動物のビスケットと筍のビスケット
翌日学校へ行っても、沙依と菫恋の関係は依然として何も変わらなかった、沙依が菫恋に話しかける事は無かったし、菫恋は他のクラスメートと同じように沙依を無視の対象にしている。まぁ、急に仲良くはならない、それはしかたない事なんだろう、みんな先ずは自分だ。
以前と少し変わった事といえば、菫恋が沙依を目で追うようになったくらいの些細な事だった。
学校帰りにあのスーパーの前を通ると、たまに菫恋を見かけるようになったが、沙依が気がつくと決まって菫恋は首を横に振って、やってないよ! とアピールするようになった。
別にいいけど……。
沙依はそれが少しばかり嬉しかったが、話しかけるような事はしなかった。
暫くして、同じように前を通りかかると、菫恋が駐輪場の車止めに座って誰かを待っていた。暖かくなり始めた風に髪をなびかせ、時折腕時計に目をやって時間を気にしている。沙依は単純に絵になるなと思った。後ろにあるのが、置きっぱなしのくたびれた自転車でカゴにゴミやデカビタの空き瓶が入ってなければ、ファッション誌に載っていてもいいくらい、綺麗で華があるように見えた。
いつものように、前を通り過ぎようとすると、その日は少し様子が違うようで。沙依の行く方に立って、じっと沙依を見ている。沙依はヘッドフォンを外して、菫恋を見つめた。
「どうしたの?」
菫恋は、恥ずかしそうに「えっと……あの……」何かを言い淀んでいるようだった。肩から下げたスクールバッグからゴソゴソと、何やら取り出そうとしている。
「あの……あのね! これ買ったの。ここで。良かったら家来て、一緒に食べない?」
たべっ子どうぶつ……色々な動物が形取られたビスケットだ。ビスケットには一つずつ英語で動物の名前が書いてある。
「…………」
遊びにおいでと言っているんだろうか? 小学生みたいな誘い方だなと思うと可笑しくって。思わす、クスっと笑いが漏れた。
「えっと……違うの。み、見張ってて欲しいの! わたしを。その間は悪い事しないでも……済むし、万引きとか……その、いろいろ」
「Ox」
「え? おうし」
そう言って、歩き出す。たまには寄り道して帰るのも楽しい。
「Turtle」
「かめ」
「Lynx」
「おおやまねこ! 簡単!」
「Fur seal」
「ファーシール……お、オットセイ!」
「じゃぁ、Peafowl」
「……ねぇ、綾瀬さん、手繫ぎたい……」
そんなこと言われるのは、小学校以来だ。
「おっきな妹みたい」
それ以来、菫恋と話すようになったんだっけ。
菫恋の生活感が無い程に片づけられた部屋を一通り見渡して、沙依はあと何度ここに来るだろう……そんな事を思った。
「じゃぁね」
そう言っても菫恋は、沙依の袖を掴んだまま離そうとはしない。ただ黙って沙依を見ている。
「……私、帰るよ?」
ドアーの方へ向くと、もう菫恋の指に力は入っていなかった。
二階にある菫恋の部屋を出て階段を降りると、階段脇のトイレから男の人が出てきた。お父さん? にしては少々若いようにも感じたが、沙依はペコッと頭を下げて「お邪魔しました」と伝えた、その男の人は笑顔で「おっ! ご苦労様」と返し、リビングへ入って行った。
お父さんかぁ……いいな。
玄関で靴に足を突っ込み、トントンと履く。時計を見ると四時を過ぎていた、献血ルームは五時までだ。
ギリギリかもしれないけど他に用事もないし、行くだけ行ってみよう。
沙依が部屋を出た後でも、菫恋はしばらくそこから動けずにいた。
引き止めればよかった、一緒にいてって言えばよかった。今日はこのまま、ここには居たく無いし、どうしようか外へ出ようか? お母さんには今日帰ったら部屋から出るなと言われた、玄関で会わなければいいけど。
とりあえず身支度を整えるためにクローゼットを開ける、生活感が無い部屋とは程遠い、脱いだままの衣服が雑然と積み上げられていた。どれが着たものか、洗ったものかも分からなかったが、どれでも構わない。着られそうなものを見つけて引っ張り出す、つられて他の衣服もクローゼットから崩れ落ちたが菫恋は気にする様子もない。
パーカーだ、あれ一つ着ればどうにか格好がつく。
山の中から目当ての物を探す、気が付くと足下の散らかした服の中に紛れた、制服を踏んでいた。制服だけはハンガーに掛けて、シワにならないように分けておく、学校でみんなの前で着る服だから、これだけは綺麗にしておかないといけない。
ベッドの上の携帯と財布をポケットへ入れ、そっと部屋を出る。足音がしないように階段を降りるとリビングから、男女のイチャついた声が漏れ聞こえた。女の方は間違いなくお母さんだ。男の声は、これまで聞いたことのない声だった。また別の男かもしれない。
お母さんは以前浮気をお父さんに咎められてから、それを隠そうともしなくなった。前までは隠れて付き合っていたようだが、今は頻繁に家へ連れて来る。その頃から家の事もしなくなって、今はわたしが家事のほとんどをしてる、出来るだけ自分の時間を作るため洗濯などはまとめてするのだけど、お母さんの連れて来る知らない男に見られるのが嫌で、着終わった服や、下着を部屋にため込むようになった。
お母さんとはもう随分と一緒に食事もしていない、冷蔵庫に買い置きしてくれている食材やお米で、ご飯を作ってお母さんのために置いておく。最近ではその食材も、無くなったまま補充されることが無いことも増えてきた。
一度お父さんに、出来るだけ帰って来てほしいと相談したことがあったけど、うなずくだけで行動に移しては来れ無かった。
毎月の小遣いは父親から貰っていた、一度母親がテーブルに用意してあった菫恋の小遣いを持って遊びに出てしまってからは、口座へ振り込まれるようになり、ますます父親と会う機会も減っていった。
今は毎月の小遣いと、学校の購買で買う昼食代を父親から貰っている。母親が食材を買い置きしない時は、自分の小遣い中から、母親の分の食費も賄っていた。
菫恋は音が立たないように靴を手に持ち、とりあえず見つからないように玄関を出る。外へ出ると、靴を履いて、自分の家を振り返った。
何時ぐらいなら、帰って来ても平気かな? あの人遅くまでいたら嫌だなぁ……。お父さんは仕事で留守が多いし、わたしにはあんまり干渉して来ないから、話す機会も無いし。お母さんがまた浮気していることは知ってるのかな?
うん。……知ってるかもしれない。知っててもう……。
そう思うと居ても立っても居られなかった、自分の立つ場所もなく、安心できる場所も無いように感じた。携帯をポケットから出して、父親の番号を表示する。父親に言うべきかいつも自問する、でもいつだって掛ける事は出来ないでいた。
こういう話は電話でなんか知らされたく無いだろうし、しかも、わたしからなんて。
携帯で時間を確認する、四時半を過ぎている。
お父さんがもし帰って来るとしたら、早くて十時過ぎ……ああ、絶望的に長い……。
これからどうしよう……。
改めて自分を見ると部屋着の上にパーカーを羽織ったくらいのラフな格好だった。あまり人目に付く所には行きたく無かったしクラスメートにも会いたく無かった。
菫恋はクラスでの自分の立ち位置を理解していた、みんなが菫恋に寄せる期待。成績優秀、笑顔でハキハキとしていて男女関係なく誰とでも話して、人望が厚くリーダーシップがある。そのどれをとっても、実際の菫恋とは程遠い。自分ではそう思っている。期待されることは嬉しいし、そうなれるように努力もしている。
でも人望なんて無い。リーダーシップだって、頑張って身につくもんじゃないでしょ? 勉強は頑張ってるけど、それだってお母さんと同じ空間にいるくらいなら、勉強してる方がましなだけ。クラスのみんなから無視されてる沙依を、助けるどころか、火の粉がかかるのが怖くて、自分もそれに参加しているし。それでも沙依はわたしに優しい、どうしてあんな風にいられるんだろう、沙依に会いたい。わたしの全てを許して受け入れてくれそうな気さえする。
取り敢えず近くのコンビニにでも行ってみよう。
菫恋はトボトボと歩き出した。日が沈むのが少しずつ遅くなっていた、もう直夏が来る。一体いつまでこんなことが続くんだろう、先の見えない不安が暗雲を垂らす。
二年生になって、沙依と話すようになってから随分彼女に救われてる。今は沙依のことを考えていると、嬉しかったり、恋しかったり、ワクワクして気持ちが上がる。好き過ぎてやばい。
スーパーで沙依に万引きを咎められた時は、こんな人だとは思って無かった。逃げられないように手を握られて、取ろうとした物を一個一個売り場に戻しながら、後ですごく嫌なこと言われるのかなとか、これをネタに何んかされるのかとか、色んな心配をして気が気じゃなかった。噂では、物凄い補導歴で素行が悪くて、よくない人たちと付き合ってるて言われてるし、一年生の時は、髪型も髪の色ももっと派手だった。近付き難い雰囲気をしていたから。
でもあの時、「じゃぁね」って言った、あの顔の優しい笑顔が今でも頭から離れない。こっちは黒い噂の同級生に万引き見つかって戦々恐々としてるのに、まるで良いことがあって良かったねって言ってるみたいだった。そんなことされたら、気にならないはずないよ。学校でずっと見るようになってた沙依のこと。目が勝手に見ちゃう。
沙依の使ってるヘッドフォンてマーシャルの四角いやつ、かなり可愛い。リュックもスクエア型のダットンの帆布のやつだし。チョコチョコ私の好きなとこ突いてくる。
まつ毛もボリュームあって長いし。でも学校じゃ、沙依はずっとみんなから無視されてて、周りの目があるし、怖くて話が出来ないから、いつも見てるだけだったなぁ。
どうにかして、友達になりたくて家に誘ったら笑われたっけ、ふふふ。でも話したら噂とは違って怖いなんて、そんなこと全然無くて、めちゃくちゃ可愛くて。あんな噂全部嘘なんだって思った。沙依のわたしを見る目が好き。声が好き。人に優しく出来るとこが好き。そう思ってたら全部が欲しかった。沙依はわたしの持ってない物をみんな持ってる。あの日わたしの『好き』を全て受け入れてくれた沙依。わたしは沙依のことを受け入れられている? 学校では一人でいる沙依。わたしは何もしてあげてない。沙依と同じになるのが怖くて。そんなに強い人には見えない。体だって華奢だし、唇だって柔らかくて気持ちいいし…………。そうだよ、柔らかくて気持ちいぃ。
わたしは安全な所から、無い物ねだりをしてるの? 全てを手に入れたいけど、何も手放さないつもりで沙依のそばに居ようとしている……それって。
わたし、お母さんと同じことしてる?
随分前に母親が男を家に連れてきた日、菫恋は自室から絶対出るな! と強く言われ何が何だか分からないうちに、下の寝室から漏れて聞こえる、母親の声に耳を塞いだ。ビックリしたが何が起きているのかは、歳ごろだったし、大体想像出来た。声から逃げるように布団にくるまった。
聞きたくない! やめて! お母さん!
そう思うほどに耳の神経は、小さな声や物音に神経を集中させていった。
きもちわるい! きもちわるい!
わたしが好きな沙依としたい事が、お母さんがお父さん意外の人としてることと同じって、そんなはずはない、私間違ってる? だってそうでしょう、お父さんに養って貰ってるのに、自分は安全なとこに居て……でも何だコレ心がモヤモヤする。嫌だこんなの。
学校での沙依は可愛そうだ、いつも一人でいてほとんど声を聞かない。学校で笑ってるのも見ない。でもわたしはみんなと一緒に楽しくて安全なとこに居て……。
わたし間違ってるの? でも下手したらわたしが一人になるかもしれないし。学校の外でなら、わたしの前なら沙依は一杯笑ってる。でも、クラスのみんなには沙依と居るところ見られたくなくて二人で町に出たりはしてない。これってお母さんと同じ?
さっきまで沙依の事を考えて、スキップしたいほど嬉しい気分だったのだが、今や現状を思い出した足取りは、前に進むことすら拒絶して、人の疎らな往来で蹲ってしまった。