この世界に転生なんてものはない
初投稿作品です。よろしくお願いします。
――この世界に転生なんてものはない。
夢見ていただけなんだ。剣と魔法の世界で、勇者になってかわいいヒロインを救いだす。そんなものに憧れていた。
誰だってそうだったはずだ。
アニメや映画、小説、ゲーム。その物語の中に入り込んで、かっこよく世界の窮地を救う。
魔物を倒す最強の剣、不死の力を得る伝説のドラゴンの血、願いを叶える魔法の杖。そんなものが、あっちの世界では溢れているんだ。
だけど、現実はどうだ? そんなことありえない。つまらない日常が、ただ無機質に過ぎ去っていくだけだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
電源の落ちた液晶の画面が、ひどく醜い顔を映し出す。羞恥を晒しだすスタンドライトを殴り飛ばしたい衝動に駆られる。
奥歯がギシリと鳴った。鈍い痛みが、握りしめた拳をそっと解かせた。
暁人は、椅子から立ちがあると、床に散乱したペットボトルを蹴り飛ばしながら扉の方へと向かった。薄暗い部屋では、扉の隙間から漏れる廊下の光だけが目印だった。
時間になれば、食膳が自室の扉の外にいつも置かれている。暁人が口をつける頃には大抵、料理は冷めきってしまっているが、食べるのに支障はない。
生ぬるい味噌汁をかきこみながら、スマートフォンの画面を開く。動画サイトには、バカをやったアホらしい動画ばかりが溢れていた。つまらない。そう思いながらも、その中でもマシそうなものをタッチする。ブルートゥースの電波を通じて、耳元のヘッドフォンから不快な笑い声が流れて出た。
暁人がこんな生活になったのは、中学三年生の夏頃だった。
それまでは、いたって普通の学生だった。友人とバカなことをして、好きなものを語っていた。クラスの中心なんてことはなかったし、陰気な集まりだったかもしれないが、それでも気のしれた仲間と過ごす時間はとても有意義なものだった。
だがその時は、突然訪れた。
ある朝、いつも通り学校へ行くと、自分の机の上が落書きされていた。実に、幼稚な言葉が、太いマジックペンでびっしりと書かれていた。
頭が真っ白になった。目の前で起きていることを処理しきれない。誰が、どうして、なんで。そんな問いかけだけが、ひたすら脳内を駆け巡っていく。
そうだ、タチの悪いイタズラだ。暁人はそう思った。
だから、
「やりすぎだなぁ!」
「しゃれになんないやつじゃん!」
「いやぁ、笑えねぇよなこんなの!」
そんな風に言えば、みんなは笑ってくれるはずだ。
「ごめん、ごめん、やりすぎちったわ」
そんな感じで、過度にしてしまったイタズラは、「冗談なんだ」と誰かが言い出してくれるんじゃないか。
そう期待した。
だが、暁人がクラスを見渡しても、誰一人として顔を合わせてくれない。みんな俯いたまま、自分は知らない、関与してないし、関わりたくない、頼むから話を振らないでくれ。そんな風に、わざと目を反らしていた。
どんよりとした嫌な空気が教室を支配していた。空調の音が、煩わしく耳にこびりつく。
「誰だよ。こんなことしたの」
誰に言うわけもなく、暁人は必死に声を出した。
その問いに誰も答えない。やがて、教室のあちこちからざわざわと声が上がる。
冷たく刺すような目線が、徐々に暁人に向けられた。
この場にいるのが辛かった。すぐにでも離れたかった。
もう帰ろう。そう思うと同時に、どうしてこんなことになっているのかを必死に考えた。
睥睨しても周りの反応は変わらない。向けられている視線に抵抗するように、カバンの持ち手をギュッと握り込んだ。
「おはよう」
横開きの扉が開いた。生ぬるい風が、教室の中を駆け巡る。冷え切った教室の空気は、どわっ、蒸し暑い外気に包まれた。
聞き覚えのある声に、暁人は振り返る。
「どうした?神妙な顔して」
そう言った春樹は、机の落書きを見つけると顔をしかめた。その表情が作り物であるとわかったのは、彼とは長い付き合いだったからだ。
まるで暁人の痛みを理解しているように、春樹は眉間に皺を寄せた。
辛いよな。分かるぞ。俺も同じような気持ちなんだ。そんな虚偽地味た様子で、春樹は暁人の方を見る。
「ひどいな。早く消さないと。おい、誰か雑巾持って、」
ドサっ。
重みのある音が、春樹の方から聞こえた。手に持っていたはずのカバンは、彼の胸の辺りから床に落ちていった。
滲んだ視界の中で、春樹がゆっくりと倒れていった。
ガシャン、と大きな音を立てて列を成していた机が弾けた。
衝撃で頭部をぶつけたのか、イッテぇ、と声に出しながら負傷部を擦っている。
衝撃で、カバンの中身が床に一面に散らばった。暁人は、慌てて中身を拾い上げると、教室を飛び出した。
「暁人!」
クラスメイトの誰かが、声を出した。誰だったのか暁人には分からない。ただ、そんな言葉を聞いている余裕もなく、暁人は廊下を走った。
それから、三年ほどだ。暁人は、部屋から出ていない。
閉ざされた空間で、時間が過ぎ去っていくのをやり過ごす。それは、穏やかなものではない。望まずして、社会から隔離されるというものは、精神的な異常を容易に引き起こすものだ。
家族との関係は壊れ、友人との関係も壊れ、学業を放棄した暁人は未来さえ失った。
ただ、生産性のないことをパソコンとスマートフォン越しにやり続ける。早く終わりにしたい。そう思ってはいるのだが、どうすることも出来ない。
思えば、真っ先に暁人を部屋から出そうとすることを諦めたのは、父だった。
始めの頃、毎晩、両親は暁人の部屋の前で説得を試みていた。何があったのか、どうして引きこもったのか。ワケを話してくれ、と優しく声をかけてくれた。ひと月ほど経ったある日だ、ついに父が声を荒げた。
「早く出てこい。何がしたいんだ」
正論だと思った。何がしたいのか自分でも分からない。どうしていいのか分からないのだ。
その後も、母は日を隔たりながらも声をかけ続けてくれた。ただ、その母もつい半年ほど前から一度も声を聞いていない。
ヘッドフォンを外したタイミングで聞こえてくる一階の家族会話。
当たり前にあったものが、一瞬で無くなった。
「なにがあったの?」
母の声が脳裏に木霊する。なにがあったのか。それが分かればこんなことになっていない。
どうしてあんなことをされたのか。
理由が分かれば解決もできるが、そのもっともらし理由すら検討もつかなかった。
今でも鮮明に、あの日のことを覚えている。机に書かれた文字が、ふいに記憶の底から這い上がって来る。
わざとらしい春樹の言葉が耳鳴りのように鳴り響く。
握りしめた箸を床に叩きつけた。空のペットボトルに弾かれベッドの方にまで飛んでいった。
窓に目をやると、カーテン越しに光が見えた。そうか、これは朝飯か。十時十八分を表示しているデジタル式の時計を見ながら、自分がついに時間の縛りからも隔離されてしまったのだと、暁人は思った。
冷えた朝飯を腹に入れ、食膳を部屋の外に運ぶ。両親は共働きなので、今、家には誰もいないはず。
ふと、下にまでは持って行ってもいいかもしれない。
そんなことを考えた。
一種の報いかも知れないし、精神的な緩和のための衝動だったかもしれない。
いつも部屋の前に置きっぱなしの食器を下に運ぶだけで、気持ちが救わる気がした。
階段を下ると、食膳の上でガチャガチャと食器が鳴った。青色の茶碗は、少しかけてかけて、白い部分がさらされている。
一階に下りるのは、数日に一度。風呂に入る時くらいだ。それも、家族のいない昼間に。
シンクに食器を置き、水道の蛇口を持ち上げる。冷たい水が手に弾かれる。ねずみ色のジャージに細かい水しぶきの模様が出来た。
そろそろ、服を洗濯に出さなくてはいけない。もう、どれくらいこのジャージを着ているだろうか。八月に入ってから変えていない気がした。
肩のあたりに鼻をあて、匂いを嗅いでみるが、まるで臭いか分からない。冷房の効いた部屋で過ごしているのだから、汗はわずかしか掻いていないはずだが、そもそも部屋の衛生状況が問題だった。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。慌てて水を止めようと、蛇口に触れる。誤って取手を引き上げてしまった。
水は、勢いを増し、吹き出す。茶碗の勾配を跳ね返った水が、暁人に襲いかかる。ビチャビチャになったジャージは、元から濃いネズミ色だったように重たく変色した。
ピンポーン。ピンポーン。
しつこくチャイムが鳴る。出る気もないので、階段を上がろうとした時、声がきこえた。
「暁人いるんだろ。出てこいよ」
聞き慣れない声が暁人の名前を呼んだ。数段、進んだところで足がふいに止まる。
「大声出しちゃダメ。逆効果だってわかんないの?」
「あぁ。でも、呼ばないと出てないだろ?」
「そうだけどさ、気持ち考えなよ」
女子の声の方に聞き覚えがあった。恐らく、中学に時の同級生だ。どうして、今さらうちに来たのか。そんな疑問を暁人は考える。
「でも、いるんだろ? 鍵とか空いてねぇかな」
「さすがに空いてたとしても、不法侵入でしょ」
「覗いて声かけるくらいなら」
自分が引きこもっているせいで、家族が家に鍵をかける習慣を失ってしまっていることを暁人は知っていた。
どうしよう。暁人の脳内がパニックになる。鍵を閉めなければ、彼らが家の中に入って来てしまう。しかし、今から鍵を閉めようにも、目の前に自分がいるのだと知らせてしまう。
登りかけた足が、先に進むか後退すべきか迫られる。手すりを握りしめた手が、じんわりと汗ばむ。
「空いてるか、だけ確認しよう」
開けられてしまう! そう思った瞬間、手すりを掴む手が滑る。バランスを崩した暁人は、必死に抗おうと踏み出した。しかし、あろうことか階段を踏み外してしまう。
暗い階段が一回転した。消えた電球を眺めながら、ゆっくりとした時間が流れる。
落ちているんだ。そう気づいた次の瞬間には、背中に強い衝撃が走った。
呼吸が止まる。背中に来た痛みは、やがて全身に回った。グゥっと嗚咽を吐き出しながらも、暁人は外にいる二人にできれば気づかれたくない一心で声を殺した。
だが、暁人の願いはかなわない。
「おい、なんかすげぇ音しなかったか?」
「うん。大丈夫かな」
「普通にやべぇだろ。さすがに開けるぞ」
玄関が開くと、暗い廊下の先に一筋の光が伸びた。慌てた様子で、こちらの方に駆け寄ってくる。声をかけてきているが、暁人にはあまりよく聞こえなかった。ぼやっとした二人の輪郭は、随分と大人びたものに思えた。