苦笑い
沙依たちがパスタの専門店に入ると、人気のお店なのか店内は女性客でごった返していた、レジ横の椅子に座って席が空くのを待っている客さえいる。
「予約していた、田中です」
献血ルームから、ここまで一緒に歩いて来た田中彰人がカウンターで予約をつたえると、
「お待ちしておりました。お席へご案内いたします」
そう店員が会釈して、沙依たちは席へ案内された。
「悪いんだけど、料理は決まってるんだ、コースだから」
沙依は黙ってうなずく。
「んで、スノーマンさん」
「ああ、彰人でいいよ。」
子供に名前呼びさせる大人って……。
そう思い沙依は苦笑いをする。
同時に彰人も周りを気にして苦笑いを隠せなかった。制服を着た高校生と二人でいて、親子には到底見えないのだから。知り合いでもいれば、また有らぬ疑いでもかけられよう。
沙依は滅多に来ない雰囲気の店に、少し気圧されるよに彰人の傍に立って店内を見渡していた。母とでもこういった店には滅多に来ない。ファストフード専門と言っていい。
「さっきから緊張してる?」
「うるさい」
店員に案内されて席に就く、丁寧に椅子を引いてくれた。
隣の席から、チラリちらりと視線を感じる、間違いなく二人の噂をしている雰囲気がヒソヒソ話から感じ取れた。
彰人は肘を付いて、目頭を抑え、クスっと一回笑った。
「まぁ、何となく分かってるかもしれないけど、今日は僕たちの結婚記念日でね、前もって予約してあったんだ」
「まぁ、素敵ね、ありがとう!」
沙依はわざと、大きめの声でリアクションしてやる。となりのお姉さんがジロリと彰人を見たのが可笑しかった。
暁人が少し呆れた目をして続ける。
「で、先週から晴れて別居ってわけで、開いた空席に沙依ちゃんを誘ったってわけ」
先に注文しておいた飲み物が運ばれて来る。彰人はグラスビールを沙依は暖かいお茶が置かれた。
「女子高生相手に、浮気の言い訳でも聞いて貰おうって訳ですか?」
彰人は一口ビールに口をつけて、はぁーっと一息ついた。
「そうだね、そんなとこ」
なんて、間の悪い。浮気をされたんなら、慰め甲斐もあるが、した人間の言い訳を聞いて、なんて言えばいいのか検討もつかなかった。まぁ、あえて言うなら、ブタ野郎! これしかない。
そんな言葉を押し殺して、
「一時間五千円なんで、時間厳守でお願いします」
「じゃ、延長で」
ぶっ! 沙依は口に含んでいたお茶を吹き出した。
「汚ないなぁ、はいこれ、どっちがいい?」
そう言って、持って来ていた紙袋から、恋音の公式グッズを二つ取り出した、キャップとアクリルキーホルダー。
「どっちって……」恋音のグッズだ、どっちも欲しいに決まってる。
彰人はテーブルに二つを並べて、キャップを沙依へ差し出す。
「これが一時間分ね、でこっちは延長料金、前渡しとは有り難くて涙が出る」
続けてキーホルダーを差し出す。彰人のしてやったってニヤけた顔が勘にさわる。
「ご査収いたします……」
おずおずとキャップを手に取る、名古屋での限定キャップだった。大っきな箱での初めての単独ライブ、行きたかった。でも高校生でバイトもしてない沙依には、名古屋までの旅費は出せなくて。寂しい思いをしていた。
「変な日本語だな、それ僕がいう言葉だよ」
そんな彰人の言葉を無視して、深々とキャップをかぶる。
ライブには行けなかったし、自分を変えようと誓った割には、思うように行かない、いつだって過去の自分に足を引っ張られる思いがしてた、でも不思議だ。こうやって恋音のキャップをかぶるだけで、また背中を押してくれるような気になる。
「ありがとう」
ちょうど料理が運ばれて来た、前菜としてのアーティチョークのサラダとチキンの盛り合わせ、それにスープが一緒に並ぶ。それほど格式ばったレストランでは無いようだ。周りの客も賑やかに雑談の中で食事を楽しんでいる。
しょうがない、料金並の仕事はしてやろう!
そう思ってサラダに手を伸ばそうとすると、彰人が丁寧に沙依の皿にサラダを装ってくれていた。
「あ、ありがとうございます」
「うん? なんか急にしおらしくなった?」
「うるさいな」
この人、なんか調子狂う、きっと血が足りないせいだ。
前菜のサラダにフォークを刺す、アーティチョークの一欠けが意外に大きくて、ちょっとめんどくさい。
「切りにくかったら、ナイフを鉛筆みたいに持つといいよ」
そう言って、やって見せてくれる。優しく手ほどきするように言う言い方に、興味をもった。
こんなふうに言う人いなかったな。よく見たら、細い綺麗な手してるんだ。顔も今時って言うか、カッコよく無くはないのかもしれない。
そっか、この手で毎日人に針を刺してるんだ? 乳白色の管の中を通ってどこかへ流れて行く血、私がいらないものを誰かが受け取る。こんな私で申し訳ない。
「私、明日でも四百ml取りたい! いいでしょ?」
彰人は目を細め沙依を見て、手元のサラダを一口、口に運ぶ。
「良い訳ないでしょ。それに僕に言ったって意味ないよ、僕は技師だから、裏方さん。それに沙依ちゃん、体重五十キロあるようには見えないけど……なんなら、これからホテルで測ってあげようかぁ」
彰人のエロ顔がご飯を不味くする、不気味なスパイスだ。
ずっと子供扱いされてる気がする……。
その後はサラダを食べながら、恋音のライブの話や、好きな曲の話をして過ごした。
普通に話していれば、案外ちゃんとした人なのかもしれない、仕事の愚痴や悪口も言わないみたいだし。まぁ、今日の私は奥さんの変わりらしいけど、いつか私も好きな人とこうやって、食事に来たりするのかな?
クスっと笑みが溢れる。
「ん? なに。好きになっちゃったとか?」
こう言うとこだな、奥さんに愛想尽かされるのは、
「違います」
「ん?」
「ぶっちゃけ、このキャップ奥さんへのお土産なんでしょう? それか実は奥さんがファンだとか?」
「ギク!」
危うく大人の男に、場の主導権を取られるトコだった。
「そうだよ、よく考えたら奥さんと別居中に他の子とご飯しようってのが、そもそも頭おかしいじゃん」
「えっと……」
結局、もとの軽蔑の眼差しを向けられる。
「なるほど、浮気癖が治りませんってご相談でしょうか?」
「あ、はい」
「マジで一回、逮捕されろ!」
彰人は悪びれる様子もなく、はにかむ。その表情には、暗に色々あるんだって! と言う言い訳が滲んでいた。
沙依は、ほぼ食欲と彰人への興味を失っていたが話は聞くことにした。キャップ分の仕事はして帰る気になっていた。
「で? 何を聞いて欲しいの? 別に私に興味があるわけじゃないんでしょ?」
テーブルにはメインのパスタが並べられた、沙依の前にはモッツァレラのポモドーロ、定番のトマトソースパスタが美味しいに違いない湯気を立てながら、今かと食べられるのを待っている。
店員がパスタを並べて奥へ下がるのを待ってから、彰人は笑顔で、
「いや、僕はさせてくれるなら、したいけど?」
ハァー……っと漫画のように項垂れる。
ゲスだ、この人。本物だ。フォークで刺してやりたい。人間的にって意味で聞いたつもりだったのに。今の私にはまだ、オヤジのエロトークをひらりひらりと交わすスキルはない。
なんか……もう帰ろ。
沙依は、かぶっていたキャップを取って眺める。恋音のロゴが入っていて、日付とファーストライブの限定刻印があった。
「これ、嬉しかったんだけどなぁ……」
沙依はしばらく考えて、キャップの中にキーフォルダーを入れて、彰人に返した。
「……え?」
「帰るね。ご馳走まさでした」
席を立とうとした沙依に彰人はやや困った顔をして声をかけて来る。
「そんなに僕の浮気の話し、聞きたいの?」
「別に聞きたいわけじゃないけど、彰人さんと二人でいる意味わかんないから」
首を横に振って、席に座るように促す。
「僕と沙依ちゃんの共通点って何だっけ? 恋音だろ? 僕はいつもツイッターで話してるように、好きな音楽の話を君としたい、それ以外は真実だけと、おまけ」
「じゃぁ、セクハラ発言はなしにして、気持ち悪いから」
「きも……はぁ、いいかい、僕がセクハラ発言しないで、どうやって食事を楽しむんだよ」
「それだね、奥さんに捨てられたのは」
なし崩し的にまた、座るように仕向けられた気もするが、とりあえず半身に構えて座る。
「まだ辛うじて捨てられてはいない、別居中だもん。それに四百ml献血したいんなら、食べなきゃ」
そう言って、フォークで手付かずのままのパスタを指す。
「確かに僕はモラルが低いよぉ、でもさ、君みたいな可愛い子を前にして、エッチな事を考えるなって方が健康に悪いよ」
「もう帰りたい」
「そう? じゃぁ次の店行く? 延長料金あるし」
「未成年を連れ回さないでください」
お店を出ると、すっかり暗くなってしまって、町の様子は外灯とネオン、車のヘッドライトで辛うじて様子を保っているようだった。
「食べたねー」
「彰人さんって、ずっとそんな調子なんですか? 仕事場とか奥さんの前とか」
彰人は背伸びをして、開放感を体に取り入れる。笑って振り向き、
「そんなわけないでしょ。仕事場では必要な事以外喋らないかな、妻の前では、他の女の子に見向きもしない良い夫だと思うよ」
是非、私にもそうして欲しい。
「沙依ちゃんは、気の置けない仲ってことで」
初対面だよ。しかも最悪の出会い、もっとちゃんと会えたら良かったのに。
駅へ向かって歩く道すがら、取り留めのない話をした。
日は落ちて、幾分かの涼しさを連れて来る、じきに本格的な夏とは言え、夜の風はまだ少し、冷たかった。
「君は、どうして恋音が好きなの?」
「それは……」
「恋音のようになりたいって思った事ない?」
すぐ脇を通り過ぎる車のベッドライトが時折眩しくて、目を細めてしまう、彰人の顔は店にいた時の、陽気な印象より少し憂いを帯びている気がした。
「……」
「恋音のように、自分の音楽に胸を張って、好きなものに向き合えたらって、僕はいつも思う。あんなに胸を張って生きられたらって、でももう遅いけど。」
ああ、それは私の想いだ。
「遅い?」
「そう、僕はもう妻に『好き』って胸を張って言えない、どんな事しても、自分のしたことを悔いても、妻が許してくれても、もう胸を張れない。どんな時でも、こんな偉そうに言ってるけど、あの時、俺、浮気しちゃったしなぁってどこかで思ってる、この先ずっと、一生ついて来る。浮気するって、人を裏切るってそう言うこと。でも妻を好きなことは変わらないんだ」
ずいぶん後悔してそうに言ってるけど、この人たぶん私と同じだ。自分がした事なんて全く後悔してない、ただ清廉潔白だった頃の自分には戻れないことを悔やんでるんだ。自分の心配してるだけ、私は昔に戻ろうとして戻れないでいる。この人は、何度も浮気を繰り返して、戻れない自分に慣れようとしてるんだと思う。きっと同じ所でぐるぐる道に迷って立ち止まってるんだ。
「ずるい! それは私が……私が恋音を好きな理由」
彰人は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに気を取り直すと、悪戯っぽく、
「じゃぁ、クズ同しまた遊んでくれる?」
そう言って、沙依の頭に帽子を深々と被せる。
「今日は楽しかった、じゃぁね。おやすみ」
残された沙依はヘッドフォンを耳にあて、手元のプレーヤーを操作して音楽を流す。
目を上げると、もう彰人の姿は無かった。