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金魚

 ガヤガヤとした声が、シラけた夜空に抜けていく。生ぬるい風が、煙った空気を遠くへと連れ出して行った。


「シートの上のゴミ取ってくれ」


 ジュンがブルーシートを折りたたむ。裏地に貼り付いた泥を丁寧に落としながら、大きなビニールの袋の中へとしまいこんだ。


「まだ、屋台やってるかな?」


 友美が、場外へと出ていく人波の奥に目を凝らす。スタンドの大きなライトが照らすグランドに、無数の長い影が奇怪な模様を織りなしていた。


「どうだろう? なにか買いたいのか?」


 ジュンは、手についた泥を払う。爪の隙間に土が入ったのか、茶色く汚れていた。


「ベビーカステラが食べたい」


「ベビーカステラなんてあったっけ?」


 子どものわがままのような言い草をする友美に対し、ジュンは首をかしげる。


「多分、あったと思うよ。トイレに行く時に見た気がする」


 割って入った暁人に、友美がニコリと微笑んだ。ほら? と我が物顔でジュンの方を向いて顎をグッと突き出した。


「分かったよ、最後にそこ寄っていこう」


 仕方がないな、と言いたげなジュンだったが、それほど嫌そうには見えない。暁人がいることが慣れてきたのか、友美との距離感が近くなっている気がした。


「私も食べたいなぁ」


 寄り添う二人なのか、カステラの方なのか。花菜は、羨ましそうな表情を受かべながら呟いた。


「また、半分個しようね」


「俺にはくれないのかよ」


 腕にひっついたまま、えー、とわざとらしく友美は声をだす。祭りの雰囲気にあてられた二人を見ながら、暁人は苦笑いを浮かべた。


「山中も、お前は食うなよ。みたいな顔してるよ?」


「いや、あれは俺らの挙動に苦笑いしてるんだろ?」


 ジュンは、近づく友美の顔から目を反らす。


「ねぇ、なんで照れてんの? いつもはこれくらいでしょ?」


「バカ、暁人と牧野の前だそ」


 照れるジュンをからかうように、友美はひっついた腕を自分の胸に押し当てた。

 ジュンの顔が朱色に染まる。おい。と低い声を出して友美の腕を振り払った。


 やり過ぎた、と反省したのか。友美は、スッとジュンから離れた。花菜の方に視線をおくり、一瞬目配せする。ぺろりと出た舌先は、まだ少しだけブルーハワイの青が残っていた。


「行くぞ」


 恥じらいをごまかすように、ゴホッ、とジュンは咳払いをする。


 怒ってない。そう主張するように、その声はとても優しいものだった。




 場外に通じる唯一の道には、人がごった返していた。ゆっくりと進むせいで、ズリズリと、靴がすられる音が周りから聞こえる。


 はぐれないように、友美はまたジュンの近くに擦り寄っていた。この人混みでは、さすがにジュンも文句は言えないらしい。桃色になっている頬に自覚がないのか、真っ直ぐと出口の方を見つめていた。


「まだ、屋台やってるみたいだな」


 一番背の高いジュンが、少し拓けた広場の屋台の明かりを見つける。

 人混みの隙間に、暁人も赤い提灯を垣間見た。


「ベビーカステラどっちだって?」


 友美の顔が、後ろにいた暁人の方に向けられる。嬉しそうな瞳の奥に、僅かな寂しさが見えた。


 春からジュンと離れるかもしれない。友美の心情を考えると、今の友美の行動も可愛いものに暁人は思えた。


「仮設トイレの近くだから向こうだよ」


 暁人の顔の前に白い腕が伸びた。華奢な輪郭の先にピンと指が張る。隣にいた花菜が、人の流れから大きくハズレた方を指さした。


 花菜が指差す先に、ジュンは屋台を見つける。あっちか。そう言うと、ジュンは友美の手をギュッと握った。


「はぐれんなよ」


「え?」

 驚いた様子で友美は、掴まれた自分の手に目をやった。


 ジュンは、掴んだ腕を自身の体の方へと引き寄せた。少しよろけた友美は、ジュンの胸の中へ飛び込んだ。


 有無を言わさぬまま、人の流れに逆らい、ジュンは友美を連れて人混みを掻き分けていく。




「えぇ」


 暁人の少し馬鹿げた声が漏れた。思わず出た声に、慌てて口を手で塞ぐ。


「どうしよう?」


 花菜は、困った表情を浮かべながらこちらに目を向けた。


「どうしようか?」


「行っちゃったね」


「うん」


 そんな会話を交わしているうちにもみるみると、人の波に流されていく。ジュンと友美の姿は、もうすっかり見えなくなっていた。


「追いかけないと」


「え?」 


「ほら、追いかけないと」


「うーん。いいんじゃない?」


 そう言って、花菜は正面を向いた。笑みとも真顔とも取れる横顔を、暁人は凝視する。まとめられた黒髪が、わずかに解れかけている。虫に刺されたのか、首元に小さな赤い斑点が出来ていた。


 追いかけなくてもいい。


 暁人は、心の中で花菜の言った言葉の意味を噛み砕く。期待していない答えに、暁人は不思議と胸を踊らせた。


 ドキドキと心臓の鼓動が早くなる。隣にいる花菜の存在が、周りの人混みの中で特別なの感じた。


「なんで追いかないの?」


 聞いた瞬間に、聞かなければ良かったと後悔する。花菜の返答は、容易に想像できたからだ。


 ジュンと友美を二人にさせてあげよう。きっと、花菜はそう言うに違いない。


 広場から球場の敷地内の入り口に向かうに連れ、人混みは少しだけマシになった。金魚すくいの屋台の前で花菜が立ち止まる。


「友美とジュンくんを二人きりにしてあげたいから」


 分かりきった答えに、暁人は落胆する。鼻から生ぬるい空気が漏れた。それでも、期待した胸の弾みはなかなか収まらない。


「去年も二人で来てたって言ったでしょ? 今年もそのはずだったのに、わざわざ付き合わせちゃったから」


 二人が消えていった仮設トイレが設置されている広場の方に、花菜は視線を向けた。

 子ども連れやカップル、小学生やお年寄り。たくさんの人が、楽しげな表情で家路についている。


「ジュンくんから聞いてる?」


 首をかしげたまま、花菜はこちらをじっと見つめた。暁人は、咄嗟に受験の話だと分かった。


「あぁ、あいつ地方の大学受けるんだって?」


 コクリと、花菜は頷いた。


「友美、すごく寂しそうだった。たぶん、いつもと変わらないようにしてるんだろうけど。分かるよ、友達だもん」


 近くの木から、時間を勘違いしたセミの鳴き声が響く。耳障りなはずの音が、周りの雑音を取り除いてくれた。


「距離を置きたいってどういうことなんだろうな」


 恋人関係の距離感など、暁人には分からない。そんな素朴な疑問から出た問が、思わぬ地雷を踏んでしまうかもしれない恐怖に駆られた。


 恋人っていうのはね‥‥。花菜がそう饒舌に語らいだしたらどうしよう。三年という時間は、あまりにも人を大人にするものだ、そう暁人は感じている。きっと、彼女だって。

 大人な花菜の姿が、脳裏に浮かんだ。胸の奥が軋む、ズシリと刺さるような痛みは、嫉妬というものに違いなかった。


「分かんないよ。私も恋人なんて出来たことないし」


 少しぶっきらぼうに花菜は答えた。


 その言葉に、暁人はひどく安堵した。誰か知らない男が、彼女の横にいるのは、腹立たしい。腹の底に溜まった不安がスッと消えていく。


「だけどね、」

 花菜が言葉を続けた。


「友美は、分かっているみたいだったよ。ジュンくんの気持ち。きっと、二人にしか分からないものってあるんだね。離れたくないなら、無理にでも同じ大学に行きそうだもん」


 花菜は、口端を上げる。ふふ、と声を漏らしながら浴衣の裾を掴んでめくりあげた。


「金魚すくい。やりたい」


 花菜は、巾着の紐を緩める。中からがま口を取り出すと、細い指で小銭をつまみ上げて、水槽の前に押しを下ろした。


「おじさん。一回、お願いします」 


「ハイよ」

 屋台のおじさんから、花菜はピンク色のポイを受け取った。


 ぶくぶくと泡を立てた水槽には、何匹もの金魚が泳いでいた。彩りを加えるために入れた、大きな出目金が悠々としている。


「見ててね」


 花菜は、水面と水平にポイを動かす。指の殆どが、完全に水槽に浸かっていた。わずかな波も立てる事なく、静かに金魚を隅へと追いやっていく。行き場を失った金魚の動きが鈍くなる。その瞬間を待っていたように、細い彼女の腕がピクリと動いた。勢いよく水面から、ポイを掴んだ指が上がる。激しく水しぶきが飛んだ。その波紋を感じた周りの金魚たちが、慌てて水槽の中を逃げ惑う。

 近くに構えていたプラスチック製の椀の中で金魚が泳ぐ。


「うまいね、おねーちゃん」


 屋台のおじさんが、御見逸れしたと拍手する。


 へへ、と少し照れた花菜が、こちらに振り返った。


「小学校の時、盆踊り祭りが学校であったでしょ? 私のお母さんが、PTAで金魚すくいの手伝いしててね。その時にたくさん練習したんだ」


 ささやかな自慢が微笑ましい。 


「よーし」


 そう言って、花菜は再び水槽に向かう。花菜の背中が、どことなく幼く見えた。暁人は、花菜の横に並んで腰を下ろす。


「彼氏さんもやるかい?」


「いや、そんな、彼氏とかじゃ」 


 慌てた暁人の声に反応したのか、金魚たちが慌てて動きを早くした。


「もう、大きな声だすから金魚逃げちゃったじゃん」


「ごめん」


 花菜にどやされ、暁人はうつむく。


「ハハハ、兄ちゃんゴメンな。俺のせいで怒られちゃったな。でもせっかく、可愛い子とデート来てるんだ、頑張りな!」


 屋台のオジサンは、そう言うと立ち上がり、座っていた折りたたみの椅子を片付け始めた。


「あ、終わりですか?」


「もう少し遊んでてくれていいよ。ちょっと、片付け始めちゃうけどね」


「それじゃ、お言葉に甘えて」


 機嫌よく、オジサンは屋台の裏へと消えていく。花菜の笑顔に、どうやらやられてしまったらしい。


「それにしても上手いな」


 暁人は、ぼんやりと椀の中に増えていく金魚を眺めていた。

 花菜の手にしたポイは、破れる気配などない。


「そんなことないよ、」


 水気を帯びたポイの動きが、宙で止まる。ポタポタと、落ちる雫が水面に綺麗な波紋をつくる。


「破れる時は、一瞬で破れちゃうから。気がつくと、すぐビリってね。こんなに平然としてるのに、ビックリしちゃうんだ」


 含みのある言い方に感じた。わずかに震える花菜の声は、喉の奥に涙が引っかかったようだった。

 吐息のリズムに合わせて、彼女の肩が小さく揺れる。水槽の水が飛んだのか、半襟にシミができ色が濃くなっていた。

 花菜の手が再び動き出した。金魚を追う手がゆっくりと動く。掬い上げようとした瞬間、水の反動でポイが破れた。


「ほらね」


 破れたポイを掲げ、暁人に笑みを浮かべる。どこか悲しげなその顔を見るのは、少しだけ胸が痛んだ。


「オジサンありがとう」


 花菜が声を掛けると、奥からオジサンが顔を出した。


「金魚持って帰るか?」


「ううん。大丈夫です。ゴミ、ここに置いときますね」


「ハイよ。お二人さんは仲良くな」


 ハハ、と本当っぽい愛想笑をしながら花菜が立ち上がる。


 オジサンの言葉に、少し照れながら暁人も続いた。


「ジュンたち遅いな」


 金魚すくいの屋台から、少し離れたベンチに二人は腰掛けた。ここからだと、出口の様子がよく見えるため二人を見落とすことはなさそうだ。


「一応、メッセージ送ってみるね」


 花菜は、巾着からスマートフォンを取り出す。小さな手に、あふれるほど大きな画面のものだった。


「車で帰るつもりだから、先に帰ることはないと思うけど、」


 花菜が、口をつぐむ。両手で握られたスマートフォンの画面が、体温でほんのりと曇る。


「ほら。恋人同士だし」


 オレンジ色の街頭が、花菜の頬を照らす。単色なその光は、花菜の頬が何色なのか分からなくしていた。  


「いや、近くにそういうとこないだろ? きっと、話し込んでるんだって」


 暁人は、腰を浮かせて花菜の方をみる。ドキリと跳ねた胸はむず痒く、そわそわと気持ちの悪さを感じた。


「慌てすぎだよ、」


 クスクスと、花菜は顔を伏せて肩を揺らす。背中に咲いた椿の花柄が、どことなく花火のように見えた。


「私は、ただ二人が、話し込んでるんじゃないかなーって」


 顔を上げてこちらを向いた花菜は、確信犯的な笑みを浮かべていた。瞳には涙が浮かぶ。強張った暁人の顔を見て、可笑しそうに指で涙をぬぐった。


「からかうなよ」


 自分でも子どものような反論だと思う。少し拗ねた顔をしたのが恥ずかしくて、暁人はわざとらしく鼻を鳴らす。


 ごめんね、そう言いたげに花菜の瞳が暁人を捉えた。潤んだ双眸が、無数の輝きを反射する。長く茶色いまつげに、湿った空気が纏わりつく。下瞼がピクリと動いた。微かに動いた瞳から、光が失われる。暗く深い黒色に、切なげな茶色が混じり合う。花菜の視線の先には、割れた水風船が、辺りのコンクリートの色を変えていた。


「でも大事なんだよ。一緒にいることって。今しか、一緒にいれないかもしれないじゃん」


「今しか?」


 セミの声は、消えていた。いつの間にか、閑散とした静かな広場で、暁人の声が切なく風に流されていく。  


 まるで二人が別れてしまうようなニュアンスの言葉に、暁人は顔をしかめる。ひどい。そんな感情が、ふいに胸の底から込み上げてきた。


「‥‥ほら、今年の夏は、今年しかこないから」


 取り繕うように、付け加えたれた在り来りな理由。暁人には、それが彼女の本音のように思えた。


「そうだな」


 頷いた首を、暁人はそのまま落とした。

 閉じた瞳の裏で、これまでを思い出す。部屋に引込もったまま、季節など何もなかった日々に歯を食いしばる。今、この瞬間が信じられない。今年しかこない。そんな花菜の言葉が、ヒシヒシと自分の中に溶け込んでいく気がした。


 毎年、こんな夏が来ていた。あの日を境に失われたものを、今、取り戻せている。そんな実感を、暁人は感じていた。


 花菜の腿の上に置かれた巾着が、ブルブルと音をたてる。白いぼんやりとした光が、薄い布をすり抜けた。


「友美かな」


 スマートフォンを確認すると、クスリと花菜の双眸がしぼむ。


「ほら」


 そう言って、画面を暁人に見せた。

 無理やり、ジュンの口へとベビーカステラを運ぶ友美の姿と、写真を撮られていることに照れるジュンの姿だった。


「今、私たちの分を焼いてくれてるんだって。もう少ししたら、こっちに来てくれるって」


  睦まじい二人を見て、花菜は嬉しそうにスマートフォンをしまう。キュッと締まった巾着の赤い紐が、花菜の小指に引っかかる。


「仲良いんだから、ずっと一緒にいればいいのに」


 微笑みに混じらせた懐疑的な感情が、暁人の口から漏れる。


「別れちゃうわけじゃないから。今の時代、距離なんてあってないようなものだよ」


 繋がってさえいれば、いつだって話ができる。小さなデバイスの中で完結する繋がりさえシャットアウトした暁人にとって、とても痛い言葉だった。


「生きていれば、いつだって会えるんだから」


「それもそうだな」


 また、来年もこうして花菜たちと来ることが出来れば。暁人は、そんなことを考えた。同時に、今のままの自分ではいけないようにも思う。少しづつ変わりはじめている自分だが、部屋から出て、花火大会に足を運んだだけだ。大きな一歩だと思うが、その歩幅はあまりに小さいようにも感じた。


「牧野は、どこの大学受けるんだ?」


 ふと、思ったことを暁人は聞いた。

 ジュンや友美が大学に行くように、花菜も当然行くように思ったからだ。中学生時代の彼女は、あの二人ほど優秀とまではいかないが、勉学でそれなりの成績を収めていた記憶があった。


「え?」


 花菜は、まるで聞いていなかったような声をだす。小さな目を見開き、暁人の方を見た。


「ほら、大学には行かないのか?」


「大学か‥‥」


 巾着を持つ手に力が込められる。緩んでいた布が、ギュッと張り詰めた。筋張った手首に、青白い静脈が走る。


「就職するのか?」


 あまり、高校生の進学率なんてものは知らない。花菜が通っている学校から、どれくらいの数が大学に行くのか。もしかすると専門学校だとか、色々な道もあることだろう。


 暗くなった表情を、わざとらしく晴らすように、花菜は薄いその唇の端を持ち上げた。


「まだ、決まってないかな」


「ふーん。そんなものなのか」


 高校を卒業するということは、それなりの決断が待ち構えている。ジュンのことにしても簡単に出した結論じゃないことくらい、暁人にも分かった。

 だから、暁人は花菜にこれ以上なにも聞けなかった。彼女の決断を、自分が助けられることなどないように思えた。


「いたいた」


 まばらな人の波を縫うように、ジュンと友美がやって来た。ジュンは手に、大きな紙袋を持っている。


「ほら、ベビーカステラ」


「ありがとう」


 ベンチに座った花菜に、ジュンが紙袋を手渡す。数回折られた口を、花菜は丁寧に開いた。


「俺らは、もう食べたから二人で食べていいよ」


「知ってる。牧野に食べさせて貰うと美味しかったか?」


 暁人が二ヤケてそう返すと、ジュンはギロッと友美の方を見た。


「お前、写真送ったのか」


「さぁ?」


 白々しく、明後日な方に友美は顔を向ける。


「お前ってやつは」


 半分、呆れた様子でジュンは肩を落とす。もう見られたものは仕方ない、と諦めたらしい。


「暁人くんもどうぞ」


 花菜が口の開いた紙袋を、暁人の方に差し出す。


「ありがとう」


 暁人は、小さなベビーカステラを掴み取ると、口の中へ放り込んだ。しっとりとした甘みが、口の中にふんわりと広がる。


「そうだ。カステラのお金返さないと」


「いいよ。ジュースの分を返してないし」


 ズボンのポケットに腕を伸ばしかけた暁人を、ジュンが止めた。


「でも、ジュースの方が安いだろ?」


「いいってそれくらい」


 少しだけ申し訳ない気もしたが、変に張り合うのも面倒で素直に暁人は従う。ズボンの上に溢れたカステラの粉を、暁人は手のひらで払い除けた。


「友美。最後、暁人にあれ伝えないとダメだろ?」


 ジュンは、そう言って友美を肘でつついた。


 そうだね。友美はコクリと頷き、暁人をじっと見つめる。

 アイラインの引かれたくっきりとした双眸が、パチパチと瞬きする。薄いシャドウがオレンジの街頭に照らされ、その色を濃くする。チラチラと目尻に星屑のようなラメが光った。


「来週、」


 友美の口が開いた。暁人の視線は、ふいに花菜の方に向く。不安な表情をしながら、じっとうつむき、一点を見つめていた。暁人は、慌てて友美の方に目を戻した。


「同窓会ね。来週に決まったから、」


 口の中に残った甘みを、唾液が喉の奥に運んでいく。水を飲みたい衝動に駆られた。喉の奥が鳴る。乾いた口を潤ませるように、舌先で口内を撫でた。


「夏休みの最後の週に、中学校の視聴覚室を借りられることになったの。何人が来てくれるかまだ分かんないし、もしかしたら山中は嫌な気持ちになるかもしれない。それでもね、やっぱり出来るだけたくさんの人に来てほしい。そこに山中は入ってる。クラスメイトだもん。あの時、何もしてあげられなかったけど‥‥」


 友美の声は、涙混じりに震える。瞳に浮かんだ煌めくものを、暁人は見ないフリをした。彼女の気持ちは、十分理解しているつもりだ。今日もこうして、花火大会に誘ってくれた。

 その思いを無碍にしたくはない。



「暁人くん来れる?」



 花菜の細い体躯が、暁人の方を向く。しゃんと伸びた背筋の先に、つぶらな瞳が浮かぶ。薄っすらと茶色に染まった双眸は、夏の夜の景色を鮮明に映し出していた。



 決断しなければいけない時が来た。断られれば、もう誘わない。彼女たちの決心と思いは確かなものだ。


 潤む花菜の瞳を、暁人はじっと見つめる。


 勇気を出すことは、これほど苦しいものなのか。何年も逃げ続けることへの苦しみしか感じてこなかった暁人にとって、踏み出す痛みは信じられないくらいのものだった。

 それでも、喉の奥から込み上げてくる思いが胸を揺らす。簡単なことのはず、一度首を縦に動かせばいい。


 苦しむかもしれない、辛い思いをするかもしれない。それでも、ここまでしてくれたジュンや友美、そして花菜のためにも行きたいと思える。



 ジュンは、はっきりと首を縦に振った。声を発そうとした喉が、熱を帯びる。ピクピクとした痛みが、無意識に声帯を震わせる。



「‥‥分かった、行くよ」




「‥‥ホント? よかった」


 花菜が胸をなでおろした。目尻から、少しだけ涙が溢れる。



「良かったね、なーちゃん」


「友美、ありがとう」


 友美が、腰を屈めてベンチに座る花菜に視線を合わせる。カバンからハンカチを取り出すと、湿った花菜の目元を拭った。


「また、詳しい時間は知らせるから」


 ジュンも安堵したのか、はぁ、と息を吐き出した。ポケットからスマートフォンを取り出し時間を確認する。 


「それじゃ、もうそろそろ帰るか」


「あ、ママ呼ばないと」


 そう言って、花菜は慌てて母に連絡を取る。


 人気の失せた静かな広場に、小さな着信音が響いた。

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