菫恋
日差しも強く日向にいれば汗ばんで来るようになって来た。大きな積乱雲が太陽を遮ってわずかばかりの過ごしやすさを連れてくる。
瀬央菫恋はいつもと同じ道を通っていつもと同じように学校へ行く。家では家族がバラバラで父も滅多には帰ってこなくなった、母は相変わらず家のことには手をかけず好きに遊びまわっている。菫恋は母を好きだったが彼女の男遊びだけは容認できなかった。家ではなくせめて他所でやってくれれば知らずに済んだかもしれないとよく考える。
父に、父さんと母さん、どっちと暮らしたいか考えておけと言われてからそのことがすっと頭の片隅にあった。
もしこのまま今の学校に通ってもいいならお父さんと暮らす方がいい。転校はしたくない、このまま沙依と一緒に卒業したい。でもお母さんは一人では……。
そんなことを考えながら学校の門をくぐる。生徒用の玄関には登校する生徒で溢れている。
クラスメイトと挨拶を交わして、自分の靴箱を開けると、
「…………」
靴がない……。
「どうした?」
クラスで仲の良い美香が今日も元気よく話しかけてくる。
「ううん、何でも無い。先行ってて」
そう言って手を振る。終わりの始まり。そんな気持ちだった。
来客用の玄関にスリッパがあったはずだ、そう思って靴下でちょこちょこと歩いて行ってスリッパを借りる。
学校指定の上履きってどこで買えるんだろう? 靴代……お母さんに言っても……はぁ、多分ダメね。なんで靴箱に鍵ついてないんだろう、鍵あるだけでこんなこと防げるのに。
そんなことを考えながら教室へ向かう。
教室に入った瞬間みんなが菫恋を見る。昨日までとは明らかに何か雰囲気が違っていた、不思議に思って自分の机に近づくと机に落書きがしてあった。
「死ね、ブス、マジキモすぎ……ウザイ……」
教室を見渡すと、一斉にみんなが視線を外す。窓際の高橋清美と島百合だけがニヤリとしていた。
あいつらか……。
とりあえず携帯で写真を撮る。証拠集め。その光景をクラス中が少し驚いた様子で見ていた。こんな事になるかもしれないと予想していたが、思いの外ショックで溜め息が出る。予想はしていたけど、打開策にアテは無かった。どうすればこんな事をされないで済むのか見当も付かない。
菫恋は机に座って落書きを見つめる、幸い落書きはチョークで書いてあったのでポケットティシューを取り出して拭き消す。綺麗になった机に突っ伏してまた溜め息をこぼす。
「めんどくさい」
机に伏せたまま横を向いて目を開けると、目の前に沙依が立っていた。飛び起きるように姿勢をただす。
「おはよう。沙依」
やっぱ、かわええ……癒しだわ。
「これ、瀬央さんの?」
手に持った上履きを菫恋に見せる、上履きの甲にくまモンが描いてあって、瀬央って名前を持ち上げている。
「あ、うん。わたしの、ありがとう。どこにあったの?」
「廊下に落ちてたよ」
本当は玄関近くのゴミ箱捨ててあったのだが、沙依はそれを言おうとは思わなかった。
「チッ!」
どこかから舌打ちが聞こえる。聞こえた先は見なくても分かった。沙依をみると今日はイヤフォンをしている、菫恋は拳をギュッと握って決意を新たにした。わたしは間違ってない。
この日から菫恋は教室で一人でいることが多くなっていった。教室の外では美香や他の友達と普通にしている。沙依への無視も相変わらず継続していて、クラスの子はあっちもこっちも気を使って過ごさなければならなかった。
午後のHRで修学旅行の自由行動時の班決めがあった。
修学旅行先での自由行動は六人一組、女子二十四人なので四組になる。
自由行動と言うこともあって、好きな者同士で編成する事になった。
沙依もこの時ばかりは自分の現状を突き付けられる思いがする、自分の処遇が決まらないのだった。すみません本当にこんな私で。そう思う。
「綾瀬さん誘いたい!」
そうみんなに聴こえるように声を出したのは、やはり菫恋だった。周りにいた美香や他の子は良い顔をしなかったが、反論を声にして言うのは憚られた。
クラスのみんなは厄介者の配置先が決まったと内心安堵したがそんなことは噯気にも出さずにスルーする。それがこのクラスのルールだ、班決めは思いの外早く決着した。
沙依は、やれやれなんとか決まって良かったと安心した。菫恋だけがクネクネと喜びを爆発させているが、他の子は内心不安と不満で一杯だった。
菫恋は今でも沙依にメールしたり、学校帰りに待っていたりすることは控えている。もう一ヶ月近くになる。菫恋はキッカケを探していた。期間が空き過ぎて話しかけ辛かった。
どうにか関係を修復したいと考えている。沙依と言えばあまり気にしてもいない様子で、
嬉しい菫恋ちゃんと一緒だ。
そんなことを思う自分を少しい意外に思っていた。
トイレに向かう道すがらキョロキョロろ周りを見てクラスの人間が居ない事を確認してから美香がヒソヒソと話始める。
「ねぇ、なんで綾瀬さんにこだわるの? 昨日の班決めだってさ、別に指名しなくたってほっとけばどこかに決まるでしょ」
「わたしが綾瀬さんと一緒がいいからよ」
菫恋は顔をほころばせて沙依の話をする時とても嬉しそうだ。
「楓と咲良もヤダって……アタシも……嫌かも、わざわざ綾瀬さんと回らなくても」
「杏は?」
「杏はどっちでも良いって言ってるけど」
「ふーん、でももう決まったし。最悪二・四で回ろう」
菫恋はトイレに入って行き、美香は入り口で「ちょっと!」自担駄を踏んで踵を返す。
教室に戻ろうとすると清美たちとすれ違った、
「きゃーー!」
女子トイレから悲鳴が聞こえたかと思うと、また清美たちが笑いながら走って戻ってくる。
何事かとみんながジッとトイレを注視ていると中から水浸しになった菫恋が重い足取りで出て来た。長い髪は濡れて重そうに真っ直ぐ垂れ下がっていて先端からはまだ水が滴っていた。
「ヤダ、貞子?」
そう声のした方をギロっと目を向いて見る。「ヒィッ!」という小さな悲鳴と共に固まって動けない女の子が怯えた顔をして菫恋を見ていた。
「…………」
のそのそと自分の教室に戻るとやっぱりみんながギョっとした目をして固まっていた。
菫恋は自分の席に座って鞄を手にする。
確かタオルが……。あぁ……。無い。
取り敢えずハンカチで拭けるだけ……。ポケットをゴソゴソしていると沙依がタオルを差し出してくれる、沙依の顔を見ていると涙が出そうになって、慌ててタオルを借りて顔を拭く。
「あ……ありがとう」
沙依は笑顔で「ん」と頷く。クラスエイトはその様子をコソコソと噂しながら見ている。
菫恋は手が震えるのを感じた。
悔しい! こんなことされて、誰がやったかなんて馬鹿でも分かる! でも証拠が無い! いや、大体証拠なんている? くやしい! こんなこと我慢しなくちゃいけないの?
奥の席でしたり顔で菫恋を見ていた清美たちが、笑いだす。
「ねー何か匂わねー?」
「うそ! 本当くっせぇー! どっかにバイ菌いるんじゃねーの?」
菫恋はジッと清美を見据えている。
「バイ菌と同じ教室なんて、サイテー! マジ消えろ! くせーよ」
菫恋と清美の間に座っていたクラスメイトも避けるように教室の入り口辺りまで移動して二人を黙って見ている。口に手を当てて心配そうに見ている者もいれば、少しニヤけて見ている奴もいる。
美香はトイレから出て来た菫恋と廊下ですれ違った、目の前をズブ濡の菫恋が重い足取りで通り過ぎてゆく、声をかけようと手を伸ばしかけたが直前で引っ込めた。みんなと一緒に廊下の端で見送った。状況から清美たちの仕業には違いなかったが、駆け寄って「大丈夫?」の一言をかけることがどうしても出来なかった。みんなが見ているから。後で……。
そう考えて教室を覗き込む。すぐそばに楓と咲良それに杏もいたから、寄って言って状況を聞く。
菫恋と清美の視線を遮るようにして、沙依が間に割って立っていた。
「なんだよ?」
この間とは構図が反対になったような感じだ。
「言い過ぎだよ」
「は?」
クラスが騒めいた。
「いいの、沙依」
菫恋は濡れた頭をタオルでゴシゴシと拭きながら沙依の横から顔を出す。
「日本語が分かんない馬鹿なようだからもう一度言ってあげる。わたし、あなたのこと大っ嫌いだから、二度と話しかけないで! わかった? こんな子供みたいなくだらない事まで」
「綾瀬さんも、言い過ぎ」
菫恋はむくれた顔をして、そっぽを向く。
「何なんだ? アタシがやったって証拠でもあんのかよ!」
「わたしがアンタを嫌いな事に証拠なんて要らないでしょ! 大っキライなのよ! もう喋んないで耳が腐る!」
怒りで耳まで真っ赤に興奮した清美が、机を足で蹴り飛ばして掴みかるように距離を詰めてくる、蹴られた机は大きな音を立てて倒れた。周りで見ている奴はざわざわと波風をたて、見る事にすら参加しない者たちまで振り向かせる。
「清美ちゃん! ダメ!」
沙依が突進してくる清美を抱えるように食い止める。清美のまわりの男子がそれを囃し立てた。
「お前最近いい気になってんじゃねーよ、パシリが調子に乗って」
清美は小さな沙依の頭を押さえつけて、体から引き剥がす。
「清美ちゃんとか気安く人の名前を呼ぶな!」
勢いよく払われた手が沙依の顔を叩く。
「くっ!」
見ている者の中から「ヒィ!」と悲鳴が聞こえ、目を背ける者もいた。
「何やってんだお前ら!」
教室の人の群れの奥から先生の声が聞こえる、誰かが読んで来たようだった。
清美たちは、目配せしてサッと教室から姿を消す。
沙依は倒れた机を元に戻していた。
主犯の居なくなった教室では、雪崩のように人が自分の居場所を求めて帰って来る、呼ばれた先生は、
「綾瀬、ちょうどいい、お前ちょっと職員室へ来なさい」
「……はい」
残された菫恋は黙って濡れた制服を拭く、いくら拭いても気持ち悪さだけは拭きれない。
沙依は大丈夫かな? すごく迷惑を掛けた、戻ってきたら謝ろう。ううん、違う。言うのは有り難うだろうと思った。
清美たちの居なくなった教室でも誰も菫恋に声をかける者は居ない。もう全員で無視いている様なものだった。もちろん美香たちでさえそうだ。声をかけた方がいいのは分かっていたが、周りを伺って動けない。清美たちに睨まれるのも怖いが、集団の方がもっと怖いのを知っている。沙依を無視することも、菫恋を無視することも、清美たちはすでにキッカケに過ぎない。実際に無視し続けているのはこの場合、傍観者のクラスメイト全員と言ってもいい。
しばらく菫恋を見ていると、やっと目があって声には出さずに口だけ動かして(大丈夫?)と聞くと菫恋は笑って頷いた。美香たちは、はぁ……っとやっと安堵のため息をつく。
沙依が職員室から帰って来た。菫恋は駆け寄って、
「大丈夫? 先生に何か言われた?」
首を振って沙依は大きな封筒を抱えている。どうやらそれを受け取りに行っていたようだ、菫恋は教室を見渡して沙依の手を引いて行く。
「わっ! どこ行くの?」
「保健室! 冷やさないと腫れちゃうかも」
保健室に先生はいなかった、大事な時にいない先生だなぁ。そう思いながら薬棚を見渡して湿布を探す。
「菫恋ちゃん大袈裟だよ」
振り向いた沙依は、両手を広げてくっついて来る菫恋に少し驚いた。
「制服まだ湿ってるね」
「ああ、うん。ごめんね」
気持ちいい、一時の優しさに微睡む。
「もうこうするの嫌だ?」
「嫌じゃない」
菫恋を見上げる沙依の瞳は愁を帯びて心に体に染み込んでくるようだった。
「修学旅行の班、同じになれて嬉しかった」
「わたしも……ずっと一緒に居てね沙依」
沙依は菫恋の胸に頭を預けて小さく頷く。
「嬉しい」