僕はまともです。
「君が僕を選ばないという愚かな選択をしたばかりに、何の罪もない彼は死んでしまった」
少年は包丁片手に突っ立っている。彼の胸からは夥しいほどの血が流れていた。死んだ。死んでいる。彼は間違いなく死んでいる。
どうしてこんなことになってしまったんだろう? せっかく彼が泊まりに来たのに。少年を家に招きいれたのが失敗だったのだろうか。
「彼は君のせいで死んだ。君が僕の告白を拒絶したから、彼は死ぬハメになったんだ。あぁ、君はなんて罪深い女なんだ」
否定したかった。でも声が出なかった。少年のぞっとするほど冷たい目に、金縛りに遭ったみたいに動けなかった。
私を見ているようで、何も見ていない。虚ろな目だった。
「言っておくけど、これで終わりじゃないよ」
「えっ?」
少年が何を言っているのか分からなかった。否、本当は分かっている。脳は理解している。感情が理解するのを拒んでいるだけだ。
「僕は君が関わったすべての人間を一人残らず殺すつもりだ。君の両親や友達、同僚、隣人、コンビニの店員、ただすれ違っただけの人、みんな殺す。警察を呼んでも構わない。来る前にこのアパートの住民を全員殺すから。何人殺せるかは分からないけど、少なくとも何人かは死ぬ。君のせいで」
「止めて! もう誰も殺さないで。お願い、何もしないで」
私のせいで人が死ぬのは嫌だ。私のせいにされるのも嫌だ。
「誰にも死んでほしくないかい? だったら話は簡単だ。僕を選べばいい。そうすれば誰も死なないよ」
あぁ、少年は私を脅している。ここで拒絶すれば、少年は何の迷いもなく人を殺すだろう。彼を刺したように。
嫌だ。……そうか。だから少年は私の目の前で彼を殺したのか。私に恐怖を植え付け、自分のものにするために。
「――悪魔」
少年は顔を歪めた。目には怒りが宿っている。怒りたいのは私のほうなのに。
「僕を悪人扱いするのはやめろ。君と出会ったから、僕は殺人を犯したんだ。君のせいで手が汚れてしまったんだ。どうしてくれる。君のせいで僕の人生は台無しだ」
忌々しそうに舌打ちをして、少年は包丁を投げ捨てた。カランと音を立てて、私の足元に転がった。拾える距離だ。
少年は澱んだ目で、私を見ている。苦しそうだった。酷く辛そうだった。何かを失ってしまったのだろう。人として大切な何かを。
「生まれつきの殺人者なんていない。ふとしたきっかけで、誰もが殺人者になりえるんだ。たとえば僕は君と出会ったことで、君を好きになったことで人を殺した。君だって、僕が彼を殺したことがきっかけで、僕を殺すかもしれない。……僕は生まれながらの狂人なんかじゃない」
少年は頭を抱えて座り込んだ。視線は外れた。今なら気づかれずに包丁を拾える。私は手を伸ばした。その瞬間――。
「――僕はまともだ。いや、まともだった」
耳を澄ましてなきゃ気づけないような、弱々しい声が聞こえた。消え入りそうで弱い声なのに、妙に力強く響く声。
いつの間にか少年は私の手を見ていた。その目を見て気づいた。彼が殺されたいと願っていることに。
だから包丁を私に向かって投げた。きっと悔いている。人を殺したことを。悪魔に見えたはずの彼が、今は何処にでもいる普通の少年に見えてきた。
包丁に伸ばしかけた手を引っ込め、彼に近づく。彼は驚きに目を見開いている。なんだかおかしかった。
「ふふっ」
大好きな人を殺されたのに、どうして私は今、彼を抱きしめているのだろう。どうして私は今、彼を愛しいと思っているのだろう。私は壊れてしまったのだろうか。いや、違う。奪われたのだ。彼に大切な何かを。
もしかしたら私はずっと望んでいたのかもしれない。彼と初めて会ったときから、狂おしいまでに愛されることを。
血を流す男に目を向ける。あれほど愛したはずなのに、何も感じない。今は目の前の彼がどうしようもなく愛しい。
「私は君を許す」
死よりも重い罰。それは許すこと。彼はきっと苦しみ続けるだろう。彼はずっともがき続けるだろう。良心の呵責に押しつぶされて、未来永劫、暗闇の中を彷徨い続けるのだろう。
「私はあなたを選ぶ。――愛してる」
甘い口付け。強張る体。怯える瞳。
「なぜ怯えてるの? 私が欲しいと望んだのはあなただ」
彼の耳元で囁く。体がびくりと震えた。可愛い。可愛い。
「安心して。私も――あなたが欲しい」
彼はもう私からは逃げられない。二度目のキスは血の味がした。