氷山、悪魔、マスク。
とんかつは豚を最も美味しく食べる為の手段だと私は思う。衣をつけ油でゆっくり揚げることで、肉は柔らかさと旨味を残した黄金色の塊となる。そのまま焼くソテーではとんかつほどの輝きは無いように思う。
しかしながら、私は未だ極上と評価されるとんかつを食べたことがない。魔界には新鮮な銘柄豚は滅多に流通せず、稀に流通することがあってもそれを手に入れ極上のとんかつに仕立て上げる職人がいる店は少女の私にはとても行くことはできない超高級店なのだ。
人間界には沢山のとんかつの名店があるらしい、私の夢は人間界に行き、少し背伸びすれば誰でも行くことができると言われている下町と呼ばれるエリアの名店で極上のとんかつを食べることだ。
人間界に行くには三つのルールを守らなければならない。一つ目は人間に変身することのできるアイテムを身に付けること、二つ目は決して人間に悪魔だとバレてはいけないこと、三つ目は人間に悪魔だとバレると罰を受けること。
ついに人間界に行ける日がやってきた。魔界の出口で人間に変身できるアイテムを借りると、それは私の目的に一番そぐわないものだった。
「あのー、別の変身アイテムはありませんか?確か前はルーズソックスとかあったと思うんですが。」
「今はルーズソックスなんてつけてる女はいやしないよ。逆に目立って仕方ない、最近は花粉症の季節だし貸し出せる変身アイテムはマスクだけになってるよ。」
「私はとんかつを食べに人間界に行くんです。マスクなんてしてたらとんかつが食べられないじゃないですか。」
「それは困ったな、うーん、少しズラして隙間から食べる分にはギリギリセーフだと思うよ、どれぐらいまでセーフなのかはやって見ないとわからないかもけど。」
「もし、アウトだったらどうなるんですか?」
「変身が解けて周りの人間に悪魔だと気づかれるだろうね。その時は厳しい罰を受けてもらう。くれぐれも気をつけて。」
変身できないと人間界に行くことはできない、おいしいとんかつを食べることで頭がいっぱいだった私はなんとかなるだろうと考えマスクを着用する。悪魔のチャームポイントである背中の小さな羽とお尻の尻尾が消えるのを確認すると人間界に旅立った。
下町の住宅街にありながらも行列の絶えないとんかつの有名店「四角亭」少しだけ値は張るが私にも出せない金額ではなく、厳選された銘柄豚を長年修行した職人が一つ一つじっくりと調理する名店だ。
すでに行列が出来ており最後尾に並ぶと列を整理している店員がメニューを渡してくる。特ヒレ定食、特ロース定食、ヒレ定食、ロース定食の四つのメニューが並んでいた。とんかつにも色々種類があることを初めて知り驚いた。そもそもよく行く魔界の食堂ではとんかつはとんかつという一種類のメニューしかない。メニューに穴が空くほど見つめて悩んでいると後ろに並んでいた男が話しかけてきた。
「四角亭は初めてかいお嬢さん。」
「はい、そうなんです。どれがどう違うのかよく分からなくて。」
「じゃあ簡単に教えてやろう、まずはヒレにするかロースにするかを選ぶんだ、見ての通りヒレの方がちょっとだけ高い。ロースに比べて脂身が少なくサッパリしているから女性はヒレをに頼む人の方が多いかな。」
「じゃあ私はヒレにしようかな。」
「いやいや、ちょっと待ってくれ、確かにヒレも美味しいし女性はヒレだと言ったが四角亭の真価はロースにあると言っても過言じゃない、俺たち常連はみんなロースを頼むんだ。それも絶対特ロースだ。」
「そこまでオススメするんだったらロースにしようかな、ちなみに特になると何が違うんですか?」
「よく聞いてくれた。特にするとな、まずでかくなる。」
大きくなるということはマスクの隙間から食べなければならない私にはよくないことだ。
「あまり大きさにはこだわらないので私は普通のロースでいいかな。」
「それを選んでしまうのが素人さんなんだな。いいかい、とんかつはでかくするとそれだけで美味しくなるんだ。口の中で溢れる肉汁の量が全然違ってくる。だから俺たち常連は絶対に特を頼むんだ。四角亭で特を頼まないのは食される豚に対しても失礼ってもんだ。」
中々来ることのできない人間界でのとんかつだ。そこまで言われるのであればマスクがはずれるのではないかという不安もあるがせっかくだし特ロースを食べてみたくなってくる。どうするか散々悩んだ末に、着席すると特ロース定食を注文していた。
「特ロース定食でございます。」
味への期待と、大きさへの不安が入り混じった中、目の前に置かれたとんかつは予想を上回る大きさだった。マスクを着けたままこれを食べることが果たしてできるのだろうか。いや、悪魔の罰は恐ろしい、どんな罰が待ってるか分からない以上やるしかないのだ。ちなみにとんかつを食べないという選択肢は当然のように存在しない。
とんかつとの戦いが始まる。衣の色はいつも食べているものより白いように思えた。おそらく大きなとんかつは低温でじっくりと揚げられている為にこのような色になるのだろう。そして肝心の大きさ、いくつかに切られたとんかつは端っこの方が真ん中に比べて小さいことに気づく、まずは比較的小さな端っこから食べることに決めた。これくらいの大きさならマスクを少しずらすだけで口の中に入れることができそうだ。どれくらいまでマスクをずらすことができるか分からないから少しずつ大きくしていくことにした。
卓上には塩とソースがあったのだが、今までとんかつにはソースをかけてきてた私は迷わずソースをかけ、マスクに隙間を作ると口の中に滑り込ませた。一噛で溢れ出る肉汁は私の常識の中にあるとんかつの甘さとは思えないほどに甘い、ソースからは微妙に柑橘系の酸っぱさが漂いとんかつの甘さを一層引き立てている。これは間違いなくお米が進む。そう思った私はお茶碗を手に持つ、米を食べるにはマスクは邪魔だ。迷わずマスクを外して米をかきこんだ。口の中で肉と米が混じり更に美味さの次元が跳ね上がる。これが極上というものか、米を食べるためにとんかつがあり、とんかつを食べるために米があった。
背中の小さな羽とお尻に尻尾が生えた私に対して、店員が近づいて来る。人間は悪魔に冷たい、きっと店から追い出されてしまうだろう。まだとんかつを一切れしか食べていないことが心残りだった。
「ご飯のおかわりいかがでしょうか。」
私は罰を受け魔界の氷山に閉じ込められた。当分は此処から出ることが出来ないらしいが、次なる夢ができた私は苦ではなかった。今度はサッパリしているというヒレも食べてみたいのだ。




