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池袋

 蒸しっとした風が、頬を伝う汗を拭う。拭われたところから、またじっとりと煩わしい体液が溢れ出てくる。

 じっとりとした額の汗を、暁人は手の甲で拭き取った。



 市営住宅の下で、かれこれ五分ほど待っている。植木にもたれながら、日陰に入り込み暑さを紛らわす。

 青々しい草木の隙間をすり抜けて、夏の陽射しが激しくスマートフォンの画面に反射する。

 お気に入りのアニメのキャラクターの笑顔を隠すように、十時三十分と表示されていた。



 片手をズボンのポケットに突っ込み、三〇六号室の小さな窓を眺めた。

 銀縁の窓枠が、まだ南の空まで登りきらない太陽の光を集めている。薄いカーテンが光の幕をしっかりと張り、中の様子をひた隠す。



 ジュンに服を買いに行こうと誘われたのは、一昨日、花火大会にみんなで行くと決まった日だった。



 暁人は、余所行きの服を持っていなかった。それでも、適当にネットで探せばいい、とたかをくくっていた。だが、いかんせん服など自分で買ったことがない。

 いくつもファッション系のサイトのタブを並べて思案したが、結局購入ボタンを押せなかった。



 もう、ジャージでもいいのではないか。とも思ったが、浴衣を着てくると言っていた花菜のことを想像すると、そういうわけにもいかないように思えた。



 それなら、ジュンに服選びの心得の教示を受けようと、暁人がジュンに連絡をしたところ一緒に買い物に行くことになった。



 手に持った暁人のスマートフォンが震える。



『今、降りる』



 短文のメッセージが表示された。それを見て、暁人はもたれていた木から腰を浮かす。騒がしいセミの声を見上げながら、暑さの照りつける日向へと向かうのが随分と億劫に思えた。



 階段の下まで行くと、ちょうどジュンが降りてきた。



「ごめん。待たせたな」




「いつものことじゃん」



 遅刻癖は治ったんだけどなぁ。少し、バツ悪そうにジュンがはにかんだ。



 ジャラジャラとした大きなネックレスが首から伸びている。ジャージ姿で、この横を歩くのは少しだけ恥ずかしいと思った。



「そんじゃ、いこうか」


「どこ行くの? 駅前?」


「せっかく買うんだから池袋でいいじゃん」


「え? 池袋?」



 そ、池袋。軽い返答をして、ジュンは歩き出す。



「待って、今から東京行くの?」


「うん。ダメだったか?」


 ジュンが立ち止まり、こちらを振り返る。首に男らしい筋がくっきりと入る。よく見れば、あれだけ細身だったジュンの首は、筋肉でガッチリとしていた。



「ダメじゃないけど。リハビリ序盤には、時期尚早というか」


「なんだよそれ」


 ジュンがクスクスと笑う。失敬な態度に、暁人はふんと鼻を鳴らした。



「荒療治でもいいじゃないか? ダブルデートなんだから、ちゃんとオシャレしないと」


「デートじゃないだろ」


 カッと暁人の顔に血が通った。赤らんだ頬を見ないフリをしてくれたのか、ジュンがまた歩き出す。


「俺と友美は、デートのつもりだけどな」


「大原は、そういうつもりじゃないだろ」


「そんなの分かんないぜ」



 からかうように、ジュンが喉を鳴らす。

 楽しげな背中に腹が立ち、暁人は小走りでその背中に追いつき、軽く拳を入れた。




 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 人が多い。流されそうな人の波を掻き分けながら、暁人は必死に進む。ジュンは、慣れた様子で目的の方へとスイスイ足を動かしていた。



 山手線の池袋駅。その構内は、人がごった返していた。誰も彼もが急ぎ足。忙しない光景を、暁人はなんとなく怖いと思った。



 始めは、ジャージ姿で都心へ出てくることへの抵抗や恥ずかしさがあった。だが、思いの外、誰も暁人のことなど眼に止めていない。今も、サラリーマンの団体が、暁人の肩と激しくぶつかったが振り返る様子もなかった。



「ジュンは慣れてるな。良く来るのか?」



 暁人は、見知らぬオジサンの背を一つ挟んだ先にいるジュンに話しかける。



「もう二年半も通ってからな。庭みたいなもんだよ」



 大袈裟に言うのはジュンの悪いクセだ。

 小学校の頃、おばあちゃんの家にはオオカミがいると言って、写真を見るとシベリアンハスキーだったり。

 うちからは、スカイツリーが見えるんだと言っていたが、トイレの窓からほんとにわずかに見える程度だったり。


 きっと、庭なんていうのも、そういうものなんだろう、とジュンの言うことを軽く捉える。

 ただ、学校で通っているのだから、本当に庭の間隔になっているのかもしれない。

 気を抜くと、間違って他の若者について行ってしまいそうで、暁人は必死にジュンを追いかけた。



 構内から出ると、人混みは緩和された。ジュンの隣まで行き、はぐれないように近づいた。

 お昼が近づき、コンクリートから熱気がこみ上げてくる。すぐに、どこかの店に入りたいくらい暑かった。



「池袋なんて久々だなぁ」



 中学の頃、何度か来たことがあった。思えば、関東圏に住んでいるという東京観光だった。


「よく、秋葉原とかは行ったけどな」


「行ったよな。少ないお小遣いでグッズ買ったな」



 中学に上がりたての頃は、秋葉原に行くのだってちょっとした冒険だった気がする。思えば、あれから暁人自身はなにも変わっていない。

 池袋にまで出てくることも、少しだけ怖さがあった。

 大袈裟に言うのが、ジュンのクセだなんて思ったが、あながち自分も同じなのかもしれない。


「それで、どこの店に行くんだ?」


「えっとな。ちょっと待って」


 スマートフォンの地図アプリを立ち上げ、ルートを確認している。庭で地図を使うジュンの姿に、暁人はほんの少しだけ口端を緩ませた。


「こっちだな」


 手招きした、ジュンについていく。自分の庭を、不安そうに地図を見ながら歩く背中がなんとなく可愛らしく思えた。


「なんか、こういうのが着たいとかあるか?」


「ジュンのセンスに任せるよ。俺、全然ファッションとか分からないし」


「俺だって、友美から色々教わってからだからな。昔は全然、ダサかったし」


「俺は、その頃のままなんですけど?」


 いやみったらしく暁人は言う。引き込っていたことは、なんの自慢にもならないことがおかしくて、二人は大きな声を出して笑った。


 笑い合うタイミングが同じということが、なんとなく嬉しい。こういう感覚が友達なんだと、暁人はぼんやりと考えた。

 つい口走ってしまう自虐的な言葉も、ジュンに心から気を許しているからに違いない。

 雪解けのように心の中に降り積もった苦しみが、少しづつ溶け出していく気がした。


「ジュン、牧野とはいつから付き合ってるんだ?」


「あーそういうこと聞く?」


 細くなった目が、暁人の横顔を見つめた。見たことのないジュンの表情に、一瞬暁人は戸惑う。


「言いたくならいいんだよ」


 ふっと力が抜けたように、ジュンの瞼が閉じられる。わずかに吐かれた息は、体温より熱い空気の中へ溶けていった。


「そういうんじゃないよ」



 優しくなった瞳に、子どものような表情をした自分が映る。目の前にいるジュンが、随分と年上に思えた。

 止まった時間が、ようやく自分の中で動き出していることに気づく。

 どうやれば、今まで止まることなく動いていたジュンに追いつくことができるのだろう。暁人は、タイムスリップのやり方を知らない。



「中三の頃かな。ちょうど、暁人のことで色々あって。二人で話す機会も出来たんだ。受験する高校が同じ分かってからは、塾とかでも勉強を教え合ったりもしてな。都内の高校に進学したら、どうして周りに知り合いがいないだろ? 自然と良く近くにいたんだ」



「そんな感じで付き合っちゃうのか?」



 暁人には、恋愛事情なんてものはよく分からなかった。なんとなく自分が愛のキューピットで、キッカケを作ったことになるようだ、と理解した。少しだけ不服でもある。



「なんだよ。馴れ初めをそんなに詳しく聞きたいのか?」


 今度は、はっきりと冗談だと分かる表情をジュンがする。



「いいよ、いいよ。お熱い様子で何よりだ」


 ふん。と嬉しそうにジュンは鼻を鳴らした。



「仲がいいのは、いいことだよ。大学も同じ大学に行くの?」


 ジュンの顔がふいに曇った。聞いてはいけないことだったのか、と暁人は思わず顔をしかめる。自分の発言を思い返すが、特に問題になるようなところが見つからない。


「友美は、東京の大学を受けるんだ」


 吐露された言葉が、アスファルトジャングルの喧騒に飲み込まれていく。しっかりとしたジュンの体躯が、自信なさげに小さくなる。


「ジュンは?」


 思わず、聞かずにはいれなかった。分かりきった答えが待つ質問を暁人はぶつける。


「俺は、地方の大学にいこうと思ってるんだ」


 どうして? 暁人は、釈然としない思いを口にする。

 恋人同士が同じ大学に行かなくてはいけない理由などないのだが、行かない理由もまたそれに等しくないように思う。



「なんとなくかな。もちろん、勉強したいことがあるっていうものある。ただ、少し友美との関係を考えなくちゃいけないなって」



 恋人との距離感。随分と大人な響きだと思った。好きならくっついていればいい。嫌いになれば離れればいい。簡単に恋人というものを考えていた。異性と付き合うということは、時にそういう考えになるものか。暁人は、自分の知る余地のない世界の話を、至極真面目に聞く。



「嫌いってわけじゃないんだろ?」



「うん。そうだな。なんというかな‥‥」



 ジュンは、雑居ビルの入り口にあった自販機の前に立ち止まる。ジーンズの後ろのポケットから財布を取り出すと、硬化を二枚指でつまみ上げた。

 投入口に硬化を入れる。『つめた~い』と間の抜けた文字の下にあるボタンが赤く光る。



「友美が変えてくれたんだよ。オタクで根暗だった俺が、部活に入ったりおしゃれしたり。もちろん、オタクな趣味だって失くしたワケじゃないけど、普通のこともできるようになった。友美がいなくちゃ、高校で友達が出来なかったかもしれない」



「じゃ、なんで?」



 暁人の声をかき消すように、ペットボトルの炭酸飲料がガッチャンと音を立て落ちてきた。

 大きな体を小さく屈め、ジュンは自販機の中に倒れているペットボトルを取り出す。



「たぶん、友美がいないところで一度頑張ってみたいんだ。もちろん友美のことは、好きだし素敵な彼女だと思ってる。でも、距離を置いてみたいんだ」



 優しげに揺らめく双眸が、過ぎていく雑踏を見つめていた。ジュンは、自分勝手なことを言っているわけじゃない。二人の間にしか分からないことがあるなら、これ以上聞くべきでない。暁人は、そう思った。



 太く男らしい手が、赤いキャップをつまむ。掴んだ手を捻り上げると、腕に綺麗な静脈が浮き出た。

 プシュっと炭酸が一気に抜けていく。溢れ出そうな黒い泡を、ジュンが必死に口で押さえ込んだ。


「はずれだったな」


 服を汚さないように、ジュンは体を曲げてこぼれ出る泡を避ける。クスクスと、暁人は笑いながら慌てるジュンを指さした。   


「ほんとハズレ引いたわ」


 半分ほど残ったコーラを、ジュンは一気に飲みきった。炭酸が抜けて、ただの甘く黒い液体となっていたのか、ジュンは少し顔をしかめた。


 春になれば友人が離れていくことが寂しい。今までその友人と絶縁になっていたというのに、そんなことを思うことが、なんとなく不謹慎なように暁人は感じた。


 店の前に着くと、ジュンはショーウィンドウに並んでいるマネキンを指さした。


「暁人これ似合いそうだな、これでいいんじゃないか?」


 そういうところも、変わらないお前の悪い癖だ、とヤジるように暁人は微笑んだ。

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