のブローチの原型は少し悩んでからポケットに入れた。
燭台の明かりにろうそく消しをかぶせ、私は、私が2つだけ持っている鍵の中でもとりわけ価値のある方を取り出し最後に作業部屋をぐるりと見渡した。
窓、よし。灯り、よし。施錠、よし。
私のお財布、よし。
さて、今日はどうしようか。
片手でなにか頬張りながら露店を冷やかすのもいいし、いつものダイニングで好きなものだけ頼むのもいい。一度宿舎の自室に戻ってから、ウードを引っさげて同僚の酒盛りに混ぜてもらうというのも悪くない。
ともかく、一度作業場を出て歩きながら考えよう。
そうだ、そうしよう。
職場の出入り口の管理人に挨拶をして、作業部屋の鍵を預けてしまえばあとは仕事終わりの一杯にありつくだけだ。ちらりと隣を見れば、販売店側の方はまだあと少しだけ営業しているから、まだ賑やかだ。街から戻ったら、目下修行中の私の作ったジュエリーが売れたか見てみよう。
と、思っていたのだが、結論から言うと私は晩御飯にありつけなかった。
理由は簡単だ。財布を持っていなかったのだ。
露天で見かけた大きな鳥のももを甘辛に炙った肉を買おうとしたら、ポケットにあったのは今日彫ったブローチだけだった。
財布を落としたものと大慌てで来た道を行ったり来たりしているうちに夜も更け、街の食事の時間を逃してしまった。
そもそも街に繰り出したのも遅かったのだ。財布にはそこそこ入っていたので更にきつい。
もう駄目だ。今日はふて寝だ。部屋に戻ったら少しだけ残してある洋酒と、干し杏を齧って寝てしまおう。
そして今日を教訓とし、明日から節制して生きていこう。…酒も控えよう。
ところが、とぼとぼという音が聞こえそうな様子で自店の前まで差し掛かったとき、顔見知りに呼び止められた。
「やっと帰ってきましたか。意外と気づくのが遅かったのですね」
「え?」
声をかけてきたのは、店の方の従業員をやっているとびきり美人の女の子だ。宿舎も部屋が隣で、友人の一人でもある。しかし、私の目を奪ったのは女の子の手に握られているものだ。
まさしく、さっきまで探していた私の大事なボロ財布だった。
わかりやすく、私が泣きそうな顔をしていたからだろうか。彼女は私の手を取ると、ぎゅっとその財布を持たせて口元にやさしい笑みを浮かべた。
まさしく現金だが、さながら天使のようだ。
「ここに落ちてたのをお店のお客様が気づいてくれました。あなたの部屋で見覚えがあったのでここで待ってましたが、間違いじゃなくて良かったです」
もう落とさないでくださいね、と言って微笑む彼女に心からお礼を言おうと顔を上げたときだった。大きな腹の虫が鳴ったのは。
穴があったら入りたいとはこのことか。
「あの、その、財布がなくて食事ができなくてですね…」
気まずくて苦笑いで目をそらす私に、彼女は目を丸くしたあと、それもそうですね、と一つ頷いてくれた。
彼女は茶化したりしない人だが、いっそ笑い飛ばしてくれたほうがいいと思うのは贅沢というものだろうか。
「今日は私も部屋で食事を頂こうと思っていましたから、一緒にいかがですか?」
彼女が微笑んで、そう魅力的なお誘いを申し出でてくれた。財布を渡すために私をこの時間まで待っていて、さらに食事まで。
「ちょっと待って、まだ食事を取ってなかったってこと?なのに私を待っててくれたんですか?ずっとここで!?」
彼女の発言に驚いたのと申し訳なさで、取り乱したようにまくし立ててしまった。そもそも隣の部屋だから明日の朝でも良かったというのに。
「ここでお財布を落としたのがあなたじゃない人だとしても、ここに戻ってくると思ったのです。記憶どおり、あなたの物でしたが」
持ち主が見つかってよかったです。と言って彼女はまたにこっ、と微笑んだ。
ここまでできる人はそうはいないだろう。
よくできた子だ。いささか優しすぎるきらいがあるのが心配でもある。
そもそも女の子がこんな時間までここで立ってるのは、いくら人通りが多いといえど危ないだろう。
心配から複雑な表情を浮かべた私に、彼女は不思議そうな顔をしたが思い出したように手を一つ叩くと、少し急かすように私の背中に手を回した。
「さぁ、私の部屋に行きましょう。簡単なものしかございませんが」
彼女にとってはこのようなことも些事なのだろうか。
「ほんとうにありがとう。このお礼は明日にでも。よかったら食事を奢らせてください。今日は…お言葉に甘えさせてもらいます」
意気地なしだが、助けられた手前友人に説教は気まずい。今日の話は、明日ゆっくりさせてもらおう。
少し遅いが、意外にも楽しい晩餐会となった。
なんと、先の大きな鶏もも肉を甘辛く炙ったものの露店の閉店間際に滑り込むことに成功し、一品だけ今晩の食卓に彩りを添えることができたのである。
彼女の部屋で、パンにたっぷりと薄くスライスした鶏肉と香味野菜を乗せたものに舌鼓をうつ。
彼女の振る舞ってくれた辛い豆のスープも、これにつけて食べる。
私の部屋から持ってきた少しの洋酒は小さなペアグラスに分け、ごきげんな私はほろ酔いで歌いながらウードを弾いている。
鶏肉は油っ気があってうまい。豆のスープもコクがあり、辛いから癖になる味だ。酒を口に含めば、口に残った料理の旨味と合わさって旨くなる。洋酒の醍醐味だ。
旨いなぁ、旨いものを食べていると、幸せになるから、曲も歌も良くなる気がする。
彼女も笑っている。一緒に歌って乾杯をすると、なおさら良い気分だ。
しかし遅い晩餐会もいよいよ腹もくちくなり、今日の疲れがどっと出てきた。そういえば随分仕事も残ってたし、財布が見つかるまでは散々だったのだ。
「お疲れですか?」
鋭い彼女は、些細な私の様子の変化を汲み取ってくれたらしい。
「いいえ、と言いたいところなんだけど、今日は疲労が溜まっているみたいです。ごちそうさまでした、私が片付けますよ」
よっ、と声に出してだらつく体を叱咤し、勢いをつけて起き上がろうとする。しかし、その瞬間彼女がそっと手で制してきて、私は起き上がりきれずに床に尻もちをついた。
「えっ」
「今日はいつもよりお疲れのようですから、私にお任せください」
彼女はにっこり笑ってそう言うと、テキパキと全てあっという間に片付けてしまった。
そうして、戸棚から色のついたろうそくを持ってくると、テーブルランプのろうそくを消して今しがた持ってきたろうそくと差し替えた。
とたんに、甘い、でもクドくないやわらかい花のような香りが部屋に漂ってきた。
「いい香り」
「手作りなのです。唯一の趣味と言っても良いかもしれません」
よく眠れますよ、そう言って彼女は跪き、私の手を取ると傍らからクリームのようなものを取り出した。
それを私の手にチョンチョン、とつけると、手のひらにスルスルと塗り広げ、手のひらの血を中心から外へ流すように指圧しだした。
「蜜蝋のクリームです。これは少し甘すぎる香りかもしれません」
最初はごく軽くなんども、クリームが馴染んだら少し強めに。甘い香りは確かに少し癖があって、それでいて少し官能的だ。
そのせいか、頭の芯がぼやっ、とする。ぬるい湯船に浸かるような気持ちの良さが、手のひらに、指先に、指の付け根に、手首のくるぶしにするりするりと動いていって、腕の関節、二の腕、肩と柔らかく押しながら心臓の方へと辿っていく。
「軽く、マッサージしますので、座ったままでいてくださいね」
これは疲れが吹き飛びそうな心地だ。ありがたい、とか、なんで彼女は私にこんなに良くしてくれるのか、とか、いろいろな考えが浮かんだが、私が口に出すよりも早く、察した彼女がにこりと目を合わせてきた。
「私、マッサージには少し自信があるんです。人にするのが結構好きで、疲れている人を見るとつい…あ、お嫌でしたか?」
へえ、そんな奇特な人もいるのか。納得とともに、私はここだけは頑張ってぶんぶんと首を横に振った。嫌なものか。人にいたわってもらうのは久しぶりで、ここでやめてほしくないと疲れた全身がそう言っている。
私のその様子を見て、彼女は少しホッとしたようだ。目線を自身の手のひらにうつし、丁寧にツボを捉えていく。
「随分遅くまでお仕事をされてましたね。職人さんの手はお疲れのようですよ」
彼女はすごく真剣な目で、私の腕の様子を見極めようとしているように見える。肩からまた戻ってきて、手のひらの至るところを指圧しながら、私がいたがる素振りをしないかじっと観察しているようだ。私はろくに動かなくなった口で、あー、とか、うー、とか言いながら蜜蝋の香りのする柔らかい手に身を任せていた。
「お疲れのようですけど、特に目が疲れてるみたいです。遅くまで小さな灯りで頑張るのは、少し感心しませんね」
彼女は小言を言ったようだ。私は働かない頭で、今夜の君も遅くまで一人で外にいるなんて、だめじゃないか、と言おうと口を動かしたが、出たのは寝言みたいな音だけだ。
「ふふ、なんて言ったんですか?反省してるならいいんですよ」
彼女は私の意図とはかけ離れた解答をして、手のひらのマッサージをやめると、私の両手を引いて少し前進するように促した。
そして、私が緩慢にずりずりと前進すると、彼女は私の後ろに周り、私と壁との間にすっぽりと収まった。
おもむろに、柔らかい手が後ろから私の肩と首の境目にあてがわれ、もにもにとじんわり揉んでいく。
「それはそうと、何をそんなに頑張っていたのですか?」
不思議そうに言う彼女に、私は口は聞けずとも明確な答えを持っていた。眠気を叱咤し、ポケットからゆるゆるとした動作で新作のジュエリーの原型を取り出し、後ろの彼女に見せてやる。
それに気づいた彼女は一旦私の方を揉む手を止めると、私から受け取った原型を目の高さまで持ち上げてしげしげと眺めた。
「細かな細工のブローチですね、これは、植物ですか?」
ご名答。細かな細工が必要で、つい集中してしまったのだ。それはアイビー(蔦)と言って素敵な意味のあるモチーフなんですよ。という私のうんちくは、またも音にならずふにゃふにゃと寝言のように空気に溶けていった。
彼女は暫くその細工を物珍しそうに見ていたが、サイドボードに慎重すぎるくらいにブローチの原型をそっと置くと、再び私の首周りのマッサージを開始した。
「今日、あなたの作った鳥のとスグリのモチーフのブローチをとても気に入った人がいて、その人、次の作品を楽しみにしていらっしゃいました」
私も、いつも楽しみにしてるんですよ。でも仕事のし過ぎは毒ですよ。そう言う彼女の手はやさしく肩全体を動かすように指圧を続ける。
私は正直、少し泣きそうになるくらい嬉しかったが、彼女が方を3回上から下へ擦ったあと私をベットへ促すので泣くのを我慢した。
「さて、最後に目に温めたタオルを置きます。このまま寝てしまって大丈夫ですよ」
アロマキャンドルと同じ香りのするお湯で作った暖かなタオルは、ちょっと熱いくらいの温度でわずかに滲んだ涙を吸ってくれた。
もしかしたら、少し泣いたのはバレていたのかもしれない。まぁ、彼女ならばいいか。
目の周りで滞っていた血が、一気に流れ出したかのような感覚がする。気持ちがいい。眠気もひどい。
「今日はお疲れ様でした。おやすみなさい、いい夢を」
私はなんとか気力を振り絞って、夢うつつの中最大級の感謝が伝わるように口を動かした。
これだけは、今日のうちになんとか伝えたいと思ったから。
いつもの何倍もスッキリした朝だったが、彼女のほうが起きるのが早かったのはなんだか釈然としない。
「おはようございます。昨日はありがとうございました。最高によく眠れましたよ、ただお世話になりっぱなしなので、朝くらいは私が早く起きてあなたをもてなしたかったのですが」
「ふふ、よく寝られたのなら何よりです」
テーブルの上には、色とりどりのジャムとたっぷりのバターで焼かれたパンがちょうど出来上がりましたとばかりに湯気を上げている。
「さあ、朝ごはんにしましょう」
私は喜び勇んでベットから飛び起きた。体が軽い。今日はいつもより仕事も捗りそうだ。
でも今日は早めに切り上げて、彼女にとっておきのディナーをご馳走しないと。
「昨日のお礼、覚悟しておいてくださいね」
「ふふ、楽しみにしています」
昨日の言葉、期待してしまいますね。
はにかむ彼女がそう小さく言った意味を知るのは、またしばらく先の話である。
『アイビーのブローチを、あなたに』
了
知らなくてもいい設定。
【アイビーのモチーフの意味】
友情、永遠の愛、結婚(蔦の絡まるイメージから)
宝石職人と使用人の女の子の設定はどうしてか気に入ってて、使いまわしです。