秘技 くしゃみの法
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふむ……まだこの辺りでは、マスクをつけている人が多いようだな。
いや、俺が住んでいるところの近所だと、もうマスクなしで走り回っている子供とか、ちらほら見かけてさ。近くへ寄ってこないか、ひやひやしているとこなのよ。
マスクは他人「への」飛沫感染に対し、もっとも効果を発揮する。つぶらやも聞いたことあるだろ? 他人「から」の防御に関しては、マスクは限られた効果しか期待できないんだそうだ。
よくいわれる「せきやくしゃみが出るときは、手とかで押さえなさい」という注意。こいつを自動的に守ってくれる、ありがたい道具というわけだ。
だがな、このせきやくしゃみを押さえるというエチケット。どうやら必ずしも、相手を守るためだけじゃないらしい。ときには自分を守ることにもつながるとか。
それを俺が考えるようになった、昔話のひとつ。耳に入れてみないか?
むかしむかし。日本の各地で、戦が頻繁に起こっていた時代のこと。
とある城下町では、朝から夕方にかけ、あちらこちらで釘を打つ音が響き続けていた。嵐が過ぎ去ったばかりで、ガタがきていた家屋たちは、軒並み被害を受けていたからだ。
大工たちにとっては、まさに稼ぎ時。人々が行きかう頭上で、どんどんと破損した部分を直しにかかっていた。
そしてある昼下がりのこと。
「えっちゅん!」
ひときわ大きいくしゃみが、辺りに響き渡った。
それだけなら、たいして人々は気に留めなかっただろう。だが実際には、多くの人がはたと足を止め、ある一点に視線を注ぐことになった。
そこには一糸まとわぬ姿で突然、往来に姿を現わしたひとりの男の姿があったんだ。片膝をついているその男も、自身が置かれた状況を理解できていないらしい。
さっと顔をあげると、周囲を確認。ついでに自分が全裸であることに気づいて、悲鳴をあげる始末だ。隠すところを隠しつつ、その場から駆け去って行ってしまったらしい。
すぐ後の調べによると、男はこの町の大工のひとりだった。
あのような格好をさらす前は現場近くの家屋の上で、屋根の修繕を行っている最中だったという。
それが、くしゃみひとつをして目を開いたとたん、あのような状況に陥っていたらしい。実際、同じ場所で仕事をしていた大工たちからは、彼のくしゃみが聞こえたと思いきや、そこには彼の服と仕事道具しか残っていなかった、という証言が得られたんだ。
屋根から道路の中央まで、およそ三十尺(約9メートル)。遠すぎるとはいわないが、一瞬で動くには、少し無理のある距離だったという。
この奇妙なできごとは、皮切りに過ぎなかった。
以降、せきやくしゃみをした者が、その場から体一つで瞬間移動をしてしまうという事例が、頻発したんだ。
いずれも、くしゃみなどを手や袖で押さえなかったとき、まれに起こる。手にしたもの、身に着けていたものは、いっさいその動きについていけず、当人は裸で移動先に放り出されるんだ。移動する距離はまちまちで、短いものならわずか三尺(約90センチ
屋内から屋内ならまだよかった。しかし外に出てしまえば、かの大工の二の舞で、人通りが多い場所ともなれば、平静でいられない。年頃のおなごなどは、恥ずかしさのあまり引きこもり、自死を企てようとした者さえ現れたとか。
ついにこのうわさは、城に住む殿様の耳にも届いた。
原因を追究しようとするも、報告があった日の武技訓練で早くも被害が出る。
始まりは相撲の取り組み。双方が立ち上がって、がっちり組み合おうとする直前、片方の力士が盛大なくしゃみを放った。
とたん、力士の姿が消え、次の瞬間には相手の裏側へ回り込んでいたんだ。当然、相手の力士からすれば、まわしを残して相手がこつぜんといなくなった状態。戸惑ったすきに、背中から送り出しを食らうのだから、たまったものじゃない。
たまたまその場に居合わせた殿様は、目を見張る。そして、同時に考えたんだ。
これを意図的に誘発し、実戦で役立てることはできないかと。
それから兵たちは常日頃、くしゃみを我慢せず出すことを強要される。この際も、手などでさえぎらないよう、厳命が下された。
あちらこちらで起こる、全裸の瞬間移動。訓練場のほか、調理場や評定を行う間にも、生まれたままの姿で移動してくる男たち。慣れないうちは、あちらこちらが騒然となった。
殿様も何度か自分自身で試す。どうやら一分のすき間もない密閉の空間相手には、侵入はできないことを知った。暗殺などに使うには、不安が残る。
やはり本領は白兵。一対一の斬り合い、組み合いならば、たやすく相手の背後に回り込み、痛打を与えられるのは相撲の件から明白だ。さらに意図的に操ることができるなら、飛び道具からの回避も可能となるだろう。そうすれば、大事な兵たちの命を守ることにもつながる――。
そう信じる殿様だったが、ある程度の身分ある将には不評だったらしい。
いわく、このような奇手に頼り、首を獲ったところで、なんの誇りも持てない。自らの武技によって得たものにこそ価値あり、とのこと。ほどなく将たちは、奔放なくしゃみを控えてしまう。
下々の兵たちも、じょじょにくしゃみを自重するようになっていった。確率は高まったとはいえ、多くの者はせいぜい7割前後の成功率。飛ばないときには飛ばないんだ。そのような不確実なものに、自分の命を託す度胸はない。
ただひとりの例外をのぞいては。
彼は兵たちの中で、いっとう背が低かった。だが耳からあご、鼻の下にさえも豊かなひげを蓄えた姿から、「小熊」とあだ名をされていたらしい。
戦において、小兵はそれだけで大きな不利。いかに武芸を磨いても、柔よく剛を制するの限界を見てきた彼は、この瞬間移動に活路を見出さんとしたんだ。
あたりをはばからない訓練の末、ついに彼は自在にくしゃみを出し、移動する術を極めることに成功したとのこと。そして実戦となるや、彼は積極的にその術を使った。
服や道具を持ち運べないのは変わらない。しかし彼は自らの武器を投げ、それを追いかける形でくしゃみをし、姿を現わすと共に手に取る――という離れ業を会得していた。意表を突かれた相手は、その隙に彼から致命の一太刀を受けてしまう、という寸法だ。
連続のくしゃみによる高速の進退と、生来の身体の小ささも手伝って、彼を捉えるのは容易じゃなかったという。せいぜい刃物を振り回したり、矢が飛び交ったりする中でのとばっちりを期待する程度だが、彼はそのような乱戦の場には飛び込まなかったんだ。
しかし、その快進撃はある戦で唐突に止んでしまう。
彼はとある武者と斬り合いかけたとき、いつものようにくしゃみをしたが、今度はどこにも姿を現わさなかったのだという。
武具一式をその場に転がしたまま、戦が終わった後も見つからない彼の身体。足軽長屋や実家などにも戻っておらず、ゆくえはようとして知れなかったんだ。
だが、それから半年の後。彼の消えた戦場跡で奇妙な草花が姿を見せるようになった。それはホトケノザによく似た形をしていたが、身体中から黒いひげのようなものをびっしり生やしている。それはあたかも、小熊と呼ばれた彼の生やす、顔のひげとよく似ていたようだったとか。
くしゃみをし過ぎた彼は、ついには自分自身まで飛沫と化し、種として地面に植わってしまったのだろう。
人々はそううわさしたそうな。