現実
駅のターミナルで花菜の家の車を降り、ジュンと友美と別れた。長く続くテールランプを横目に、暁人はぼんやりと歩き始める。
均等な間隔で並んだ黄色い街頭が、小さな羽を肌たかせる蛾を吸い寄せる。チカチカと鮮やかな弧が、光の筋を遮っていた。
――なんとなく、家には戻りたくない。
二十二時過ぎ。賢人が丁度、塾から帰って来る時間帯だ。今、家に帰れば、また出くわせることになる。それが嫌で、あてもなく足を動かした。
整備された幹線道路沿いの道は、人通りが疎らでなんとなく居心地がいい。無機質な雰囲気が漂う景観に名残惜しさを感じつつ、大型の商業施設の明かりから逃げるように、とぼとぼと舗装されたレンガ作りの道を進み続けた。
大きな丁字路で信号に引っかかった。正面には、新築のマンションが景色を潰す。エントランスホールは、綺麗なガラス張りになっていて、よそ者を寄せ付けない雰囲気を纏っていた。
歩行者信号の横に、赤い数字が点滅する。シグナルの変わるカウントダウンは、五秒刻みにその数字を変えていた。
夢のような時間だった。浴衣姿の花菜と一緒に花火に行けるなんて。
先程までの花火大会での出来事を思い出しつつ、それが夢か現実かの分別をつけるように、心の中で暁人はつぶやいた。
この数時間で肌身に感じたすべてが嘘のように感じてしまう。妖麗だった花菜の姿を瞼の裏に映すだけで、胸は自然と弾み出す。高鳴る鼓動が、全身に軽快なリズムを奏でる。今にも、スキップで駆け出してしまいたい。
シグナルが青に変わってスキップで駆け出す自分の姿を想像して、冷静に舞い上がる思いを抑え込んだ。思わず、口端が釣り上がる。
信号待ちの丁字路には誰もいないのに、ふいに恥ずかしくなって口を押さえ込んだ。薄っすらとかいた汗が、手のひらにじっとりと馴染む。
ふと、夜空を見上げた。
アスファルトの色を写し込んだような夜空に、ぼんやりと灰色の影が流れる。しっかりとした雲のその隙間に、よく目を凝らせば大きな一等星が瞬いていた。
自分が失ったものは、星のように掴めないものだと思っていた。あの日に閉じた扉は、星を覆い隠す分厚い雲のように、楽しかった日々を隠しこんだ。扉という雲の向こうには、もう星などないようにさえ感じていた。
だが、こじ開けてくれたその扉の先には、しっかりと星はあった。
気がつくと、車の流れが止まっていた。信号を見ると、カウントダウンは終わっていた。代わりに、青信号の長さを伝えるメーターが減っていく。
ずっとその場で立ち尽くすのも変な気がして、暁人は一歩踏み出した。
家路に向かうべき足取りは、その行き先を忘れて軽くなる。
車のヘッドライトが照らす、黒と白の縞模様を横切っていく。足は、ほんのりとスキップのリズムを奏で、スニーカーが軽くアスファルトを蹴った。
まるで、舞台をかけ回る役者の気分だ。立ち並んだ真新しいマンションの明かりが、舞台背景のように流れる。車のヘッドライトがスポットライトのように、ステージを照らし、場面を移り変わらせる。
軽快なクラシック音楽でも流れれば、ここがブロードウェイのミュージカルのワンシーンに変わっていくことだろう。
踊りだした心は、見えるすべてを明るく変えていった。煩わしい羽虫さえ、舞台の上の役者になる。
世界の作り出す輪郭が、今は鮮明に見えた。単色な景色が織りなす街並が、美しく華やかで温もり溢れるものに思える。
無性に叫びだしたい気分になった。思い切り喉を震わせれば、すべてが変わっていく気がした。
恥じらいが、そんな暁人の衝動を抑え込んだ。久しぶりに、感じた幸せな気持ちに、思わず頬が熱くなる。
きっと花菜と過ごせたからだろう。脳内に浮かぶ、花菜の笑みが消えないように、暁人は必死に記憶を焼き付ける。
やがて暁人の前に、小さな公園が現れた。
賢人と一緒によく遊んだ公園だ。まだ互いが小学生の頃、ろくに出来もしないキャッチボールをここでよくしたものだ、と物思いにふける。
懐かしさと同時に悲しさを感じた。当時、あったはずの遊具の殆どが無くなっていた。錆びたシーソーも回転する鉄の遊具もその姿を消している。残っているのは、白い柵に囲まれた砂場と小さな滑り台だけだった。
取り残されたような気持ちが、明るかった心をどんよりと鎮める。戻らなくてはならない場所へと、暁人は足を動かし始めた。
トボトボと鳴っているように聞こえるスニーカーの音が、耳障りに耳に響く。夜だというのに蒸し暑い風が、アスファルトから込み上げて暁人の頬に纏わりついた。
キーッ。暁人の背中の方からブレーキの音が軋んだ。自転車のヘッドライトが、暁人の正面に長い影をつくる。
広くはない歩道の真ん中を歩いていたことに気づき、慌てて道を譲った。
暁人は、何も言わずに軽く頭を下げる。相手の自転車も何もいうことなく、ゆっくりと暁人の前を通り過ぎようとしたところで、またブレーキが軋んだ。
「暁人か?」
着慣れない声が、自分の名前を呼んだ。
呼ばれた声に反応して、暁人は顔を上げる。
赤色の自転車に、スラッと長い脚が跨っていた。肩からエナメルの大きなスポーツバックがぶら下がる。ねずみ色のスラックスに、白いカッターシャツ。鳥をモチーフにした校章は、なんとなく見たことがある。県内の公立高校の制服だ。
「なぁ、暁人だろ?」
もう一度呼ばれた自分の名前に、今度はしっかりと暁人は顔を上げた。
真上に位置した街頭が、辺りにしっかりと明るさをもたらす。男の顔ははっきりと見えた。
整った眉に凛々しい鼻立ち、清潔感のある短い髪がシュッとした輪郭をはっきりと見せつける。その体躯は細いものだったが、しっかりと筋肉がついていて、なおかつ縦に長い。座っているのに、暁人はその顔を少し見上げた。
男に、見覚えや面影があったとかじゃない。話し方や仕草がそうだったとかでもない。ただ本当に、直感的に暁人は目の前の人物が誰かのかが分かった。
「春樹か?」
暁人はツバを飲む。湿った音が喉の奥で鳴った。粘り気を帯びた唾液が、ゆっくりと喉を転がっていく。
自分でもどうしてそう思ったのか分からない。ただ、目の前のスポティなイケメンが、春樹だと認識してしまった。
確かめるように聞いた暁人の問いに、男はコクリと頷いた。
「久しぶりだな」
ボサボサと髪をかきながら、はっきりとした二重がたるむ。薄い瞼の奥に潜む双眸に、困惑した自分の姿が映り込んでいた。敵意のない春樹の声は、どこか優しいものだった。
「春樹、ここでなにしてんだよ?」
暁人は、自分の声が強張っていることに気づく。衝動的に、眉間に皺を寄せていた。すごんだ素振りが気恥ずかしく、ゴホン、と暁人は喉を鳴らした。
暁人に気圧されたのか、春樹は自らの手の方へと視線を落とす。大きく太い手が、水平なハンドルのグリップを握りしめていた。
「予備校の帰りだな」
わずかに震えた声で、春樹はそう答えた。
暁人は、苛立ちに似た感情を覚えた。熱くなった血が全身を伝う。それなのに、体は冷たく、力を込めた爪の先がひんやりとした感触の肌に食い込んだ。
興奮気味になった脳が、ひどく攻撃的な言葉を簡抜する。どれもが、今すぐに口から飛び出していきそうで、暁人は思わず下唇を噛み締めた。
怒りなんてものはないと思っていた。あの日の犯人が、春樹だと確定したわけじゃない。だから、ただ会うのが怖いだけなんだと思っていた。一度、会ってしまえば、また仲の良かった頃に戻れる気がしていた。
それでも、最後の春樹の言葉と、最近の花菜や友美の発言からおおよそはそうだと確信している。
いざ春樹を目の前にすると、自分はこんな風に感じるんだ。どこか他人行儀な自分が、舞い上がる感情を押さえ込んでいく。俯瞰で見た自分が、なんとか冷静さを連れ戻して来てくれた。
大きく息を吐き、呼吸を整える。
「随分と、大荷物だな」
予備校帰りにしては、春樹は随分大きな荷物を背負っていた。紺色のラインが入った有名ブランドのエラメルバックを、暁人は顎の先で指す。
「あぁ、こっちは部活の荷物なんだ」
「そっか」
自分が想像しているよりも、冷たい態度が口から漏れ出てくる。トゲが突き出た言葉が、喉の奥に引っかかる。そんな痛みは、心地よいものではなかった。
それに対して、春期の言葉には棘がない。緊張しているのか、どことなく体は固く、ただ表情は柔らかい。清潔感のある肌が、夏の空気と色気を纏っていた。
「暁人は、なにやってるんだこんなこところで?」
春樹は、洒落た格好をした暁人を上から下まで舐めるように見つめた。
不思議そうな彼の表情に、なんとなく花菜と一緒にいたことは伏せたくなる。
「ジュンと花火大会に行ってたんだ」
「‥‥ 花火大会? あぁ、鎌ヶ谷スタジアムか」
優しさを纏った表情の奥に、どんな感情が潜んでいるのだろうか。今の大人びた春樹からは、あの日の姿は想像出来ない。むしろ、それ以前の彼の姿が思い浮かぶ。ジュン、春樹。三人で遊んでいた小学生の頃の。
今なら聞ける気がした。あの時、落書きをしたのはお前なのか? と。脳内に浮かんだ言葉が、ぐるぐると腹の中をよじれまわる。
それでも、そいつは中々外に出ようとしない。
あぁ、俺だ。そう言われるのが、すごく怖かった。
暁人は、腹に居座るその言葉を奥底へと閉じ込めた。
「ジュンか、懐かしいな」
思い出を噛みしめるように、空を仰ぎ見た春樹の顎には、小さなかさぶたが痛いたしく血の気を帯びていた。
整えられたもみ上げの縁を滑り落ちた汗が、顎先に溜まる。引力に逆らえなくなった雫が、ポトリと落ちる。
「懐かしいのか?」
淡白な声色が、夏の湿った空気を吸い上げる。重たくなった言葉は、アスファルトの底へと沈んでいくようだった。
「そりゃ、懐かしいだろ? もう何年前の話だろうな」
嘘っけのない言葉が、虚しく暁人の心を乾かしていく。彼が遠い過去に感じている日々は、暁人にとってこの間の出来事なのだ。
部屋に籠もっていた日々は、一瞬で過ぎ去った。春樹やジュンが経験したすべてを暁人は経験してない。
自分の三年感が、虚しく感じる。無意味、無駄、虚無。頭に、過ごしてきた時間を否定する言葉が並んだ。
暁人は、真新しいシャツの裾を握りしめる。ひっぱっられた生地が、首の後ろ辺りを締め付けた。
「ジュンとは、連絡取ってないんだろ?」
「うん。取ってない‥‥」
「なら懐かしいなんて言うなよ‥‥」
夜闇色が、二人の間にポツリと影を落とす。静けさを滲ませた気まずさが、言葉と言葉の間に隙間をつくる。
あまりに強くなった口調に、暁人自身もうろたえる。それでも、春樹が懐かしいということが許せなかった。
甲高いサイレンが遠くで響いた。拡声器の声は、空気で割られ聞いとれない。遠くから近づく大型バイクのエンジン音が、まばゆいほど明るい光を連れて、暁人たちを追い越していく。
「同窓会やるんだろ?」
春樹が沈黙を破る。
しっかりとした手が、自転車のハンドルをにぎり直した。ヘッドライトの明かりが、わずかに揺れる。縁石の隅に、白い花が揺れているのが見えた。
「うん」
暁人は頷き、言葉を続けた。
「春樹は行くんだろ?」
「あぁ、そのつもりだ」
「そっか」
「暁人は来るのか?」
「行くつもり」
「そうか、良かった」
良かった。春樹のその言葉に、暁人は眉をひそめる。その表情を見て、春樹は言葉を足した。
「花菜がやりたがってたから。出来るだけ多くの人が来てほしんだ」
潤んだ瞳の奥に、花菜の笑みを見た気がした。やはり、彼もまた彼女の美しさに魅了さてしまった一人なのだ。
暁人は、空を見上げた。薄い雲が、かすかに青を感じられる空を覆い隠している。ふっと息を吐きかければ、取り除くことができるだろうか。
自分の心の雲に、息を吹きかけて見るけれど、晴れることはない。また、腹の奥に秘めたはずの問いが、もぞもぞといやらしく暴れる。
暁人が視線を戻すと、春樹はサドルに腰を下ろしペダルに足をかけていた。
「知らないんだろ?」
柔らかな笑みが、夜闇に輝く。その表情の奥になんとなく重たいものを見た気がした。暁人は、ゴクリと固唾を飲み込む。
「なにを?」
動かしかけたペダルを、春樹は止めた。妙な緊張感が街の色を変える。
「花菜の体のことだよ」
俯いた春樹の表情を影が覆い隠した。険しい表情で春樹は続けた。
「なんでこんな時期に同窓会をやりたがってるのか‥‥知らないんだろ?」
怒りに似た表情が、暁人をじっと睨む。キリッとした眉が皺を寄せている。
「なにか理由があんのか?」
「今日、花火大会一緒にいて分かんなかったのか? なぁ?」
不機嫌な声は、少し荒く。暁人を攻め立てるように春樹は続ける。
「花菜はな‥‥ 花菜は‥‥ 病気なんだよ」
聞き違えたかと思った。だが、春樹は間違いなく『病気』だと言った。
「病気ってなんの‥‥?」
自転車のタイヤが、錆びた音をたてた。アスファルトをこすった音が、鼓膜を悪戯に撫でる。
「やっぱり知らないだな」
「いやな冗談はよせよ。そんなひどいことを言うなん‥‥」
「本当だよ!」
春樹の声が荒らげられる。力んだ衝撃で、肩からかけたエナメルのバックが、自転車の荷台から滑り落ちる。
「本当なんだよ‥‥」
そう言って、春樹は病名を告げた。それは、長く難しく聞いたことのないものだった。
「それってどうなるんだよ」
「長くはないらしい」
街から色が消えた。さっきまで見ていた鮮やかな花火の色が、瞼の奥に溶けていく。モノクロになった花びらが絶望に枯れていった。
「だから、同窓会をするんだよ‥‥ 分かるだろ‥‥ 最後にみんなに会いたいんだ‥‥ 絶対に来いよ」
そう言って、春樹は自転車を漕ぎ始める。ただ呆然と、暁人は自転車が闇の中へ消えていくのを見ていた。何台もの車が通りすぎていく。ハイライトに照らされた自分の影の輪郭が伸びてはまた消えていく。ただそれを見続けた。
花菜の容態が悪化して入院したのは、同窓会をする前の日だった。
――第一部 完
第一部終了です。
この続きを書くか。ファンタジーものを書くか悩み中です。




